貴方の願いが叶う時


「お邪魔致します。」
玄関で風が丁寧にお辞儀をすると、マルとモロもお辞儀を返す。
『いらっしゃませ〜。』
「はい。」
にっこり微笑んで玄関をくぐると、四月一日も顔を出した。
「鳳凰寺さんいらっしゃい。王子君なら、奥にいるよ。」
お疲れ様です。と四月一日にも頭を下げると、微かに頬を赤らめて風に話し掛けてきた。
「今さっき道具を片付けるって奥に、あの納戸ね。行ったんだ。でも、王子フェリオなんて面白い名前だよね〜。」
 どちらかと言えば『フェリオ王子』が正しい言い方ではないのだろうか。侑子が『王子君』と呼んでいたのを彼は勘違いして、苗字だと思っているらしい。フェリオも平気で返事をしているようなので風は敢えて訂正はしなかった。
 微笑ながら靴を脱いで上がる。
フェリオと再会してから二週間は経っている。勝手知ったる他人の何とやら、風は迷いもせずに納戸を目指した。
 しかし、納戸まで行って、呼びかけてみたが返事が無い。不思議に思って来た廊下を引き返していた途中で、僅かに開いた襖から何かが見えた。
 ハッと顔色を変えて襖を開けると、倒れこんでいるフェリオ。
「フェリオ!」
 理由はわかっている。何かの切欠でフェリオが思い出そうとしたのだ。

自分の事を。

 風は倒れた時に何処かに怪我が無いか確認して、安堵の溜め息を付く。
 こうしていると何事も無かったように彼は目を覚まし、自分が何故意識を失ったのかさえ忘れていて、いつも頭を捻り不思議そうな顔をして、自分を見つめる。
「…あ…。」
 フェリオの傍らに落ちていたオーブを見て、風は眉を顰めた。
「これを御覧になって思い出そうとなさったんですね。」
 風は懐かし気に、そして寂しそうにそれを眺めた。手で触れるのが躊躇われたのは、いつもオーブが自分の手を離れ彼の元へ戻ってしまうから。
 光がランティスからの首飾を携えてこの世界に戻れた事を知った時に、衝撃を受けなかったといえば嘘になる。何故自分の元には留まってくれなかったのかと、己を責めた。
考えてみれば、彼女は『柱』に選ばれた人間であり、セフィーロとの縁に格段の差があったとしても当然なのだけれど。
 恐る恐る風は手を伸ばし、オーブを持ち上げようとした目の前で、細くて白い手が二つのオーブを持ち上げた。長い黒髪が畳を撫でて、すっと上がる。
風はそれにあわせて視線を上げた。
「侑子さん。」
「これが、思い出のオーブ?」
 侑子は、胸元に二つのオーブを寄せるように持ち上げて見つめている。
どうして、彼女が知っているのだろうか…?
風は、一瞬返事に戸惑うが、彼女がフェリオの願いを聞いた時に話をしたのかもそれないと思い直して首を縦に振る。
 彼女は、ふっと笑みを浮かべた。
「あの…?」
 侑子の笑みは、何もかも知り尽くした賢者なような輝きを秘めているにも係わらず、何処無く寂しげな影を感じる。けれど、決して『何か』に諦めを感じさせるようなものでは無い。
 強いて言えば、セフィーロで出会った導師クレフのそれにも類似しているだろうか?しかし、彼女はそれ以上の深さを風に感じさせた。
 侑子はそんな風の心情を全く解していないように、手の内のオーブをフェリオの頭に落とした。鈍い衝撃音が二つ響くと、勢いよくフェリオが顔を上げた。
「いってぇ〜!!!」
大きな声を上げてから、後頭部を両手で抱えてまたしゃがみ込む。
「だ、大丈夫ですか、フェリオさん。」
 慌てて風が、フェリオの頭を撫でてみると、腫れている。立派な音がしただけの事はあったようだ。本気で痛かったのだろう。フェリオの目尻には涙が浮かんでいた。
「ほら、落ちてるわよ。」
 何事も起きていなかったように、侑子は嗤いながら再び床に落ちたオーブを指差した。ムッとした表情のまま、フェリオは素早くそれを回収するとジーンズのポケットに詰め込んだ。
「お前痛いじゃな…。」
 抗議の言葉を口にしようとしたフェリオの唇に侑子は人差し指を当てた。『黙れ』というリアクションにフェリオは開いた口はそのまま、侑子の顔を仰ぎ見た。
「観光したくない?」
「は?」
「こっちの世界に来て、塀から外は出てないんじゃない?折角だから、彼女に観光案内してもらったら?」
 いきなり何を言い出すのかとフェリオが顔を歪めると、侑子は再度にやりと嗤う。
「明日一日お休みを上げるから、観光してきなさいよ。」
「…バイトは…?」
 有給休暇をくれるような生易しい相手では無いはずだ。ますます、訝しげな表情になったフェリオに当てがあるからいいわと告げた。そして、風に視線を向ける。
 先程の笑みは引っ込み、見据えるような瞳が風に向けられていた。
「楽しんでくるといいわ。…そうね。最後に一番近い場所に彼を案内してあげるといいんじゃないかしら?」
 ハッと風の顔色が変わった。
「…急にそんな。フウにだって迷惑だろ。」
 フェリオは自分が背を向けている彼女の様子には気付かず、微かに頬を染めながら言う。侑子は、風から視線は逸らさなかった。

 東京でセフィーロに一番近い場所。自分達が召喚され、そして今その姿が映し出されている場所。

「…迷惑ではありませんわ。明日は、校舎の大幅な補修作業がありますので臨時休校になったところですから…。」
 嗚呼、彼女には何もかもわかっているのだろう。風はそう感じて、困ったように笑みを浮かべた。学校が休みになる事も、自分がそう言い出そうとしていた事も。
 今まで言い出せなかった理由は簡単だ。彼に此処にいて欲しかったから。
あそこなら、彼をセフィーロに戻せるのかもしれないと思いつつ口に出すことは出来なかった。光や海から、フェリオに告げられる事がないのをわかっていて、自分さえ言い出さなければ誰も知らない事を知っていて、口を閉ざした。

 記憶がなくてもいいとさえ思った。ずっと側にいられるのなら、もう一度自分を好きになって貰える…そんな根拠の無い自信もあった。あまつさえ、セフィーロに帰る事を諦めてくれたなら…などとも考えてしまう。
 けれど、そんな卑怯な思いを『好きだから』という言葉で片付ける事がどうしても出来なかった。再会出来るのなら堂々と胸を張って大好きだと告げる状況でありたいと願った。



 普段通り、手伝いをして明日の約束をした風に、フェリオはすまんと頭を下げた。
きょとんと自分を見返してから、綺麗な笑みを浮かべる風にフェリオの頬は赤く染まった。
「私と一緒では、お困りになりますか?」
「俺…俺は、フウと出掛ける事が嫌なんじゃない。迷惑を掛けていると感じる事が嫌なんだ。なんで俺に其処までしてくれるんだ?」
 セフィーロの砂漠で同じような質問をされた気がして、風はクスリと笑った。
「さあ、どうしてでしょう。わかりませんわ。」
 恐らく、こんな返事を返したであろう言葉をフェリオに伝えた。『彼はどう答えるのだろうか』そんな事を思った風に、頭を掻きながらフェリオは笑う。
「馬鹿だなぁ…。」

   その答えを聞いた途端、胸の中に支えていたものが一気に溢れだした。


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