睦言のように囁いて


※OVAフェ風


 秋の気配が色濃くなった景色。
 じっとりと汗ばむ季節が通り過ぎていった後に残る倦怠感が、どうも身体を重くしているみたい…などと言いつつも、光の食欲は旺盛だ。
 お昼のフルコースを平らげてなお、甘いデザートを喜々として食べる彼女を見遣り、とっくに降参した海がそう呟いた。同じく制覇を諦めた風も紅茶を手にしており、二人はこの後の予定を話していた。  海は図書館。光は母親とお買物らしく、風は久しぶりにフェリオと会う事になっていた。
「もう、そんなになるのねぇ。」
 海の言葉に、紅葉の如く風は頬を赤らめる。動揺した彼女のように、淡碧のワンピースの裾がふんわりと揺れた。
「そうでしょうか? 私はまだ、三ヶ月なのかと思いますわ。しょっちゅうお会いできる訳ではありませんし…。」
「え〜とね、風?…さりげに惚気られてる気がするんだけど。」
「そうそう、もっと会いたいって言ってるように聞こえるね。」
 スプーンを持った手を止めて光も笑い、風の頬は両手で隠していてもしっかりとわかる程に赤く染まった。
「あの、そんな事は…。」
「うん、でも今日の風ちゃん凄く綺麗だよ。フェリオもきっとびっくりするね。」
「折角の三ヶ月記念のデートなんだから、うんと楽しんで…あ!」
 急に大声を出した海に、光と風は目を丸くした。海は、悪戯めいた表情で風にウインクをしてみせた。
「そういえば…。」


 フェリオと正式にお付き合いをすると決めてから、今日できっかり三ヶ月が経っていた。そんな、些細な事が嬉しくて、ついつい親友達に話してしまうから『惚気』だなどと言われるんですわね。
 フェリオさんには『三ヶ月』なんてわかりもしないでしょうに。


 普段あまり利用しないバス停の前で、風はやっと熱が引いてきた頬に手を当てる。
今日は二人で海沿いの公園へ行く予定だった。それで、目的地に都合のよいこのバス停を選んだけれど、今は少しだけ後悔している。真っ赤な顔で此処まで歩いてくるのが、どれだけ恥ずかしかった事か。
 『ああ、良かった』そう安堵した時、ふいに、海の言葉が思い出され心臓が鳴った。

 お付き合いして三ヶ月目にはキスするものらしいわよ?

 再び紅潮する頬を止められない。あたふたと、思考がそちらへ傾かないように周囲を見回せば、バス停の横に薄桃を基調とした可愛らしい花束が幾つも置かれているのが目に入った。
 日がたった様子もないそれに、風はテレビで報じられていたニュースを思い出す。バスを待っていた女子大生が、前方不注意の車と接触し死亡したというもの。
つい二、三日前の事だったはずだ。
「こちらだったんですね。」
 それに答えるように花が揺れるのを見て風は眉を潜めた。
 女子大生なら自分と同い歳だろうか、将来への夢もあっただろう、家族も友人もいて、それがいきなり途切れてしまうのだ。

 きっと、心を寄せる方もいらっしゃったに違いない。

 思わず自分と重ねて、風は胸が詰まる。
どうしようも出来ない事ではあるのだろが、辛かっただろうと心が痛んだ。
「お可哀相に…。」
 そう呟いた時、ふいにぞくりと背筋は震えた。肌寒いというより、冷たい何かが背中に触れた、そんな感じだった。
「何でしょう?」
 花束を見ていた視線を上げると、風は道路の反対側に少女がこちらを見ているに気がついた。まだ、大人になりきらない顔立ちと体型。
 キャミソールの上にシャツを羽織り、ジーンズ生地のスカートは膝丈。ミュールにのった足首は折れそうに細かった。街でよく見かけるメイクは、本来の彼女の顔立ちを隠してしまっているのだろう、遠目で見ているから尚更だとは思うのだが、もう一度すれ違っても群衆に紛れて見分けられないような気がした。
 けれど、黒目がちの瞳はじっと風に注がれている。
「…。」  女の子の濡れたように見える唇が微かに開く。白い歯の奥で舌が持ち上がった。
 まだ夏の余韻を残すジリと熱い道路の照り返しも、通り過ぎる車の音も、風の集中を反らしはしなかった。道路の向こう側、四車線を挟んだ先。
 そもそも、彼女の呟く様子など見えるはずはないのに。頭はそう思えた。けれど、視線を戻す事は出来なかった。

