楽園の真実


 成歩堂なんでも事務所に所属するようになって、王泥喜は確信した事がある。
 成歩堂龍一という男は、考えているようで何も考えていないのと同じく、考えていないように見せかけて、実に細かく画策する男だという事だ。
 最も、彼の友人にいわせると其れを(ハッタリ)とか(出たとこ勝負)と呼ぶらしい。

「紅葉が随分綺麗だって、知っていたかい?」

 事務所に顔を出した響也に、成歩堂はそう話し掛けていた。受付兼用である王泥喜の机と向側にあるソファーに、ひっぱり込むと膝をつき合わせて話し込む。ニコニコといつもの喰えない笑顔を浮かべて話し掛ける成歩堂に、最初のうちだけは怪訝そうな表情だった響也が、身を乗り出して聞き入っていくのが見えた。
 時折、大きく何度も頷いているのが怪しい。
 王泥喜は嫌な予感に襲われつつも、雑用に追われてそのまま捨て於いてしまう。ともかくも、これが禍の元。
 作業が終わり、一息ついた頃にはすっかりと成歩堂に洗脳されてしまった響也が(紅葉)を見に行こうと騒ぎ出したのだ。
 昼間はそれなりに上がっている気温も、朝夕にはすっかり冷え込んで来ているから、山深い場所ならば確かに紅葉が綺麗だろう。
 景色はいいけれど…王泥喜は、目の前の男に溜息を吐きつける。天才検事なんて呼ばれているのに、時々大事な事をスッポリと落とし歩いて行く男だ、アンタは。

「何考えてるんですか? 
 この季節に行楽地なんて、どの面下げて行くつもりです?
元ガリューウェーブのボーカルでしょ、教科書に載るほどの国民的スター様じゃなかったんですか?」

 嫌みったらしく告げてやれば、碧い瞳を眇めて眉を吊り上げる。
「曲が嫌いだとか言うくせに、こんな時ばかりそういう言い方するんだ?」
「事実と違いましたら、謝りますけど?」
 売り言葉には、買い言葉。どうせ、俺が買えるものはこんなもの位だ。
 我関せずと向側のソファーから様子を伺いつつ、明らかに嗤っている親父が憎い。
「じゃあ、人がいないなら行くんだな!」
「休日に人がいないはずないでしょ、有名な行楽地なんじゃないんですか?」
「人がいないなら行くんだな!」
 同じ台詞を繰り返し、響也は王泥喜を凝視する。質問を誤魔化すなと言う事らしい。誤魔化したつもりはない、真実を告げただけだ。けれど、響也は納得しそうにないので、王泥喜は渋々頷く。
「行きたくないとは言ってないでしょ。」
 ぷいと横を向いてそう付け加えてやれば、喉を鳴らす音がした。猫かアンタは。
「僕はおデコくんと行きたいな。」
 鼻歌交じりの呟きに、王泥喜は微かに紅潮した。

       ◆ ◆ ◆

 そんな出来事のあった次の週。平日に、王泥喜は響也の背中に張り付いてバイクの後ろにいた。向った先は、先週話題に上っていた『紅葉』の綺麗な行楽地だ。
土日に急な出勤をお願いされて、それもさしたる仕事があった訳ではなく、みぬきの面倒を見た程度のものはずだったのに、代休だと告げられた。そうして、間髪入れずに響也からのお誘いだ。
牙琉検事と成歩堂の間でどんな密約が交わされたのかは知らないが、彼等が言うように偶然だったはずがない。
 ちょいとつついてやれば、響也の動揺を見抜く事など赤子の手を捻る程度のものだったが、王泥喜は敢えてそれをしなかった。とんでもねぇなぁと思う反面、響也の行動が確かに嬉しい。
 所詮、恋人同士の間柄。
用事なぞなくても、一緒にいたいと思うのが普通なのではないだろうか。それも普段は逢う時間が少ないという制約付きだ。
まぁいいか…で済ましてしまった王泥喜に罪はないはず。

