覗きこんだ君の横顔


※ランティス×光


この季節。朝方の五時と言えば、夜明け前。
まだ、太陽の昇らない街はひんやりと冷たく。まだ、その役目を終える時間では無い街灯は、白いものを照らしてキラリと輝かせてみせたりもする。
 そんな静かな、朝。
 光は道場に一人座し、瞼を閉じていた。ピンと伸ばされた背、行儀よく重ねられた足は袴の中に消えている。 真一文字に引き締められた唇は、普段見せる『天然』とも称される少女の顔では無く、真剣そのもの。冷ややかに張りつめられた空気に一歩も引けをとるものではない。
 そして両手は、正座した膝の上に軽く拳を握った状態で置かれ、竹刀は彼女が、鍛錬をした後に横においたままの状態で置かれている。

 白い霧が光の周りに見えるのは、揮発していく彼女の汗のせい。

 暖房をしていない室内は、外の温度と変わらない程寒い。12月も終わる頃だ、積もる事などなくても、降りものの中に雪が混じっている事など珍しくもない。
 床さえも氷ついたように冷え素足で歩くには辛いが、今では馴れた。寒冬、擦り足をするたび、皮膚が捲れる痛みは、剣術を始めたばかりの幼子の足にはきついものだったが、そんなものを凌駕するほどに、光は『剣道』というものも好きになっていた。
 なによりも、こうしていると心が落ち着く。
道場の中の、何処か神聖なものを感じるほどの静寂を光は好んだ。しかし、その道場という闊達な場における静寂感は、異世界に暮らす剣士の持つ雰囲気を思い出させ、ふいに光の心臓を早めさせてしまう。

 唐突に開いた瞳は、時に無邪気さだけを写すのだけれど、今は焔の如き揺らぎをその緋石に留めていた。
「あ、はぁ…。」
 ふと出た溜息に、慌てて唇を押さえた。

両の手で拳を作り、胸元まで引き上げるとふるふる頭を震わせた。長い三つ編みが、それにつられて滑稽な程揺れる。
 近頃、変だと光は思う。
 変…いやそれは違う気がする。小首を捻って相応しい言葉を考えてみる。ピタリとはまった言葉は『不思議』だ。今まで感じた事のない不思議な感覚。
 こうして、ひとりで座している時も、級友達とたわいもない話をしている時も感じる事がある。幽霊とか、痴漢の類が放つ異様なものなどではなくて、ふと振り向くと彼がいるような気がした。
 勿論、それを感じて振り返ったところで彼がいるはずもない。当然なのだ。彼は異世界セフィーロの住人で、東京に住んでなどいない。

 異世界暮らす黒衣の剣士を、地球で感じる。その不思議さ。

「変なの…。」
 光は、子犬がするように小首を傾げる。今こうしていても、誰もいる訳ではない。
「誰もいないのに…な。」
 そう呟いた途端、住居へと続く道場の扉が動揺した。ガタンと音がして、慌ててそれを抑える音が続く。明らかに−誰かいる気配−した。
 道場と廊下を隔てている板の扉から大量の汗が吹き出しているようにさえ、見える。光はにこりと微笑んだ。

「おはよう、優兄様、翔兄様。」
 扉から急に手足と頭が生えると、慌ただしく朝の挨拶を交わす。上から生えた頭が優でその下に抑えられているのが翔だ。少し遅れて、もう一人の兄も姿を見せた。
 そろそろ、朝稽古が始まる時間。兄達は、稽古にやってくる子供達と道場を清めてから練習に向う。
「おはようございます。光は相変わらず早いな。」
 にこりと優しく微笑む姿に、光は頷いた。
「早起き好きなんだ。何だか、素振りも集中出来る気がする。」
 そうですね。覚は、光の答えにもう一度微笑むと、持っていた手拭を光の首に掛けてやる。そして、額に滲む汗を拭いてやった。
「拭いておかないと風邪を引きますよ。今日は大切なお友達と用事があるでしょう?」
 長兄の言葉に、残る二人の兄はいきり立つ。

 12月24日、今年は日曜日。仏教徒には円も縁もない行事なのだが、日本国民は何故かこれに夢中だ。
大好きだ。おまけに煙突もないくせに、サンタが来ると信じ、神聖な聖夜は恋人達に占領されている。

