笑えと言われても、なかなか笑えるものではない。 けれども、彼女の笑顔は花のようだ。 花開く場所 「ふう。」 ユウリィが、薄く色づいた可愛らしい口元を手で隠しながら小さく溜息を付いた。 「どうしたの?ユウリィ。」 彼女のそんな小さな変化に、ジュードが反応する。 露骨に顔を顰めて、彼女を覗き込む。 「あ、いえ、なんでもないんです。」 にこっと笑うと、ジュードは少しだけ心配そうな顔をしながら、ユウリィがなんでもないって言うのなら…なんて言葉を続けて、笑う。 「おい。」 「おい。」 「おい、何を見てるんだ?」 三回問われて、アルノーはやっとラクウェルに向き直った。 彼女は先程から熱心に行っていたスケッチを終えたようで、道具を片付けながら話し掛けてくる。ラクウェルの絵はなかなかに独創的で、それを見損なったのは色々な意味で残念な気がした。 視線は己に向いたものの、返事をしないアルノーに、特別の注意を払うでもなくラクウエルは話し掛ける。 「どうした?実は考え事をしていたか?」 『いや、何も考えずに阿保面で眺めていただけです。』 答えを返せば、きっと彼女が呆れるような言葉を脳裏に浮かべてから口を開いた、 「なんだか、おままごとを見ているようでさ…。」 比較的整った部類の顔を少々顰めて笑う。栗色のやわらかな前髪が額にかかると、掻き上げてそのまま、腕を膝の上に置く。 「あの二人がか?」 「うん、まぁ、なんてぇのか、会話とか諸々…。」 「わざとでは無いのだろう?二人とも一生懸命だと思うが。」 兄のこと、アームの事悩み事が尽きないであろうユウリィと、そんな彼女が心配で仕方ないジュード。 大好きな主人にまとわりつく子犬のように、見えなくもない光景は、ラクウェルにとって微笑ましいと思われるた。 「溜息を付いたら、相手が心配するに決まってる。 本気で相手に心配をかけまいと思えば、最初からそんな事はしないだろうし、口で大丈夫と言ったところで、態度がおかしければ、相手は変に決まっている。 それで引き下がる位なら最初から聞かなきゃいい。…な〜んて思っちまうと、どうもね。」 「それは、大人の見方というよりも、随分ひねくれた見方だな。」 呆れたように、ラクウェルは笑った。 「感情というのもは、そう単純なものでもないだろう?」 緩い笑みを浮かべて自分を見る彼女の表情に、急に気恥ずかしさを感じてアルノーはふいと視線を逸らす。 彼女の言いたい事はわかるし、今自分が言った事が子供の言い訳のようだという事もわかる。それでも、おこちゃま二人を眺めていると心がしょっぱい感じがするのだ。 おまけに空は青い。見上げていると、益々なんとも言えない気分になった。 「アルノー!ラクウェル!」 大きく手を振りジュードが駆け寄ってくる。 「もう、休憩終わりにする?」 「そうだな、絵も描き終わったし。どうするアルノー?」 「ああ。」 そっぽを向いたまま気の無い返事をするアルノーに、ラクウェルは少しだけ溜息を付いてから、クスリと笑う。 「私はもう少し休憩したいな。」 え?という表情でアルノーもジュードも彼女の顔を見つめた。 「そうだな、ほらそこの湖、随分綺麗だ。少し散歩したいと思う。」 「美しいもの…探しですか?」 少し遅れて近づいてきたユウリィが尋ねると、そんなものだとラクウェルは笑う。 素敵ですねと付け加えた。 「さ、行こうか、アルノー。」 「は?」 すくっと立ち上がったラクウェルにアルノーは、瞬きを繰り返す。 「散歩だ、行くぞ。」 「どういうつもりだよ。」 すたすたと湖のほとりを歩いていくラクウェルの後を子犬のごとくアルノーが追って行く。 ファルガイアのものとは思えないほどの、透明度を持ったその湖は青く、ほんの少し目を凝らせば、魚達が群れを成して泳いでいるのさえ見えた。 