ただ、

ヘルメットで覆われた視界から見える鉛色の空に、遠出だけは反対するべきだったかと後悔した。歪曲した道は先の景色は見えないが、遠くに見える景色が白い。霧に見えるが、あれはきっと雨だ。
今は遠くに見えるけれど、風向きと目的地の方向を考えにいれれば、あの中に突っ込むのは時間の問題ではないのだろうか?
その事を伝えようと、腕に力を込める前にバイクはふいにスピードを緩めた。あれ?と思う間もなくバイクは路肩に止った。
エンジンは駆けたままで、響也は両足でバイクを支えて、メットのシールドを跳ね上げる。
視線は、王泥喜が見ていた山々に向けられていた。
「検事?」
「やばいね、空模様。」
 ああ、気付いてたんだ。
王泥喜は、腰にしがみついた状態で、響也を見上げる。フルフェイスのメットからは、彼の碧眼だけが覗き見え、その色に王泥喜はドキリと心臓を鳴らす。
響也は綺麗だ。
一般的な常識に照らし合わせてみても、そのパーツのどれをとっても端整に整っている。彼の腰を抱え込んでいる指先が、ジンと熱を帯びて王泥喜は慌てて思考を振り払う。
そんなこと考えてる場合じゃないだろう。
「どうします、引き返しますか?」
「うん。どうし…え。嘘?」
 響也が片目を眇めた。軽くスロットの上に置いていた掌を空に向ける。何だと王泥喜が問うより先にポツリとメットに雨粒が当たった。
ポツン、ポツンと音の外れた合いの手みたいだった雨は、あれよあれよという間に乱れうちに変わっていく。
風向きを読み間違っていたのか、雨に追いつかれたのか、いつの間にか雨雲に囲まれていたらしい。見上げれば黒い雲が頭上に広がり、夕方でもないのに周囲は真っ暗だ。
乾いたアスファルトは隙間無い雨粒に塗り潰されどんどん色を濃くして、坂道は雨を下に流していく。
のんびりと思案している時間はなさそうだ。
「うわっ、ちょ、これ。」?「しっかり掴まってて、雨宿りできそうなトコまで急ぐから。」
 他にどうする事も出来ない王泥喜は、安全運転でお願いします。と告げた後、響也の腰にしがみ付いた。
 
 
       ◆ ◆ ◆

「まぁ、まぁ大変でしたねぇ。」
 旅館の玄関で王泥喜達を迎えた恰幅の良い女将は、人の良さそうな表情を曇らせ、外とふたりと見比べ眉を顰めた。
 もはや夜かと思うほど外は暗く、水も滴るいい男になったふたりは、こざっぱりとした玄関に水溜りをつくっている。しょぼくれた響也の様子が、大スター様のオーラを帳消しにしていらぬ騒ぎが起こらなかった事だけが幸いだった。
「…あの、雨宿りをお願いしたいんですが」
 王泥喜は額にぴたりと張り付いた前髪を手で拭いながら申し出る。泊まりでなければと告げられれば、それも也ぬ無しと思っていたものの、返ってきた答えは全く別のものだった。
「生憎と部屋がいっぱいで…。」
心底困った表情の女将に、王泥喜は目を見開く。
「え? 平日でも満室なんですか?」
 真ん丸の目をした王泥喜に、女将はクスクスと笑った。失礼だよ、おデコくんと響也が苦笑するのが見える。
「祝祭日は観光のお客様が殆どですが、平日は、御近所のお年寄りさん方が来て下さるんですよ、ほら。」
 浴衣を着た高齢の方々が笑いながら、廊下を移動していくのが見えた。悠々自適な老後生活。羨ましいなぁと王泥喜は現在の経済状態を思い浮かべた。
 弁護士たるもの、もう少し経済基盤が安定しているものだと考えていたのにと唇を噛み締める。
 最も、成歩堂の現役時代でさえ、そうじゃなかったとすっぱり切られた。『御剣は金持ちだったけど。』そんな台詞を思い出し、隣の高給取りを斜めに見上げた。
 しかし、響也はジッとお年寄りを見つめている。
少しだけ寂しそうに見えたのは、王泥喜の見間違えだろうか?
「皆さんお泊りになる訳ではないんですけど…お部屋は普通にお使いになっているものですから。」
 頬に手を当てて思案顔の女将に、通りがかった仲居のひとりが声を掛ける。
「女将さん、あそこなら空いてますって。」
「あ、あそこ…。でも、いいのかしらねぇ?」
 彼女の進言にも、女将は小首を傾げる。
「先週のお客さんは喜んでお泊りになっていらっしゃたし、大丈夫ですよ。私達の考え方が古いんですって。」
  何処か含みのあるふたりの会話に疑問を投げかけようとした王泥喜は、その替わりに盛大な唾を吹きかけるはめになった。大きなクシャミに、彼女達は漸く王泥喜と響也の姿を思い出したようだ。
「あらあら、大変。ちょっと、タオルを持ってきて頂戴。」
 パタパタと履き物の音を鳴らして立ち去ったふたりを見送って、湯治客が響也の側に寄って来た。濡れ鼠のふたりが物珍しいのかと思った王泥喜は、老人の放った科白に固まる。