そう、今やバレンタインに続く『恋人達のイベント』に成り果てているのだ。これは妹の危機なのではないか!!!!
 拳を握り、抗議の言葉を吐こうとした二人の兄は、にこにこと微笑む光の姿に言葉を飲んだ。
「うん。でも夕方には帰って来るから一緒にケーキ食べようね。」
 コクリと頷く二人兄からはもう抗議の声は出なかった。光は、愛しい妹は、並み居る狼どもの毒牙をものともせず家族団欒を選び取る。まさしく天使のようではないか。
 しかし、続いた会話は兄を打ちのめした。
「覚兄様、手袋の仕上げが良くわからないんだ。教えて。」
光の言葉に覚は目を丸くする。
「あれですか?あまりに大きいので、鍋掴みかと思ってましたよ。」
 光は目をまん丸にして、兄を見上げる。え〜と、え〜ととオロオロしてから、きっと顔を上げる。
「ランティスって、大きいから手も大きいんだ!」
 握り拳で訴えてくる妹に、覚はクスリと微笑む。
「そうですか。今更遅いような気もしますが、ミトンではなく五本指を創ってみてはどうでしょうか。」
「へ、平気かな?」
 不安そうに小首を傾げた光に、覚は微笑んだ。
「勿論手伝いますよ。さ、急ぎましょう。今夜必要なんですからね。」
「ありがとう、兄様」  
 光は、頬を染めて笑う。いや、微笑むという表現が相応しいと覚は思う。随分と妹は綺麗になったものだ…と。
「光は、ランティスという方が好きなんですね。」
 光は何度か瞬きをして、コクリと頷く。直ぐには顔を上げずに、伏せ目がちにまた瞬く。
じんわりと滲むように薄桃色が頬に広がっていた。



「三つ目を一目減らして、次は二つ…で。」
 ぎこちなくすれ違う二本の編み棒は、カチリカチリと硬質な音を響かせる。絡まった毛糸は、籠の中に積まれたそれの中からも、引っ張られるように出てくると光の指に掛けられた。それを介して、棒に係る糸はきゅっと伸びた。
 指を擦って抜かれるものの、係るべき場所を少々外れる。網の目は大きく広がった。そうかと思えば、下の目はぎちと縮こまっている。
 光は、目の前に、白い毛糸の塊の持ち上げると小首を傾げた。
「揃わないなぁ。」
 そう言うと、視線は横に並ぶ二本の指に向けられた。綺麗に揃った編み目。まっすぐな線。可笑しい。お手本に、と編んでくれた兄と同じ事をしているはずなのに、どうして同じものが出来上がらないのだろうか?
 狐に馬鹿されているように不思議。
 それでも、溜息など出ないあたりが光らしい。ヨシ、頑張らなくちゃと掛け声と共に、作業は再開された。
 しんと静まり返った部屋。聞くとはなしに、耳が音を拾っていると遠くに子供達の声が聞こえる。稽古が終わる時間なのだろうか、一瞬大きく聞こえた声は、再び遠ざかっていく。そうなら、もう昼を大きく過ぎたのではないだろうか?
 視線は、自然と目の前の手袋もどきに向けられた。

 ひょっとしたら、間に合わないのかもしれない?

 光の心に湧いた小さな、そして深刻な不安は、どんどんと彼女の中に広がっていく。心臓を脈打つ数が増えた。暑くもないのに、汗。
 あ、本当に困るかも。どうしよう。
 窮地…とまでは思わなくても、それは光の眉を歪ませる。
焦っちゃ駄目だよ。と言い聞かせようとして、何だか逆効果。焦ってる、もの凄く。 だって、東京タワーまで行かなくちゃいけない。あの時間までには電車に乗っていなきゃいけないし…なら…。
 思考が不安材料だけを拾い、抱えようとした瞬間

 ふいに…視線を感じた。

 柔らかな視線、でも、真っ直ぐ見つめてくれている感じ。振り返ったら、きっとランティスは笑っているにちがいない。そんな感じだ。

 すうと光の身体から力が抜ける。大丈夫、そう平気。
 光の指は、また作業を、−やはり少しぎこちない−を再開した。一目々ゆっくりと仕上がっていく。

 廊下に足音がして、襖が開けられた。
「光。」
 覚は妹の名を呼ぶが、彼女は目を数えるので一生懸命らしく返事がない。頭を上下に動かす分だけ、編み目が増えていく。大きさは不揃いだが確実に、丁寧に。
「兄様?」
 光に声を掛けられ、覚は妹を見返した。不思議そうな顔で見上げる妹に微笑む。
「間に合わなかったらいけないから、手伝いを…と思ったんですが。」
 ありがとう。光は、にっこりと微笑むとふるりと首を横に振る。

「ランティスに、私が造ったって言いたいんだ。だから、頑張る。」



「それで、こういう事?」
 腰に手を当てて、長い髪を揺らしながら海が覗き込む。
光はえへへと笑ってから作業を再開した。糸を掛け編み目を増やす、それは自宅での作業と変わらない。しかし、此処はセフィーロで、光が座っているのは、クリスマスツリーの代わりに飾り付けられたもみの木に似た何かの下。
 同じく覗き込んでいた風がクスリと笑った。
「光さん、お気を付けにならないと酷く長い小指になっているようですわ。」
「え、あああ!?」
 光は慌てて、編み目を解く。ぱらぱらと解けた毛糸が編み目の形のまま床に固まっていく。海の手が毛糸玉を拾い上げると、光の邪魔にならないように巻き取っていった。綺麗に巻き直されたそれは、光が持参した籠に戻された。
「それでも、諦めないあたりが、光らしいわね。」
「ええ、そして運も光さんの味方のようですわ、ランティスさん、遅れていらっしゃるようですもの。光さん、もう少しですわ、頑張って下さいね。」
「うん、頑張るよ。海ちゃん、風ちゃんありがとう。」
 にこり微笑んで、光はまた視線を手元に戻した。邪魔にならないようにと、海と風も場を離れる。
遠くに聞こえる、パーティの喧騒も光の耳には入らない。
今朝道場で朝稽古に励んでいた時と寸分たがわぬ集中力だった。それでも、ふっとい息を吐く瞬間がある。詰めていた空気をひといきで吐き出して、光は初めて視線を上げた。
「飲むか?」