奥底の方で揺らめく水草は比較的浅い事を示していて、ラクウエルが向かっている方向には、大きく湖に張り出した足場があり、生活の場としても充分に利用されているこをを感じさせてくれた。 そう言えば、此処にくるまでに小さな村があった気がする。 「散歩だ。湖面も光を反射して大層美しいな、そう思わないか?」 ラクウェルは、屈み込み湖を見つめていた。 風もなく波もない湖面は、彼女の柔らかな笑顔をそのまま写して返す。その横になんともしまりのない男の表情までおまけして。 なんだか酷く、情けない。 「そりゃあ…綺麗だけどさ。」 「なんだ、素直に感想も言えるのだな。」 湖面の彼女はクスクスと笑い、間抜けな顔は変わらず間抜けだ。 「あのなぁ。」 「そんな気分の時もある。」 ぱしゃんと遠くで魚が跳ねた。銀色の鱗が一瞬光に反射して水面に消える。小さな 波紋がいくつも出来て、消えていく。ひとつ、ふたつ、数えてみるとあちこちにあった。 「……心が奇妙にざわめくのは、私も同じだ。」 ふいに顔を上げた彼女の大きな瞳が、自分を見つめた。柔らかな色は、長い睫毛の中で湖面のように輝いている。 引き寄せられるように顔を近付けて、大きな水音に振り子時計のごとく身体を戻した。 さっきほど見えた、足場に数人の娘達が笑いさざめきながら集っていた。 何が可笑しいのか、クスクスと笑いあう鈴のような声が、少し離れたココにも聞こえてくる。軽やかで耳元をくすぐられるような響き。意もなくアルノーはそれに目を移した。 太陽が輝く中。娘達の露出された肌は光を弾き、いっそう一目を引き、華やかだ。時折、水面に大きな波紋が生まれ、飛び散った水滴の輝きが光を反射する。 ああ、水音は、彼女達がその素足を水面に投げ出した音だ。 そして、ラクウェルの視線を感じて慌てて、視線の軌道を修正した。 「い、いや、俺は見とれてなんて…。」 言い訳じみた言葉を口にして、アルノーは自分がチキンであると再確認する。しかし、ラクウェルは怒った風ではなく、視線を娘達に移した。 娘達の声を乗せた風はやんわりと彼女の髪を揺らす。 「随分と可愛らしいな。」 ポツリと彼女が呟く。 「ああやって、集っているとまるで、花が咲いたようだ。」 「あ、ああ…。悩み事はなさそうに見えるな。」 先程のバツの悪さを覆う為の言葉だったが、ラクウェルはすっと目を細めた。 「私だって思わないでもない。何もなければ、あのように笑えるのだろうかとかな。」 コートに覆われた彼女の肢体。 形良い唇は、微かに笑みを記そうとしていたけれど。 「ごめん。」 アルノーの呟きに、ラクウェルは今度こそ柔らかな笑みを浮かべる。 「お前にあやまられたら、私は立つ瀬が無いと思わないか?」 「いや、有史以前から、いい女を横に置いて別の女に見惚れた男は土下座をする事になっている。」 視線は明後日の方に逸らし人差し指を立て、偉そうにのたまうアルノーに、ラクウェルは目を丸くした。 「どういう理屈だ。」 「へ理屈…。」 まん丸な目は更に大きくなり、ぶっと噴出し掛けて口元を抑える。 そして、アルノーのバツの悪さを流してくれるかのように風が吹き、ラクウェルの髪を大きく揺らす。剣を自在に操るとは思えぬほどの細くて綺麗な指が、その髪を押さえた。 さぞ、綺麗なのだろう。 屈託なく笑い、その肢体を惜しげもなく日に晒す彼女も…。 でも、今それを思うのは、規則違反だ。 自分が素直な感情とやらを何処かに置き忘れてきたように、過ぎてしまったものは二度と取り戻すことなど出来はしない。たとえ、それがどんなに心をざわめかせるものであったとしても。 再び吹いた風は、娘達の悲鳴を運んだ。 すわ、魔物でも出たかと振り返った二人の目に、風に舞う帽子が目に写る。 