天使のような君を見た時、俺は思わず神を信じた



 フウの細く柔らかい指先を握り締めれば、フェリオにはふたりで森に向かった遠い思い出が浮かぶ。
 幼い子供が入り込むには、かなり森の深淵だったには違いないが、当時は父親に連れられ森を散策していた事もあり、今考えても慣れた道のりだった。
 足が縺れる事もなければ、息が上がる事も迷子になる心配もない。
 唯、ぎゅっと握ったフウの手を離さないように、それだけは必死で考えていた。
本当は握っているだけでドキドキしていたのだけれど、フウの手を離す事など考えも付かなかった。

 姉に良く似たふわふわの金の髪。キラキラと賢そうに輝く翠の瞳。そして、ふんわりと微笑む表情。

 フウに出会った時、お伽噺に出てくる天使のようだと、フェリオは思った。そうして、全知全能の存在である神に仕える天使と同じように、可愛いだけではなく賢い少女に惹かれた。
 フウに逢うと、彼女の興味を引きたくてそればかり一生懸命になる。そう、あの綺麗な石を見せた時だって同じだ。後先を考えず、フウの笑顔を独り占めにしたくて彼女を誘った。
 幼稚な思考で、いつも父親が様々な危険から己を守っていたことすら思いもせず、父といるようにフウを連れ出した。
「何処まで行くのですか?」
 森の奥に入り込んだ事は、フウにもわかっていたのだろう。少しだけ不安そうな表情をしていた。ちょっと出掛けてくると飛び出してしまった事への罪悪感と、知らない場所へ来てしまった事への後悔が澄んだ瞳から窺える。
 フウは王女さまであるのと同時に、とても優しい女の子なのはわかっている。城の従者達にいらない心配を掛けたくないと常に心を配っている事も知っていた。
 だから、彼女が不安そうなのは当たり前で、なのに当たり前の事が気に入らなくて、わざわざ挑発するような言葉を口にした。
 せっかく見せてやろうと思ったのに、せっかくふたりきりなのに。心の中には独りよがりのつまらない事でいっぱいだったのだ。

「もう少し奥だ、なんだもう疲れたのか?」

 呆れた顔のフェリオに、フウは頬を膨れさせる。どんな表情も可愛くて、だから罪悪感なんて代物は欠片も湧いて来なかった。
「こんな事で、疲れたり致しません!]
 フェリオの手を振り払い、フウは両手を腰に当てて声を張った。
「フェリオがおっしゃる事を聞いておりましたら、こちらの方が近いんじゃないかと思っただけですわ!」
 フウが指さしたのは、人が歩く為に道ではなかった。今登ってきた道から横に外れて、一直線に山を越えていく獣道。草が動物によって踏まれている様子は、彼女にとて人間が歩いているのだと、そう思えたのだろう。
 けれど、フェリオはそれが大きな間違えであると知っている。
獣が通る道は、本来人は踏み入ってはいけない場所。何故なら、必ず動物と出合ってしまう。狩りをするつもりなら話しは別だが、無防備な状態で遭遇すれば命に関わる。
 森にいるのは、可愛らしいもの達ばかりではない。

「違う、そっちは駄目だ、フウ!」

 けれど、先程の挑発がフウの気持ちを曲げてしまっているらしく、彼女はさっさと横道を上がっていく。慌てて追いかけ、彼女の手を握って引き留める。
 フウは顔を紅潮させて怒っている。
「放してください、フェリオ!」
 凛と言い放つフウに、一瞬怯み手を離せば、彼女は振り返りもせずに獣道を先に進んでしまう。彼女が怒っているのがショックだったのではなく、幼いながらも王族としての威厳を持ったフウが酷く近付き難い存在に見えていた。
 さっきまで、触れていたフウの指はただ遠かった。自分の指をギュウと握りしめ、俯いた。
 けれど、遠くから響く蹄の音にハッと顔を上げて、フェリオはフウを追った。
 

   ◆ ◆ ◆

 そんな意地を張る事じゃないとわかっていたけれど、フウは黙々と山を登った。
フェリオに対して、自分が時々酷い意地っ張りになっているのは知っていた。
 後になれば反省するのに、他の誰にもそんな事をしないのに、どうしても抑えられない。それが、フェリオに対して甘えているのだと気付いたのは随分と後の事だ。
 だから、もう一度早く自分を引き留めてくれないだろうかなどと、都合の良い事を思いながら細い山道を歩いていた。
 そうしているうちに、地面が揺れた。何も知らない私は、それが恐ろしい危機だと気付きもしない。
「…なんですか…?」
 キョロキョロと周囲を見回しても、無知な私には何もわからなかった。それでも、何かしら異常を感じて立ち止まる。フェリオの元にとって返さなかったのは、本当にただの意地でしかなかった。
 けれど、そんな意地は次ぎの瞬間に吹っ飛んだ。
僅かに傾斜のある場所から大きな物が次々と飛び出し、こちらへ真っ直ぐに向かって来た。それは鹿の群で、いつもなら遠くでのんびりと草を食む様子が可愛いらしかったりするのだけれど、今は違う。
 繰り出される前脚が小さな視界いっぱいに広がった。恐怖で動けない私はただ目を見開いて立ち尽くす。
 怖くて怖くて、心の中でフェリオの名前を呼ぶので精一杯だった。
「フウ…!!」
 声がして、突き飛ばされるみたいにして地面に転んで。その間地鳴りがし続けて鹿達が通り過ぎていくだけなのだから、僅かな時間だったのだろうけれど、永遠に続くようにも思えた。
 遠ざかっていく地鳴りを見遣り、フェリオが身体を起こす。その気配に、仰向けになっていたフウはギュッと閉じていた目を開き、息を飲んだ。
 フェリオの顔から血が流れ落ちていた。
 鼻の上についた真一文字に紅い線から、右と左に別れて顎から地面に滴っていた。自分を庇って負った怪我であることは一目瞭然で、それだけで涙が溢れてくる。

 フェリオは駄目だと言ったのに、どうして私は我が侭を言ってしまったんだろう。

「ふぇり…「早く此処から離れるんだ。」」
 けれど、フェリオは怪我などかまう事もなく、転んでいた私の手を引いて起きあがらせる。服についた泥など全く気にならなかった。後悔で胸の中がいっぱいだった。
「だって、血がいっぱい…。」
「こんなの平気だ。」
 汗と同じ様に、フェリオは袖で血を拭う。転んだ時の、肘や脚についた傷ではないのだ。拭っても拭っても、血は止まらない。
「でも、だって…。」
「様子が変だ。
 捕食者に追いかけられてるか、山に異変でもない限り彼奴等があそこまで慌てるはずがない!此処にいちゃ駄目だ!」
 必死な様子のフェリオに、ただ腕を引かれて走った。
その後の事は本当は良く覚えてはいないのだけれど、鹿達が逃げ自分達も逃げた直ぐ後に、大きな地滑りが起きたのだという。
 けれど、覚えているのは、心配して探しに来た城の者達やフェリオの父親に、ふたりともこっぴどく叱られたという事だ。それでもフェリオは「自分が無理に連れてきたのだ」と言い続け、怪我の原因を告げようとはしなかった。
 私はただ泣き続け、フェリオは涙をみせなかった。






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