「遅くなったな、フウ。」
 ふいに自分を呼び戻す声に、振り返る。
 フェリオが、自分の直ぐ後ろに立っていた事に気付き、風は慌てて返事をする。彼は何かを風に問うわけでもなくただ微笑んだ。
「暇させたな。」
 少しだけ困った表情で鼻を掻いた。
「いいえ、フェリオさんがお悪いのではありません。私が早く来すぎてしまったんです。」
   浮かれて…そんな表現が相応しいのかもしれない。光や海にあんな事を口走ってしまう位なのだから。
「まだ、こっちとの時間経過を完全に把握してないんだ。俺も早くフウに会いたくて、随分早く来たつもりだったんだがな。」
 悪戯な笑みを風に向け、しかし、一瞬見遣った先には鋭い視線を送る。それは、風は見つめていた視線の先に他ならなかった。

「フェリオさん?」

   己に向かないフェリオの視線を風は少し不思議に思ったのだろう。
柔らかな巻き毛をくるりと肩に落として、小首を傾げる。眼鏡の奥の碧の瞳が、その長い睫毛を伴って何度も瞬く。
 触れたい。そして浮かんだ欲求を、今この時点の自分に許してやろうとフェリオは思った。一応正当な理由もある。
「久しぶりに飛ぶか?」
「え?でも、フェリオさん!?」
 肩から、その細い腰を抱き、膝裏へ手を伸ばす。
「結界は張る。普通の人間には見えないよ。」

 普通ならば…な。小さな呟きは喉の奥に押し留める。

「…きゃっ!」  いきなり上がった視線に驚いた風の腕は、フェリオの首に巻き付いた。ふわりとなびく髪はフェリオの視線で揺れる。香りがした。
 一瞬くらりと目眩に似た感覚を呼び起こす香り。香水なのか、彼女自身が纏う香りなのか、爽やかなようでいて甘い。
 もっと近くでそれを感じたい気持ちを抑えるように、フェリオは言葉を発した。
「フウは軽くて、羽根のようだな。」
 胸元に鎮められていた風の顔が上を向き、目尻をほんのりと紅に染めながら困った表情を作る。
「いえ、あの、私、少し太ってしまって…。」
「え?」
 それこそ、琥珀の瞳を太陽の如く真ん丸にしたフェリオに、風は申し訳ないと表情を向けた。
「光さんにお付き合いして食べ歩きをしてしまって…。あの、彼女が嬉しそうに食事をしていらっしゃって、見ているだけでも美味しそうでつい…。」
「フウはもう少し太るといい。」
 にこりとフェリオは笑った。
「こうやってると、お前を潰してしまいそうだ。もっと、抱き締めたいと思っても加減がわからなくて怖くなる。」
 最後は耳元で囁くように。それから、顔を戻す。
風の碧が揺れ、恥じらう表情できゅっと唇を噛み締める。『からかっていらっしゃるんでしょう?』と問い掛ける視線に、フェリオはふっと眼を細めた。
「さ、行くぞ。掴まっててくれよ。」
 つま先が固いアスファルトを軽くトンと蹴った。
そうすると、それは恰も柔軟性に富んだトランポリンの素材の如く、二人の身体を空に飛び立たせる。
 それでも、風の抵抗が少ないのはフェリオが魔力を加減しているせいなのだろう。2、3回左右のつま先で空を蹴るとその分だけ高度が上がる。電信柱よりも、頭半分は高いであろう位置で、フェリオは一旦立ち止まった。
「どうか、なさいましたか?」
 こういう移動も、何回目とはいえ支えのない空に浮いている感覚は怖い。時々、夢の中で同じ様な感覚を知っている気もするのだが、そういう夢の時は、必死で両腕を動かしていないとすぐに落下してしまう。
 風は下を見ないよう視線にフェリオの胸板を捕らえながら聞いた。
「いや、何でもない。」
 フェリオの声が、緊張を帯びている気がして、少しだけ上を向く。下を向いていたフェリオとまともに眼が合った。唇が、触れそうに近くて、一気に風の頬が赤くなり、フェリオの顔も朱に染まる。
「え〜と、フウはやっぱり軽いよ。」
 フェリオの取って付けたような言葉に、風はクスリと笑った。



