天使のような君を見た時、俺は思わず神を信じた それでも、にこりと天使が微笑めば(わかった)と言うしかない。 「行くぞ。」 フウが頷くのを確認して、フェリオは興味を失ったように背を向けて起伏のある道を下り始める。 気にならないと言えば嘘になった。けれど、未練があるところなど見せてしまえば彼女は此処から動かないと言い出しかねない。 なんて厄介な女に惚れているのだと、フェリオは頭を抱えたくなる。 「ありがとうございます。」 なのに、彼女はそんな台詞を投げて寄越すのだ。 賢くて、優しくて、美しい。 確かな神の存在を感じとれそうだとフェリオが苦笑を普段の笑みに切替え、振り返ったその直後、危険を察知した大鷹の鳴き声が森に響き渡り、恐れていた事態が現実となった事をフェリオは悟った。 「ウインダム?」 聞き慣れた愛鳥の鳴き声。 けれど、それは聞き覚えのない響きを持っている。鋭く長い音はフウが始めて耳にするものだった。耳を劈く激しさをその音は持っていた。 疑問を彼に問うよりも先に、フェリオの両腕は彼女を横抱きにして走り出す。 「フェリ…!」 「いいから俺にしがみついてろ!」 驚いたフウの声はフェリオに一喝された。悠長に事情を説明している時間などないと琥珀の瞳が告げる。見つめ合う間も惜しいと言わんばかりに、彼の瞳は空を行くウインダムを追っていた。 「…よりによって、今かよ…!」 歯噛みする声と共に、ゴゴゴとフウの耳に慣れない低い音が響く。 獣のうなり声にも似ていたけれど、もしもこれが獣だとするのなら、とてつもない大きさの生き物だ。 フウが両腕を彼の首に回して強く抱きついたのを合図に、腰に巻き付けられたフェリオの腕に力が込められ、ぐっと脚が速まる。 樹の根を岩を横飛びにして走り続けた。 フェリオは振り返る事すらしない。 そうして抱き上げられたまま走っている為に感じる震動ではなく、音に共鳴して地面が細かく震るわせているものがある。呻り声は変わらずに奥底から響いていた。 フェリオの肩越しに、フウが見ていた背後の景色がずれた。 比喩ではない。 目の前で、確かに風景が変わっていく。驚きに目を見開いたフウは声を張った。 「フェリオ…!山が…!!」 腕の中、身体を胸元に押しつけギュッと肩口を握りしめながら、フウは繰り返し名を呼んだ。 こんな事があるのだろうか。 鬱蒼とした樹々をその山肌に抱きながら、下に向かって恐ろしい勢いで落下していく。有り得ない、なのに目の前の出来事は本物だ。 「…目を閉じてろ!!」 弾かれた様に、ギュッと固く目を閉じる。 幼い時にこんなものを見なくて良かった。フウはそう思った。 こんな己の無力さを完膚無きまでに見せつけられて、自分に自信など持てるはずがない。怖くて、怖くて。大きくなった今でさえ、ただ恐ろしい。 震えているのがわかったのか、フェリオがあがった息の合間に言葉を告げた。 「お前は俺が守る、必ず。」 涙が出そうになって唇を噛んだ。 抱き締められた腕に安堵する。高鳴る鼓動だけが聞き取れた。 いつも貴方は私が強いというけれど、こんな恐怖と対峙出来る貴方の方が私の何倍も強いはず。 貴方が守ってくださっているから、私は強くいられる。 この世の終わりになら聞けるのではないかと思えた轟音は、そうして周囲を席巻した。 ◆ ◆ ◆ 「地形が変わってしまいましたわね。」 レンズ豆のペーストをたっぷりと馴染ませたマッシュポテトを途中まで食べて放棄してしまった。景色はそんな風に変わっていた。 おまけにグレイビーソースをたっぷりとかけたらしい、茶色く剔れた山肌がフウの目にはそう見える。 …あまり美味しくありませんものねえ…。 フウは密やかにそんな事を思い、クスリと笑った。 隣にしゃがみ込み、荒い呼吸を整えていたフェリオが訝しい顔をする。フウを抱えての全力での逃走は流石に堪えてようで、表情は疲労の色が深い。額から流れる汗を服で何度も拭い、汗に張り付いた髪を掻き上げた。 フウもその横に座る。 「いつでも、木々達が守ってくださっていると思っておりましたわ。」 「それは根が張ってる部分だけだ。幾重にも重なっている層全部がずれてしまえば意味はない。」 そうして、フェリオは息を吐く。 「だから、危ないと言っただろう。逃げ遅れた奴等は犠牲になっただろうな…。」 森に暮らす動物達とて、その原理から逃れる事は出来ない。 自分が生き残ったのは、此処で生きる術を知っているフェリオが側にいてくれたからだ。 「でも早めに崩れてくれて助かりましたわ。」 フウの台詞に、フェリオがギョッと目を剥くのがわかる。それを知って、フウはあらと声を上げた。 「だって人々が森に入らないように、兵を配置するのも説得するのも大変ですし、ましてや国外の方が迷い込んでしまったら外交問題にまで発展してしまいますわ。 それに、もう崩れてしまったのなら迂回して通れば、収穫も期待出来るという事ですものね。 こんな危ない目にもあった甲斐があるというものですわ。」 うふふと微笑むフウに、フェリオは心底うんざりと言った表情を造り、そして大きな溜息と共に背から両手を広げたまま地面に倒れ込む。 「…俺には堪える……。少しは、懲りてくれ。フウ。」 息と共に吐き出された言葉に、フウは笑みだけを返す。 自分を怒る事のなくなったフェリオに、確かな距離を感じた。 子供の頃、差し出した手を握り返したあの時と同じように、手を握り、側にいることは出来た。けれど、それはやはり違うものだ。 フェリオが自分を「天使」と呼んだ事を今でも覚えているのかどうかわからない。 聞いた事もないし、そんな話しをすることもないだろう。 けれど、もしも私が天使ならば、私の持てる全ての力を使って、フェリオを守って差し上げたい。家族も城の従者達も、勿論此処に住まう全ての人々を私は慈しみ、大切だと感じている事に間違いはないけれど、この国に、この森にフェリオがいてくれる事が私が国を背負う確かな理由になっているのだと、彼の強さに守られていたのだと改めて確信出来た。 それは、たとえこの先の未来に、フェリオが別の女性と結ばれても変わらないだろう。 彼に祝福を贈り、そして貴方の幸せを守っていける喜びを、私は密やかに享受するのだから。 「私は国民の幸せを願っておりますわ。」 〜Fin
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