貴方の願いが叶う時


 風は言葉も出ない。

 もう会えないと思っていた人に会えたのかと思えば、本人は自分を知らないと言う。 これは一体どういう事なのか…目の前にいるフェリオは、自分の知っている彼では無いという事なのだろうか!?
「誰って!?フェリオ貴方本気で言ってるの?」
 呆れた声が海の口から漏れる。「私達をからかっているわけじゃないわよね!?」
「お前こそ何言ってるんだ?俺はそんな名前…。」
「フェリオ!」
 自分が掴んでいた風の身体が震えているのを感じて、光はフェリオの言葉を遮った。
風の感じている衝撃を察し、なおフェリオが本気であることを知り、もう一度ゆっくりと光は話し掛ける。
「私達が、セフィーロに召喚された時三人だったよね。それは覚えてる?フェリオ。」
「当たり前だろ。魔神は三体あったんだから…。光と海と…。」
 そこまで言って、フェリオは眉を顰めた。片手で目を覆い俯く彼を侑子は黙って見つめている。
「…あ…れ?もう一人…。」
 隠されていないもう片方の瞳がふいに細められるとカクンと膝を折り、フェリオの身体はトサッと畳の上に崩れ落ちた。
「フェリオ!?」
 今まで動かなかった風は反射的に駆け寄るとフェリオの身体を揺さぶった。
しかし、固く閉じた瞼は上がらない。風は両手で、その肩を掴むと顔を近づけなおその名を呼ぶ。何もかも、納得のいく理屈は無い。
 しかし、そんなものより彼の身が大切だった。
「フェリオ!!」
「大丈夫。眠ってるだけよ。」
「え…?」
 顔を上げた風の顔を覗きこみ侑子は笑みを浮かべる。でも…と言葉を続けようとした風に、彼女は妖艶な笑顔を見せた。
「今、バイト君とその友人がくるの。彼を運ばせるから気にしなくていいわ。」



 程無く、四月一日と言うバイト君と百目鬼と呼ばれる友人が訪れ、侑子に文句を告げながらフェリオを別の部屋に運び布団を敷いて寝かせてくれた。
 フェリオが目を覚ますまで付いていると言った風を残して、光と海は帰路に着くことした。一緒に残ると言った二人に風は大丈夫と言って揺るがず、二人は渋々受け入れた。
『絶対に訳を教えてよ!』
ときつい口調で海は言い、それから心配そうな表情を浮かべる。
『それから、無理しちゃ駄目。何があっても私や光がついてるからね。』
 二人の心遣いに感謝して、風は笑みを浮かべて頭を下げた。

 シンとした部屋の中で、眠っているフェリオの顔を見つめていると、セフィーロでの思い出が頭に浮かぶ。そっと、彼の眠りを妨げないように髪に手をやり梳く。温かな体温が、規則正しい呼吸が幻ではないという事実を風の胸に湧き上がらせる。
 知らず涙が溢れた。
 歓喜のそれなのか、自分を知らないと言った彼に対しての絶望なのか判断することは出来なかった。
「…フェリオ…。」
 ただ、彼の名前だけが震える唇をついて出る。
「さてと…。」
 上から降ってきた声に、風は眼鏡の端から涙を拭き顔を上げた。相変わらず、艶のある服装の侑子が襖にもたれ掛って自分を見下ろしていた。
「貴方は賢そうだから、説明省き気味でもわかるかしら?」
 風は黙って侑子の顔を見つめていたが、自分の考えを反芻するようにゆっくりと言葉を返した。
「此処は『願いをかなえる店』と貴方はおっしゃいました。そして、願いには『対価』が必要だと…。
 フェリオは、東京に行きたいという願いを貴方にお告げになった。こうして東京にいらっしゃる貴方がどうやってセフィーロにいたフェリオの願いを聞かれたのかはわかりませんが。でも、その対価は私との思い出ではないのでしょうか?。…違っているのでしたらおっしゃって下さい。」
「まぁ、だいたい正解ね。若干の相違点はあるけれど、たいした問題ではないわ。」
 侑子は、風の横に座ってにっこりと微笑んだ。
「…で?貴方はどうしたいの?」
 そう問われて、風は小首を傾げた。困った顔で笑みを浮かべる。
「あの…私にもご商売のお話でしょうか?」
 襖の陰から『毒牙一発』だの『押し売り』だのという叫び声が微かに聞こえた。
侑子がそちらを睨む。一瞬緊張した空気が流れてその声は途切れた。
「そこ、五月蝿い!…何か願い事でもあるの?」
 あらと唇が動く。風は斜め上に視線を走らせて暫く考えていたが、侑子を見て微笑んだ。
「学業も頑張っておりますし、家族も健やかですわ。欲しいものもありますが、お小遣いを溜めれば買えそうです。友人にも不自由はありません。
 対価を払ってでも、叶えたい願い事は…先程まではありましたけれど…。」
 視線がフェリオに移り、風は言葉を途切れさせた。翡翠の瞳は複雑な思いを写すように揺れてはいたがあくまでも優しく穏やかに見える。
「…と思った。私が言っているのは王子君の事。そして、貴方の事。」
 ハッと風が顔を上げる。潤んではいたが、真っ直ぐな彼女の瞳が侑子を捕らえた。
「彼は貴方を忘れてしまった。貴方も自分を忘れてしまった彼を目の前にすると辛いでしょう?貴方はどうするの?」
「…フェリオはどうなるのですか?」
「対価を払い終えるまでは、彼は此処にいるわね。払い終えなければ、ずっと此処にいることになる。」
 ずっと此処に…それは風にとって魅力的な言葉にも思えた。しかし、彼は言っていたではないか『セフィーロは今大切な時期で、戻りたい』と。
「侑子さん。ひとつだけお聞かせ願えますか?『対価』として払ったフェリオの記憶が戻ることはあるのですか?」
「それが『対価』として払ったものならば、決して戻らないわ。」
 侑子の答えを聞き、風は膝に置いていた手をギュっと強く握った。
「…私がこうしてフェリオの側にいるのはご迷惑でしょうか?」
「好きにするといいわ。」
そう言うとにやりと侑子は笑う。
「ここは願いがかなう店なのよ。貴方が此処にはいれたという事は、貴方には願いがあるということ。…そうでしょ?」



