今だけはあなたのそばに


 駆け足になってしまう自分を窘める。久しぶりに逢う大好きな人に早く逢いたいと思ってしまう、欲張りな自分がそこにいた。
 握っているのは、朝早く父の知人に頂いた笹のひと枝。
 「お祖母様が元気になりますように」と書かれた薄紅の短冊は私は付けたものだ。もう片方の手には、こよりを差し込んだだけの若草色の短冊を握りしめ、私は病室へ急ぐ。
 共に暮らして彼女が体調を崩して入院してから半年は経っていただろう。私はとても寂しかったのだ。早く彼女に家に戻って来て欲しかった。
 突き当たりの大きな窓が外庭に向かってつけられている個室は、面会時間を過ぎてしまっているからだろうか、明かりがついていなかった。
 それでも、部屋にあるゆったりとした椅子に背を預けた老女は、両手で何かを包み込むように膝に置き、星が綺麗な夜空を見上げていた。

 天の川も綺麗に見える、今日は七夕。

 そうして白髪の老女はこちらに気付くと、持っていた宝石箱を優雅な仕草で備え付けのドレッサーに仕舞う。そうして、彼女は綺麗に微笑んだ。
 すっかりと白髪になっていたが、祖母の緩い癖毛は私とよく似ていた。
「よく来て下さったわね。」
 歓迎の言葉を聞く前に、私は彼女に抱きつく。「何を見ていらしたの?」
 クスクスッと笑い、祖母はそっと私の頬を撫でた。
「見つかってしまいましたわね。」
 その時、祖母の表情が困ったものになっていて、私は少しだけ居たたまれない気分になる。
「覗き見をしていたんじゃないのよ、私…。」
「これを持って来て下さったのよね、ありがとう。嬉しいわ。」
 そう告げて、彼女は私の手に握っている笹を見つめた。短冊に書かれた言葉も目に入ったのだろう、もう一度『ありがとうございます』と微笑んだ。
「願い事を書いて頂こうと思って、私持ってきたのよ?」
 もうひとつの短冊を翳してから彼女の手に置いた。白い指先に皺はいっぱいあったけれど、とても綺麗だ。
「ねぇ、お願い事はないの?」
「いっぱいありますわ。私、欲張りですから、色々と願いがありますもの。」
 ニコニコと微笑む祖母に、私は悟る。彼女は他力本願に願い事をするような人間ではない。そんな聡明で上品な祖母の事が私は大好きだった。
 だから、余計に気になったのだろう。
「さっき見ていらしてもの、教えて頂けない?」
 それでも遠慮がちにお強請りをしてみれば、クスクスッと笑う。すぐに、引き出しあらそれを出してくれた。
「これは私にとって、とても大切なものなの。」
 そう告げられて、緊張した。コクンと息を飲む私の前で、祖母の両手に包まれた宝箱はそっと開かれる。
 私の幼い両手でもすっぽりと納まる小さな宝石箱には、たったひとつだけ金色のリングが仕舞われていた。彼女がいつも薬指にはめている結婚指輪でもなく、豪華に彼女を飾り立てる装飾品でもない。
 私には酷く不思議なものに思えた。

「これがお祖母様の大切なもの?」
「ええ。」

 コクリと祖母はやさしく微笑んだ。窓の外、星空を見上げて何処か遠くに視線を向かわせる。

「理由があって、もうお逢いすることが出来ない方から頂いたものなのよ。言葉で伝える事が難しいほど、大切な方でしたわ。」
「…それは、私の事や、母様や父様や、お爺様よりも大事なの?」
 祖母の顔が、いままで見た事のないような表情だったので、私は思わず聞いてしまった。本当はそんな事聞くべきものではないと知っていたが、大好きな祖母が相手だったので、それこそいても立ってもいられなくなったのだ。
 しかし、彼女は普段どおりの笑みを浮かべて、私の頭を撫でてくれる。
「お爺様と結婚して、貴女のお母様が生まれて、貴女が生まれて、とても幸せでした。
 思い出さない日が無かった大切な方の事も少しずつ思わない日が増えて、そのうちに思い出す事さえ、稀になって…。」
 微笑むお祖母様の笑顔は、何処か寂しげにも見えた。
「だから、こうして星空を見上げて、今だけはあの方の側にいたいと思っていたところだったのよ。」

 フェリオ。
 
 祖母の呟きはそう聞こえて、私はその言葉を繰り返してみたけれど、彼女は肯定も否定もせずに微笑んだ。
「だから、これは私と貴女だけの秘密にして下さい。」
 優しい笑みを浮かべる祖母に、私は大きく頷いた。
祖母が自分や家族を蔑ろにして、誰かのところに行ってしまったりしない事に安堵したのもあったが、初めてみる祖母の表情に、頷かざる得ない何かを感じたのかもしれない。

 だから祖母が息を引き取った後、宝石箱の中に金色のリングがあった事も、その指輪が消えてしまった事も、知っているのは私だけなのだ。


content/