想い


 庭園に面した噴水の前の椅子に、少年が座っている。
 薄茶の髪。琥珀の瞳。旅の仲間小狼であることにサクラは直ぐ気が付いた。
 両手を身体の横に置いて、所在なげに足を揺らしている。
 庭を吹き抜ける風に身を任せて、時々気持ちよさそうに目を閉じた。

(小狼君もあんな顔するんだ。)

 サクラは、小首を傾げる。
 皆といる時、というより特に自分といる時、小狼は警戒心を解かない。
 記憶のない自分を守る為にそうしている事はよくわかるのだが、そんなに神経を尖らしていては、[危険]どころか彼自身を傷つけるのではないかとサクラの心は痛んでいた。

 けれど、今は違う。
 ゆったりとした雰囲気を纏い、瞳は優しさしか浮かべていない。
 サクラは胸の前でギュッと両手を握った。
 嬉しい。…小狼君の、そんな顔を見る事が出来て。
 いつも願っていたから。  でも悲しい。そんな彼を見ていると空っぽの心が痛むから。何処か、まるで自分とは無関係な何かが、呼んでいるような気がするから。

(…知っているんだ…私…。)薄れていく意識の中でサクラはそう感じていた。
 水面の揺れが戻っていく。

 噴水の横に立っていた少年は再び指を差し入れた。  水面に写る自分をかき消すように、少年は何度も指で掻き回した。それだけでは、不足だったのか、手首まで水に浸けると大きく腕を振る。
 渦を巻いている水面は、今度はなかなか元の穏やかな表面には戻らなかった。

 歪み、うねる自分の姿を少年はじっと見つめている。
「駄目よ。」
 パタパタと走り寄ったサクラは、少年の側に近づきそう言った。水に浸けたままの腕に両手を伸ばしそっと引き上げる。衣服まで浸かっていた腕からは、ポタポタと水が落ちた。
 サクラは少年の顔を心配そうに覗き込んだ。
「これは、飲み水にもなっているから、手をいれちゃ駄目な水なの。お水遊びに使うのはあっちの川から引き入れた分よ。…ね。」
 さくらの言葉にゆっくりと顔を向けた少年にさくらはもう一度話掛けた。
「一緒に、向こうの噴水に行こう?小狼君。」
「…サクラ姫…。」
 初めて気が付いたように返事を返した小狼に、サクラは驚いたように見つめた。
 小狼も、彼女が自分の腕を掴み、なお且つそれによってサクラ姫の服まで濡れている事実に気が付くと、慌ててサクラから自分を腕を引き抜いた。
「ご、ごめんなさい。姫。貴方の服まで濡らしてしまった、あああの、俺また何かしてしまいましたか。」
 わたわたと慌て出した小狼をサクラは心配そうに見つめる。
「小狼君覚えてないの?」  小狼はコクリと頷いた。  そして右手でギュッと自分の服を握り締めた。
「…記憶が無いせいなのか…。時々意識していなかったのに動いている事があって…。気持ち悪いですよね。」  無表情な、しかし苦いと感じる笑顔を浮かべる少年の横顔をサクラはじっと見つめていた。

 嫌だ。こんな表情は嫌だ。
 サクラの胸の中に沸き上がる想い。

『こんな小狼くんが見たいんじゃないの』

「そんな事ないもん。」
 サクラもギュッと拳を握った。
「小狼くんは、そんな事ないもん。」
 そう言うと、服を握り締めていた小狼の手をとり、その小さな手の平に乗せた。片方の手も乗せ、両手でギュッと握る。
 驚いて顔を上げた小狼の顔は、自分を真正面から見つめる少女の瞳に釘付けになった。
 綺麗な碧の瞳に、自分の顔が写っていた。

「小狼くんは色々辛い事があって、大変だっただけだよ。」
 サクラはそこで言葉を切り、もう一度強く手を握り込んだ。
「小狼くんは、絶対変なんかじゃないもん!」
 自分の声はどこか、怒っているようだ。とサクラは思った。どんどん目の前が霞んできて、小狼くんの顔が歪んで見える。目尻に涙が溢れそうになって、サクラは思わずギュッと目を閉じた。

「ありがとうございます。」
 ふいに聞こえた声に、サクラは目を開ける。
 見たことがないほどの笑顔で少年は笑っていた。
 サクラは、そのまま固まってしまうほど驚いた。

 小狼君が笑ってる。

「サクラ姫…?」
 今度は心配そうな顔になる。眉を少し下げて、目を細める。
 琥珀の瞳に影が落ちる。
「あ、違うの…。」
「はい…?」
 今度は首を傾げて、自分を見ながら不思議そうな顔。少し可愛い。
「違うの、笑ってて…あ。」
 小狼からパッと手を離し、両手で口元を覆う。どんどん頬が熱くなってくるのがわかる。
(どうしよ。私の方が変だと思われるよ。)
 顔を赤く染め、顔をあげようとしないサクラを小狼は心配そうに見つめた。
「暑いのですか?顔が赤くなって…えと、この水は顔を冷やしたりするのに使うのは…。」
 小狼はポケットからハンカチを取り出すと、水に浸す前にサクラの方を振り返りそう尋ねた。
 サクラは慌てて走りより、その手を止めた。
「駄目よ。飲み水なんだもん。…それより私そんなに顔が赤い?」
「はい。」
 即座に返ってきた答えに、サクラの顔は別の意味でさらに赤みを増す。しかし、小狼はそれには気づかず、きょろきょろと辺りを見回した。
「噴水…でしたね。」
「え…?」
「水遊びをしてもいいのは、噴水。サクラ姫はそう言われましたよね。そこで冷やしましょう。案内していただけますか?」
 小狼の言い方は、王族として躾けられた自分よりはるかに丁寧ではないだろうか。
サクラはそう思い、くすくすと笑った。そして、小狼の手を握る。
「うん。でも私、熱があるんじゃないよ。水遊びをしよう。小狼くん。」


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