 ほんの少し睫毛が震えた。
あの時、沈黙の森でも彼はこうやって目を開けた。風はそう思う。
 眩しそうに目を細めてから、琥珀の瞳が自分を見つめる。そして、フェリオの頬が少しだけ赤く染った。弾かれたように跳ね起きる。
「お目覚めですか?」
「あ…ああ。」
 両目を手で覆いふるっと頭を振った。そして、風を見つめる。
「付いていてくれたのか?」
「はい、急にお倒れになったので驚きましたわ。どこか具合がお悪いのでしょうか?」
 柔らかな笑顔を向ける少女から目を逸らずにいる自分に戸惑いながら、フェリオは首を横に振る。
「何でもないと思う。悪かったな…え…と。」
「風…鳳凰寺風と申します。」
 コクンと頷き、フェリオも言葉を返す。「俺はフェリオだ。」
『知っています。』しかし、それは喉の奥に仕舞い込む。
「フウは、光達と一緒にいたな。」
「とても大切なお友達ですわ。お二人ともお忙しそうでしたので私が残りましたが、ご迷惑でした?」
「こんな美人に見取られて、不満などない。」
 軽く片目を閉じて返されたフェリオの言葉に、風は口元を両手で隠しクスクスと笑った。
なんとなく可笑しかった。
 笑いが止まらない。もう一度、あの時の出会いを繰り返しているような不思議な感覚がくすぐったい。
 困った表情で彼女の様子を見ていたフェリオの右手が伸びる。えっ?と戸惑う風の目尻に浮かんだ涙を拭った。
「あの…?」
「涙目になるほどの冗談を言ったつもりはなかったんだがな。」
 少しだけ拗ねたような笑みを浮かべる彼の表情は柔らかい。

 強い警戒心と僅かな本心が垣間見えた最初の出会い。
いつも人を値踏みして、自分が優位に立つ事を考えていた彼。

 違うと感じた。あの時よりもずっと穏やかだ。
 ああ、それに…と風は感じた。こうして向き合っていると彼の顔が記憶よりも上にある。成長しているのだ、心も身体も。時間という変化が彼を大人へと変えていた。
 ふいに彼が立ち上がる。
「どうなさいました?」
「もう一度、あの女に会ってくる。俺は、こんな場所でグズグズしているわけにはいかないんだ。…早く帰らないと…。」
 最後の言葉は、歯噛みするように低く呟いた。
「ありがとう、世話になった。」
 謝礼の言葉を残して、部屋を出ていくフェリオを風は見送った。じっとしていられないほどの焦りが彼にあるのだろう。

 何故…。と風は問わずにはいられなかった。

 フェリオは何を望んで、自分との思い出を手放してしまったのだろう。再会したところで、彼は自分の望みさえ消失してしまっている。
 お互いに、辛いだけの再会。
 そんなことに考えが及ばないほどに、フェリオが追い詰められていた…と察することも出来たが、違うような気もした。
最後に見せてくれた笑顔には、焦りは欠片も感じられなかったのだ。あの笑みで信じる事が出来たのだ。きっと又、会うことが出来るのだろう…と。

「ただ、買い被っているだけなのかもしれませんね…。」
 幾度となく、彼の智略に助けられた自分がただ考え無しにしてしまったという事実を、すり替えようとしているだけなのかもしれないとも感じて、風は苦く笑った。



 次の日風は、学校を終えた足で『願いがかなう店』へ向かった。
友人の知人という今の立場では、三日位は間を置いて行きたいところなのだが、気持ちがそれを許さなかった。
 もしかしたら、もう彼はいないのかもしれない。
『代価』を払い、喪失した記憶のままセフィーロに帰ってしまう。そんな可能性が風の足を速める。玄関を覗くと、小さな女の子が二人。
『いらっしゃいませ〜』『いらっしゃいませ〜』
 二人は声を重ねると、風の姿を見てクスクスと笑う。
「あの、お邪魔してもよろしいですか?」
そう問うと、『お客様〜?』と声を重ねる。入っていいものかと玄関を覗き込み、風は目を丸くした。
 白い割ぽう着と白い三角巾を付けたフェリオが立っている。
「フェリオ…さん?」
「あぁ…フウか、どうした?」
 おまけに片手にハタキ、片手に狸の信楽焼きを抱えていた。
深刻だった自分の悩みと彼の姿がどうしても一致せずに、風は面食らったまま言葉を続けた。
「いえ私の事は…それより…何事ですか?」
「バイトだ。」
表情ひとつ変えずに、フェリオはそう答えた。


content/ next