『ちぇっ。』
 そんな小さな舌打ち。『狡い、どうして?』些細な疑問。
 少女の声は、外見にそぐわない程に幼い。そして、彼女の姿を気に止める通行人はいなかった、それは此処に佇むようになってからずっとだ。
 もう…。頬を膨らませる。
『なんで、こう不自由なの。』

 あたし、幽霊のはずなのに…。



   夕暮れの街。
細く長い影が路地に伸びる時間。どちらからともなく繋いだ手が、予告なく離れた。
「フウ?」
「あ、あの少し待っていて頂けますか?」
 そんな言葉を残して立ち去る相手を見送って、フェリオは溜息を付いた。
 のっけに彼女を抱いて飛ぶなどという事をしてしまったからだろうか? 彼女の態度がやけにギクシャクしていた。手が肩に触れる程度の事で、びくりと身体が震えるのを感じると流石にこちらも意識してしまう。
 なるべく自然に…そんな不自然を考えていた事がわかるのだろうか?
 自分に問い掛け、フェリオはくしゃりと後ろ頭を掻いた。放っておくと、正直な手は彼女に触れたがる。

肩に、髪に、頬に、そして、唇に…。

 でも、それは自分が思う事で、フウはまだ俺を…。そんな思いも頭を掠める。どれだけ考えても、本当に正しい答えなどわからない。
 分かっていることは、自分がフウを好きだという事実だけ。

 潮を運んでいた風が一瞬向きを変えた。

 涼しいと感じていたそれが、生々しい体温を運ぶ。フェリオは微かに眉を顰める。
戦いを日常とする身体が、不快感を感じ取る。
理由などない、けれどフェリオはそれの教えを無視したりはしない。そうやって、生き延びてきたのだから。
 その気配を探り、フェリオの眉間は皺を深め明らかな、異常を感じとった。舌うちをする。と、同時に走り出した。

『ついて来ていたか…。』

 あの邂逅で、彼女は風を、そして自分を見つめていた。
 何処かで二人の心が重なる部分があったのだろう。にやりと己を見て少女は笑った。その歳には合わない妖艶な笑みを讃えて。
 死した魂は、その場に留まる。理由の有無は知る由もないが、生きていた頃の習慣に縛られる。肉体は既にない。ならば、空を飛び何処からでも侵入してもいいようなものなのに、戸口から入り、階段を登る。
 それは、生きていようと、死んでいようとその心持ちに変わりはないからだとクレフが言っていた。人は皆縛られるもだと、己のつくった囲いの中に。それを出てしまえば、どんなに自由になるとわかっていても、勝手に心が決めてしまうのだ…と。

 だからこそ、彼女を連れて飛んだ。

 レイアースの人間は、通常魔力がなく、霊といえどもそうする事が出来ないと知っていたから。けれど、予め風と繋がりを持ってしまっているのなら、あの少女は、追ってこれる。
 風が怖がるだろうと話さずに於いたことを、フェリオは一瞬後悔した。



 化粧室の鏡に向かい、風はリップを付け直した。
緊張しているせいなのだろう、今日はやけに唇が乾く。小指で触れてみるカサリとした感覚が伝わりもう一度塗り直す。
 頬が常よりも熱い。それもきっと原因。

『どうせ、貴方の身体が目当てじゃないの?』

 誰もいない空間に、小さな声が響いた。

 自分の他に人がいただろうか?
風は、そう思う。個室の扉も全て空いていたようだったし、洗面台は、入口のすぐ横にあって、誰か入ってくれば判るはず。そして、気配は感じなかった。
 鏡越しに覗いてみても、人影は無い。
 それでもと振り返っても、誰かの姿を見つける事もない。
 夕暮れではあったが、既に外は暗く、窓は室内の明かりを其処に写していた。伺い知る事は出来ないが、そんなところから声を掛けてくる人もいないだろう。白壁に蛍光灯が反射しているせいか、作り物じみていると感じるほど中は明るい。

「どなたかいらっしゃるのですか?」

 風の問い掛けに、答えはない。念の為に、周囲を見回してみても、扉が閉まっている様子もなかった。
 眉を顰めて、鏡に向き直った風は、はっと息を飲んだ。
 正面の鏡は風の身長よりは僅かに高い。そして、天井の照明が写り込んでいるその下、数歩後ろになるのだろうか、少女の姿が鏡越しに風に見えた。
 照明の真下にいる彼女は影もない。そのせいだろうか、血の流れを感じられないほど白皙で、ただ唇だけが紅。
 僅かに開いたそこからは、ちろりと舌が見えた。
「どなたですか?」
 振り返って見れば、少女は消えている。そんな映画のワンシーンを思い出しながら風は振り返る。
 けれど、彼女はまま、立っていた。奇妙な違和感。
 風は身体が震えるのは、肌寒さのせいだと思った。確かに涼しい。そういう季節だ。けれど…。