 思っても見なかった声が、隣から聞こえて、光は長いお下げを振ってそちら見る。
そこにはランティスが、白い神官の衣装を纏い、膝を曲げ座り込んでいた。
彼の手には、湯気を立てたカップが握られていた。そこから、甘い香りがして目を見開くと、対象するようにランティスの瞳は細められる。
「いつからいたの、ランティス?」
「ずっと。」
「…ずっと?」
 光は、膝の上に編みかけの手袋を降ろしてランティスの顔を覗き込む。こくりと彼は頷いた。
「セフィーロ城に戻ってから、ずっと此処にいた。」
「そうなんだ。私全然気付かなかった。」
 膝に下ろされた光の手に、ランティスはカップを置く。大きなランティスの手では普通に見えたそれは、随分大きくて光は兄が、手袋を鍋つかみだと言っていた事を思い出す。
 口にするとココアに似た飲料で少々温くい。彼がそれなりの時間此処で座っていたのだとそれは光に教えてくれた。
「クリスマスのプレゼント…ランティスの分だけ遅くなってごめんなさい。」
「今、ヒカルが作ってくれているものか?」
 ランティスの瞳はあくまでも優しい。光は頬を染めて頷く。
「ゆっくりすればいい。俺は、此処で待っている。」
「うん。」
 にっこりと微笑んで、しかし光はふるふると首を振った。
「でも、もうすぐ出来るんだ。待っててね。」
 光は飲みかけのカップを横に置くと再び作業に取り掛かる。横でランティスが見守ってくれているのはわかる。
 でも、不思議だと光は思う。
 魔物を前にすると、肌を刺すような威圧感を出す剣士なのに、こうして自分の横にいても、ちっとも存在を感じさせない。
 まるで、其処に…自分の横にいるのが当たり前の様に、ランティスはいる。気配が無いというのだろうか、違和感は無い。けれど、決してひとりでは無い。彼が其処にいる暖かさとでもいうものが、確かにそこにある。
「ねぇ、ランティス。」
 応えは無い。しかし、ランティスの首が傾げられた気配がした。
「私ね、東京にいてもランティスがいるような気がする時があるんだ。」
 そうして光は今日の出来事を語ってみせた。無口なランティスは、言葉としての答えは返さない。周囲は、また光が一方的にお喋りをしているのだと思う。それでも、彼等の邪魔をするものなど、勇猛果敢な妖精か、動じない司令官以外にはいないのだ。
「どうして、私ランティスがいる…なんて思うのかな?不思議だよね。」
「不思議でもなんでもない。」
 ランティスの言葉は、本当に簡単そうに聞こえた。
「俺はいつもヒカルの事を想っている。此処は、思いが力になるセフィーロだ。」

「え、えと。私、続きするね。」
「ああ。」
 真っ赤になってしまった頬は、きっとカップの中身よりも熱いに違いない。光は答えを上手く返す事が出来なくて視線を編み物に戻した。
 ランティスの告げる事はわかる…けれど、何か違うと光は思う。でも、何が違うのかはよくわからない。どうしたら、わかるんだろう。ちょっとだけ首を傾げつつ、手袋は形になっていった。
 


「ランティス、出来たよ。ほら!」
 振り向き、微笑んだ光の表情は、あれと変化する。ランティスは樹に背を預け腕を組んで眠っている。規則正しい呼吸音、上下する広い胸。無防備で何処か可愛い寝顔だ。
 ぐぐっと顔を近づけてみる。目覚めない。
「疲れてるんだね。」
 光はクスリと笑って、編みあがったばっかりの手袋をランティスの膝の上に置いてみる。網目はバラバラ、長さもチグハグ。綺麗な仕上がりにはほど遠い。それでも、ランティスを想い一生懸命作ったものだ。それだけは自信があった。
 あ…。
光は口元に手を当てて呟いた。「わかった気がする。」
 どうして、東京でも『ランティス』を感じるのか。

ランティスが自分を想ってくれて、そして、私がランティスを想っているからなんだ。
それは、想いを共有できるって事で、だから、きっと…。

 眠るランティスの顔を覗き込み、光はそっと呟いた。

「恋人って…事なんだ…。」

 光は眠るランティスを見つめ続けた。彼のセフィーロの空を写す瞳が開いた時、いつもランティスが自分を見つめるような、優しくて確かな眼差しを向けられるといいなぁと光は思う。
 うんと優しく見つめて、手袋を渡してこう告げるのだ。

「ランティス、大好き。」


〜fin



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