こちらの方を向き叫ぶ言葉は、微かにしか意をくみ取る事は出来なかったが…。 「あれを捕まえればいいのだろうな?」 ラクウェルは湖の方へ、帽子へと手を伸ばす。 「こういうのは、男の役目。」 その上を、するりとアルノーの手が伸びた。しかし、風に乗る帽子は気まぐに動きを変える。 「あれ?」 掴めそうで、遠のくそれに、ついつられる。もう少しと手を伸ばすと身体はズルリと前に傾いた。 「うわっ!?」 湖面に傅いたアルノーの身体が、一瞬支えを求めてラクウェルの身体に触れる。けれど、手は彼女の身体を反対の方へ押し返すように動いた。 次の瞬間、湖に大きな水柱が上がった。 「何故だ?」 それは、村娘達の好意で宿を宛ってもらい、素っ裸に毛布を被ったアルノーが三度目の嚔をした時に告げられた。暖炉の前で衣服を乾かしていたラクウェルは、その手を止めてアルノーの顔を覗き込む。 「娘さん達にいいトコを見せようと思いまして。」 アルノーの言葉にラクウェルは、眉を潜めた。 「私が問いたいのは、そんな事ではない。どうして、あの時私に掴まらなかった?」 一瞬、ぎょっと顔を強ばらせてから、赤くなった頬を隠すようにアルノーは毛布に口元を埋める。 「そうだっけか?」 「驚いたが、嬉しかった。私を庇おうとしてくれたな。」 彼女の唇が、毛布からはみ出した額に触れる。母親が幼い子供にするようなやさしい口付け。 まだ、生乾きの髪が額や首筋にまとわりついていた拭きとることが出来なかった水滴が、ラクウエルの頬を濡らし、彼女は小さく呟く。「冷たい。」 「ラクウェルは、暖かい。」 「私は、濡れていないからな。」 微笑をうかべる顔。 それを手放したくなくて、アルノーは毛布の端から手を伸ばす。乾いている柔らかな髪に腕を回し、綺麗な頬に指を滑らせると、なんだか安心した。 「まるで、幼子だな。」 「…。」 アルノーは、滑らせていた指を彼女の顎に添えて、ふっくらとしたその唇に自分のものを重ねる。唇もほんのりと温かい。 「子供はこんな事しない…だろ?」 悪戯じみた笑みを口元に浮かべて笑うと、アルノーの両手の中にひっそりと収まってしまうほどの小さな顔には、朱がさしていた。 「そういう所が子供じみていると言うのだ。」 余裕のあるいつもの言い回しでは無く、少し焦りを感じる声色。少しだけ伏せられた睫毛から垣間見える瞳は、揺れている。 ゾクリと何かが背中を走る。 自分が素肌の上に毛布を羽織っていたのだと気付く瞬間。 「…いや、……子供じゃない…。」 声が上擦った。 「なんだと?」 彼女の顔は抱いたままで、後方に引いた腰の動きでラクウェルは察しがついた。 自分の頬に添えられている手の甲に、自分の手を重ねるとアルノーの方が真っ赤になる。彼女に手を押さえられて逃げられない状態に、色々な意味で汗が出た。 「ホント、不味いから…、お前に嫌われたくないし…。」 ぷっ。 至近距離にあったラクウェルの唇から、息が漏れる。 両手を放すと、アルノーの胸元に顔を埋めてラクウエルは笑い出した。胸板に両手を押しつけ、声を出して笑う。 「おまっ、そういうからかい方は…。」 未だ焦りと共に、吐き出されるアルノーの言葉は掠れていた。 「すまん。くくっ。」 何の躊躇いも屈託もなく、心のままに笑う彼女の顔。 自分の腕の中の笑顔が可愛らしくて。まるで、そう彼女が言っていた。『花が咲いたよう』って奴だ。 その場所が自分の腕の中だなんて、とんでもなく愛しいんじゃないか?。 ふいに、綺麗に咲いた花が自分の方を向くとこう告げた。 「私がお前を嫌うはずがなかろう?」 俺は願う。 いつまでも、彼女の笑顔の花開く場所でいられますように。 〜Fin
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