『あたし、嫌だって言ったんだ。
 デートは楽しかった。ずっと遊んで、バス停行って、待ってた。ふたりきりで。
そしたら、キスしたがってるの見え見えで。私、嫌だって言ったんだ。そんなつもりじゃなかったし、なんか、嫌じゃない…。奢ってもらった代償にキスするみたいな感じ、別にあいつが嫌いだったわけじゃないけど。
 あたしが嫌なんだから、仕方ないじゃない。無理矢理する男なんて最低でしょ?』

 彼女の唇は確かに動いているようにも見えた。けれど、何処かおかしい。

『そしたら、凄くがっかりした顔して、もう幻滅。
 何?私の身体目当てなわけ?つまんない男。まぁ、口に出しては云わなかったけど、今度は困った顔してさ、帰っちゃった。』

 仕方ないから、あたしバスを待ってたんだ。そうしたら、突っ込んでくるんだもん。車。だから…
 風にとって自分の喉から発せられたものを、耳で聞いているような感覚で。

「だから、あたし、死んじゃったんだ。」

 確かに、自分の声だと風はその時確信した。少女の姿は、何処にも無かった。



「ごめんなさい。待たせてしまいましたか?」
 建物から出てきた風を見遣り、フェリオの琥珀がスッと細められた。
「いいや。」
ああ、何処かで見たことがある。そう思い、戦いの最中に彼が見せたものと同じだと気が付いた。硬質な声も同じ。
 冷たい視線が彼との距離を感じさせ、心が焦れるほどの憔悴感が胸に込み上げる。あの時、私達はお互いを知らなかった。私は戸惑いを、彼は願いを胸に秘めて対峙した。でも、今は違うはず。なのに、近付かないものがある…何故?どうして?

 戸惑いを感じるのと、裏腹に答えが返る。

『男女が近付くならこれしかないわよ。』

 眠っている訳でもないのに、思うように手足が動かない。
 いや、正確には動いている。軽やかに足を運び、腰においたままのフェリオの右手にするりと自分の腕を巻きつけて、胸元を相手に密着させる。肩に頭を乗せ、上目使いで見つめているのは確かに自分で、けれど何かおかしい。
 唇を軽く舐めて言葉を乗せる。まるで、夢を見ているよう。
「何かお詫びをさせて頂けませんか?」
 普段のフェリオなら、先程もそうだったように頬を赤くして戸惑うだろうと思えたが、冷ややかな眼差しは、その冷たさを増していくように思える。
「フウは、そんな稚拙な誘い方はしないんじゃないか?」
 肌に刺さるほど険な視線は、無遠慮に風であろうとするものを見遣る。
「あた、あたしは…。」
「『私』…だ。騙したいのならしっかりしろ。その言い方だと、本物の小娘だな。」
 嘲る口調に、カッと風は頬を赤くした。
「私も同い年よ。何よ、良い人ぶってるんだか、意気地がないんだか。据え膳喰わないなんてよっぽどね。
 それとも、お嬢様ぶってるこいつに魅力がないって事!?」
 風の罵声が終わらぬうちに、フェリオは彼女の両手首を掴むと壁に押し当てた。蹴り上げようとした膝がフェリオに届く前に、両足の間に己のものを挟み込みスカートを壁に縫いつける。
 彼女が身動きとれないのを確認して、口角を上げた。
「フウは充分魅力的さ。あんたと違ってな。」
「何よ。だったらやればいいでしょう!こんな風に力づくで抑えちゃえばいいじゃない。こいつだって、内心やりたいと思ってるわよ!口紅を何度塗り直してると思ってるのよ!」

 確かにその時までフェリオが纏っていた怒りは、ふいに途切れた。
後は、呆れたといわんばかりの表情だけが残される。

「あのな、男なんだから、あんたの言う通り簡単に抑えつけられるに決まってるだろう。だからこそ俺は、…いや、お前の彼氏もだろうけど『やらない』んだ。」
「何でよ!放しなさいよ、馬鹿!!」
「馬鹿はあんただ。好きだからに、決まってるじゃないか。」