「アンタ、ガリューさんじゃろ。」

 ひとりがそう言うと、寄ってきた者達が頷き同調していく。
「ああ、そうだ、ガリュウウエイブのガリューさんだ。」
「ガリューさんじゃなぁ。なしてこんなとこ。」
「いや〜テレビで見るより良い男じゃな。」
 風呂上りの年寄り達が響也を取り囲み、必然的に王泥喜はその輪から弾き出されて、壁に張り付く。
「嬉しいね、僕の事知っててくれるんだ。どこかの薄情な弁護士とは違うね。」
 チラリといやみな視線を王泥喜に投げて、響也は年寄りの集団にもファンの女の子へ向けるものと寸分違わぬ笑みを浮かべた。それはそれで、感歎に値する行為だったけれど、コイツ昔の事をネチネチと。
 心の狭い奴…知ってるけど。
「ガリュウさんは、風呂に入りなさるかね、じゃ、ワシももう一回。」
「何言いなさる、アンタ高血圧じゃろが、お迎えが来るよ。代わりにアタシ達が」
「そういうアンタらも去年胃を摘出してから疲れる行為はいかんて医者に止められてるがな。」
「いやいや、MRIでは頸動脈は無事じゃいわれたから大丈夫だぁ。」
 囲んでいた輪を縮める勢いの老人集団は、なかなか響也を解放する気はないらしかった。遠目で見ていた王泥喜は響也がクシュンとクシャミをしたのを見て、溜息をひとつ。
「ああ、もう。」
 すいと響也の横に寄ると、女将が顔を覗かせたのを幸いに彼の手を引いた。愛想笑いはそのままで、響也は王泥喜に即されるまま歩き出す。
「年寄りさんは、ある意味子供よりも我儘ですからね。駄目ですよ、適当に話を切らないと。」
 眉間に皺を寄せた王泥喜に、しかし響也は笑みを浮かべた。
「ありがと、おデコくん。やっぱり頼もしいね。」
「要領の問題でしょ。」
 ついさっき、嫌な奴だと思えたのに、そんな仕草や言葉で愛しい人に逆戻りな自分が恥ずかしかった。照れを隠すように視線を逸らし、口元をへの字に曲げる。
 けれど、王泥喜の心情なぞ響也にはお見通しのようで、笑みを浮かべたままの彼は、やっぱり綺麗だった。

◆ ◆ ◆

 女将に連れられて向かった其処は、離れの一軒屋になっていた。
 母屋である建物からは、石畳で繋がっていたけれど、生憎と屋根はない。傘を借りた王泥喜と響也は、女将に連れられて、中を覗き込む。
 入り口に広い畳の部屋。定番の装飾や家具が置かれていて、その奥にも部屋があるようだった。母屋から離れているせいで、喧噪とはほど遠い静かな空間だ。
「なんて言うの、ほら、新婚さんとかが使う部屋。「スィートルーム」そうそうそれを気取ってみたのよね。
 母屋から離れているし、此処は内風呂もあるから、一日中イチャイチャしていられるでしょ?」
 軽快に笑う女将に、王泥喜は赤面した。
どうしようもなく休日のふたりを想像してしまったなどと言えようもない。王泥喜の見窄らしいアパートに、響也のふかふかベッドで…そりゃやってる事など、共通だ。
 けれど、真っ赤になった王泥喜の様子は、童顔であることも手伝って、純情な青年に写ったようだ。
「あらあらすみませんね。おばさんは口が悪くて、どう? 此処でもいいかしらね?」
 これ以上、入らぬツッコミを貰わなかったのは幸いだったのかもしれない。
 響也と王泥喜はふたつ返事で承諾すれば、女将達は食事の時間等を告げてさっさと部屋を後にした。
 一息つき、顔を見合わせて笑った時には濡れた衣服はしっかりと互いの体温を吸い取っていた。
 
