Red[10] 双眸 その病はいつから犯されていて、いつから重病の域に入る…という規定はない。精神エネルギーという位のものだから『所謂本人の気力次第です。』などという、医者の曖昧な言葉がそのまま病状を現すと言っても間違いは無い。 呼ばれた気がして、ジェオは読んでいたレポートから顔を上げた。傍らで眠っている上司は本当に眠っているらしく、珍しい事に話し掛けてもこない。 ジェオはレポートに目を戻すことなく、じっとその顔を見つめた。眠っている横顔は綺麗で、銀の髪に白い肌はまるで眠り姫(もっとも彼は男なのだが)のようだ。 「しかし…腹黒いって言葉がこれほど似合うのは、お前位だよ。イーグル。」 さりげに吐いた悪口にも答えが無い。 期待はずれの反応に少しだけ心が落ち込む。 『何を難しい顔をしているんですか?』 未だに眠り続けている上司は、見舞いに行く度そう語りかけてきた。 「手間ばかり掛かる上司の事を考えていると、難しい顔になるんだよ。」 だから、いつもそう返事をする事にしていた。 本当は、不安なのだ。いつ治るなどど、わかったものではないこの病が。 ひょっとしたら、自分が生きている間に彼は目を開かないのではないかという思いが不安を引き寄せる。 そんな思いはこのセフィーロでは御法度だと知っているのに。 「やっぱり、ジェオは此処だね。」 そんな声が聞こえたかと思うとふいに戸が開いた。見ると大きな剣士と小さな少女が覗き込んでいる。 光はジェオの方に目をやり、そしてその奥を覗き込んだ。 「イーグルはどう?」 「反応無し…だな。話しかけてもこない。」 ジェオは、今回セフィーロでまとめて貰ったレポートを片手に両手を持ち上げて見せた。 「そうなんだ。私が来た時は、話しかけてくれたんだけど…。私いっぱい話すぎちゃって疲れさせたのかな?」 う〜んと首を傾げる光にジェオは笑う。 「いつも俺がイーグルの言動に疲れさせてもらってたんだが…あいつを疲れさせる人間がいるだけでも大したものだよ。極意をご教授願いたいくらいだ。」 ジェオの軽口にランティスは眉を潜める。 「ジェオ…イーグルは確実に良くなっている。」 「ああ、解っている。順調だってことはな。…このレポートも、導師に貰ったんだがオートザムのシステムに関する重要事項についてあまりにも考察が鋭くて、目から鱗が落ちて拾うのが大変なぐらいだ。」 いつもより数倍口数の多いジェオにランティスはますます顔を顰めた。普段生真面目な人間が饒舌になるのは、心によほどの不安がある時と相場が決まっている。 セフィーロが再生して、数年過ぎていた。 蓄積された不安は、ジェオの中で叙々に大きくなっていたに違いない。それが今、ふとしたきっかけで表面に出ているのだろうとランティスは思った。 「きっと、イーグルは目を覚ます。」 畳みかけるように話しかけて来たランティスに、ジェオは溜息を付いた。 「すまない…信じていないわけではないんだ。それでも少しだけ不安になる。」 光は、ゆっくりとジェオに近付くとにっこりと笑った。 「皆イーグルが治るように祈ってる。私も海ちゃんも風ちゃんも、クレフも、ランティスもフェリオも…この城の人達は皆信じてる。だから、ジェオもひとりで抱え込まなくていいんだ。」 困ったような、笑っているようなそんな表情のジェオに、光はいっそう笑顔を見せた。 「イーグルだって、目を覚ます事を望んでた。目を覚ましたら、オートザムをセフィーロみたいな青空にするって言ってたもの。もうすぐ目を覚ますに決まってる。」 ね?と子猫のような目でランティスを見ると、彼も微笑んだ。 「セフィーロの柱が言うのだから、間違いはない。」 ランティスは、光の頭の上をぽんぽんと叩いてみせた。うんうんと光も笑う。 ジェオもつられるように微笑んだ。そして、少しだけ考え込んでから光に問い掛けた。 「それで、俺に何か用だったのか?」 「うん。お茶会の準備が出来たからお誘いに来たんだ。今日は、ジェオの好きな羊羹を風ちゃんが作ってきてくれたんだ。歯が浮きそうに甘いんだって。ザズはもう酒瓶を抱えて食べてたんだよ。」 あいたたと頭を抱えたジェオは、あの未成年飲酒者めと呟いた。 そして、もうすぐ読み終わるから直ぐに向かうと二人に告げる。 部屋を出ていくランティスと光を見送ってから、ジェオは再度イーグルの横に椅子に座るとレポートを読み始める。 最後の頁がめくられた時は、彼等が出ていってからさしたる時間は経っていなかった。 「さて…。」 そう言って立ち上がると、ジェオは再び上司の顔に話しかけた。 「…歯が浮くほど甘い羊羹だそうだ。お前も好きだったよな。」 そして扉に向かうジェオの背中に声がした。 「それは、美味しそうですね。僕のも貰ってきて下さいね。」 一瞬時間が止まった。 振り返ったジェオの目には、まるで今までそうだったようにベッドに座り、にこにこと笑っているイーグルの姿が映った。 「お茶は渋い方が美味しいですからね。あなたになら言わずともわかって頂けるでしょうけど。」 「…お…まえ?」 「ん?」 首を傾げるイーグルにジェオは言葉も無い。やっと、開いた口はたどたどしく言葉を紡ぐ。 「…なんで…そんなに普通なんだよ。何年眠ってたと思って…。」 微かに震えるジェオの声に答えるように、イーグルは双眸を開いてジェオを見つめた。 「……おはようございます。」 泣き笑いの表情になったジェオも言葉を返す。 「遅すぎだろうが…寝坊なのは昔からだけどな。」 「これからも、よろしくお願いしますね。」 イーグルは再びにこにこと笑う。 そして、彼らにとっての日常がゆっくりと動き出す。 〜fin
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