 ずくんと心臓が鳴った。私の中にいる心が、確かに動揺している。そんなの欺瞞だと、叫んでる。

「ついでに言わせて貰えれば、そういう状態を作っておいて、私は嫌だから、やりたくないっていうのは、お前がそいつの心を持て遊んだって事じゃないのか?」

 嫌、聞きたくないの。私の中で少女が叫ぶ。本当は私、わかっていたから…。

 あたしの我が侭に、いつも困った顔をしながら止めてくれていた貴方がとても優しい人だったということを知っていたから。ただの我が侭な娘だった事知っていたから。

 風であって、風でない者の目にふわりと雫が溜まっていく。留められない水滴はぽろぽろと白く滑らかな頬を流れていく。

ごめんなさい。ごめんなさい。

 わかってた。ただ、認めたくなかったの。
 莫迦みたいに大人ぶって、素直になれなかった自分がただ悔しくて。
 だって、だって、本当に彼の事が大好きだった。こんな風になっちゃうなんて、あの時は全く思っていなかった。

   溢れる言葉が、風の中に浮かんでは消える。

 私も良く…はわかっていなかったのかも知れない。そう風も思う。
 もう一歩彼が踏み込んで来ないのは、レイアースを揺るがしたあの出来事のせいだと思っていた。
 無理矢理に、戦いを強要した貴方だったから、恋人同士になってからも無理強いはしたくないと遠慮して下さっていたのだと思っていた。それも、確かにあるのだろう…けれど、『好きな人が嫌がる事をしたくない』…それは、自分にもわかる、単純で当たり前の気持ち。

 こんな事になるのなら、キスだってなんだってしてあげれば良かった。



 ふっと何の前触れもなく、風はフェリオを見つめた。
 琥珀の瞳が細められる。そして、慌てて風の身体を解放した。頬を赤く染めると鼻を掻く。
「あの方は、行くべきところへ行けたのでしょうか?」
 流れ落ちる涙をハンカチで受け止め、風は笑みを浮かべた。
「俺はイーグルじゃないからさっぱりだ。もっとも、彷徨かれても迷惑だな。」
 フェリオの貌に向けて、風はそっとつま先を立てた。触れ合うだけの唇は、フェリオから瞬きを忘れさせる。
「フ、フウ…?」
「お付き合いして三ヶ月目には、口付けをすると海さんが…。」
「そ、そうなんだ…。悪いなレイアースの習慣を知らないもんだから…。」
 素直に謝られて、風は頬を染めて俯いた。
「嘘ですわ、そんな決まりはありません。」
「へ…?フウ…?」
「先程の方に教えて頂きました。気持ちをお伝えすることも大事なんだと…私…。」
 風が言葉を紡ぐ前に、フェリオは風の肩を抱き腰を引き寄せる。彼女の顔を胸元に置いて、頬を寄せ囁く。
「…好きだ…。」
 こくりと恥ずかしそうに頷く金髪を指に絡めて、今度はフェリオから口付けが落とされた。
 それは、ふわりと風に花弁が舞うような柔らかな感覚だった。



 バス停には、花束が置かれていた。
 それを置いていく男性が風を見て軽く会釈をする。風も微笑んで挨拶を返した。
 とても優しそうな彼は、本当に亡くなった彼女の事が好きだったのだろうと風は思う。だからこそ、少女はあんなにも後悔して此処を離れられなかったのだ。
 けれど現実はもう二人を会わせる事は無い。その事実だけは、風の胸をぎゅと締め付ける。別れはいつか自分にも訪れるのだろうけれど…それでも。
「ごめんね〜風。」
 遅れて来た海が、いきなり両手を合わせて拝む姿に、風は眼を瞬いた。
「一体なんの事でしょうか?」
「お付き合いして三ヶ月目にはキスするってのは、嘘。私の勘違いだったの。」
「は…あ?そうなんですか…。」
 少しだけ頬を染め、その熱さを掌に感じながら小首を傾げる。海も頬を染めて人差し指を立てて声を潜める。
「この世の中、そんなにスローペースな訳ないじゃない。三ヶ月目のデートですることは…せっ「う、海さん!!」」
 彼女の告げたい言葉に察しがついた風が海の口を掌で塞いだ。
途端に起こる突風が、花弁を空に舞い上げていく。クスクスと笑う少女の声を聞いた気がして、風の頬はますます赤く染まった。

『出し惜しみせずに、やっちゃえば? 好きなんだからさ。』

 …そんな訳にも参りません。風も小さく呟いた。


〜Fin



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