「寒いね。」

 ぶるりと体を震わせた響也に、王泥喜は慌てて入浴を勧めた。どこにあるのかわからなかったが、二つばかり障子をあければ屋内にしつらえた岩風呂を見つけることが出来た。籠に浴衣がふたつ置かれた脱衣所には、しっかり鍵もついている。
「先に入ってください。俺は濡れた服を干してから入ります。」
 こくんと素直に頷いて(こういう所が世話をされ慣れていると思う)、響也は濡れた衣服を床に落とした。
 彼の裸など、それこそ見慣れていたはずだったのに、しっとりと濡れて肌に張り付いたシャツの描くラインや、ぷっくりと膨れた乳頭にどきりとする。
 それを肌から剥ぎ取る仕草を堪能し、ズボンのベルトを外したところで、響也の視線が王泥喜に向けられた。

「…おデコくん。見すぎ…。」

 当然です。そりゃあ、見ちゃいますよ。このストリップ状態。

 …と言いたいところだが、取り敢えず我慢する。恥ずかしいのか目尻が赤らんで艶っぽいなどと今は考えないようにしよう。
「床で滑らないか心配してただけです。」
「舐めるような視線送って来てるくせによく言うよ。僕に欲情したならどうして素直なれないかな?」
 斜めに送る視線が、色っぽい。
 …どうしてこう、挑発的なんだろうかと王泥喜は嗤った。
 誘うのが巧すぎるのは、弁護側としては異議があります。誰かれ問わずに、そうしているんじゃないかと思ってしまうじゃないですか。
 なので、王泥喜は脱いでいる響也の服だけハンガーに掛け、さっさと自分の服も脱ぎ同じ様に下げて、手拭いを持ち響也を振り返る。
 さっきよりも顔を赤くした響也がこちらを凝視しているのが見えた。

「何俺に見とれてるんですか? 欲しいならそう言っちゃってください。」

 王泥喜はそう告げて、浴室に脚を踏み入れる。
 丁寧に磨かれている床とは違い、たっぷりのお湯を張った湯船は天然の岩石だろう。水によって自然に磨かれた部分以外は、荒々しい岩肌を見せていた。
 木で出来た湯桶で湯をすくって体にかければ、湯の温度は低い方だ。それでも、冷えた体にはじんと心地良い。
 とぷんと音を残して王泥喜が湯船に沈んだと同時に、響也が入ってくる。前を手拭いで隠しているのがなんとも可笑しかった。
 クスクス嗤うと睨まれたが、取り敢えず冷えた体を先だとお互いにわかっている。
 男ふたりでも充分すぎる広さだったが、王泥喜は敢えて体を横にづらして場所を空けてやった。
 渋々といった雰囲気を漂わせつつも、王泥喜と向かい合って響也は体を湯船に沈めていく。
 形良い下半身が沈み、金色の長い髪が水面に漂う様子は芸術方面に全くと言っていいほど才能を見いだせない王泥喜でさえ、絵画みたいだと思わせる。
 高校時代に、選択でとった美術史に載っていた『美の女神誕生』なんて有名な絵を思い出させた。
 でも、目の前にあるのは、ぺらぺらの紙じゃない。暫く触れることが出来なかった、愛おしい相手だ。
 王泥喜は両手を響也のに差し出してにこりと微笑んだ。
 
「来て、ください。」

 こくんと小さく喉を鳴らすのが見えて、王泥喜の視界は響也しか見えなくなった。


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