All You Need Is Love.[rayearth OVA]


「目醒めたん、だ…。良かった…。」

 安堵に気が緩み、途端に酷い痛みが光を襲う。
 傷を受けた額を庇おうとした身体は、ガクンと膝から力の抜けた。白い手袋が光の腰に回され、身体を支えてくれる。
「ありがとう。」
 御礼だけ告げ、光は風とフェリオから視線を逸らす事はない。それは、此処にいた者も同じだった。
 
 フェリオが、一度纏いを翻してから、足を前に踏み出した。
 先程まで、死人のように横たわっていたにも係わらず、フェリオの足取りは揺るがない。
 まだ床に座している風に向かい、姫君を迎えに来た王子のように膝を折った。差し出された指が風の頬に触れる。

「フウ…、怪我は。」
「かすり傷ですわ、袖が豊かな服を着ていて助かりました。」

 無惨に切り裂かれた袖の有様にフェリオが眉を潜める。
「すまない、フウ…。」
「謝らないでください。こうして、貴方が目を覚ましてくださったのですから。」
 風の言葉に、しかしフェリオは更に顔を歪めた。
「フウ、俺は…。」
 言葉を続けようとしたフェリオを遮るように、再び精獣が唸り声を上げる。
 ウウウと低く連なる声は、天に向かって放たれていた。

重い…。

 光は急激に身体が重くなっていくのを感じる。そう、過去にセフィーロの精獣やイーグルと闘った時に似た、威圧感と確かに身体に感じる圧力。
 何故今それを急に感じなければならないのか。
 額から流れる血が目に入ったのか視界までもが暗く感じる中、精獣にならって天井を見回した光は、初めて自分の身体を支えてくれていた人間を見て息を飲んだ。
 直後に、腕を振り払って距離を取る。

どうして…。

 大きく目を見開いた光から言葉が零れる。驚愕に声が出なかった。
喉から絞り出すようにして、その名を叫ぶ。

「イーグル!!」

 セフィーロ狂気を宿していた王子の姿が、変わらぬ姿でそこにあった。


 貧血を起こしているのか、身体が思うように動かない。
後ずさろうとした光は力を失って片膝を地面につきそれでも、手を支えに上半身を起こして、イーグルを睨んだ。
 冷や汗が額を伝うのは、体調の悪さなのか、彼が目の前にいるせいなのか光にはわからなかった。ドクドクと大きく波打つ心臓の音に悪い予感だけが広がっていく。
 
「随分と嫌われた、ものですね。」

 不備な体調ですら自分を睨む光に、イーグルはクスリと笑った。
 姿形は地球で相まみえた時と同じものだった。服装も、体格も、顔も変わっていない。
 困った様子で両手を上げて肩を竦めてみせた。
それは、白旗を掲げる様子でもあり、こちらをからかっているすかした表情とも取れる。

「アナタがやった事を考えれば当然じゃない!」

 怒りを顕わにした海の声が、光の背中を震わせた。
 海は身体を震わせ、嗚咽を飲み込むように声を張っていた。重苦しい空気まで、彼女の声に震えているように光には感じられた。
「アナタのせいで…地球やセフィーロの人は…!」

 一瞬息を飲み、海はふり絞るように再び声を上げた。
「アスコットだって…! 死ななくて済んだんじゃないの…!?」

 怒りと悲しみが混じり合った声を誰も止めるものは無かった。
 地球の為、自らが望んだ戦いでは無かったとはいえ、アスコットの命を奪ってしまったのはまぎれもない事実であり、(仕方無かった)と割り切る事など、三人のうち誰ひとりとして出来てはいない。

「……フェリオの事も、この人達も…またアナタが…!!「待て、ウミ…。」」

 眉間に深く皺を刻み、クレフは海の言葉を遮ると光とイーグルの間にその身を置いた。
 イーグルは変わらぬ笑みを浮かべたまま、指先ひとつ動かそうとはせず、光はただ息を殺して成り行きを見守る。
「どういう事だ。お前から魔力を感じない。人間という訳ではないだろうがお前は本当にあの(イーグル)なのか?」
 ええ、とイーグルは微笑む。
「僕にはもう何の力もありません。こうして姿を見せる事と、消える事以外には…。」
「何それ、幽霊だとでも言うつもり!?」
 憤慨する海には、イーグルは僅かに眉を潜める。
「そんなものでもありませんね。ただいるだけ、でしょうか?」


「嘘…そんなの嘘だっ!」
 光は思わず声を張り、それを予期していなかった身体はグラリと揺れた。声だけはやけに耳に響いたものの、言葉は掠れているのがわかった。
 自分の名を呼び、焦った表情で手を差し伸べたクレフを押しのけるようにして、光は再度イーグルに対峙する。
 踏ん張りの効かない脚がもどかしい。
「だって…、だったら、どしてこんなに苦しいんだ?」
 飄々として見えたイーグルの顔から一瞬で笑みが消える。(やっぱり)と光は言葉を続けた。

 この重々しい空気にイーグルは関係しているのだ。

「押しつぶされそうなほどの威圧感を感じるのに、怒りじゃなくて苦しくて切ない気持ちになるのは、何でなんだ。」

 言葉を重ねれば、重ねる程、イーグルの瞳が見開かれる。ランティスのような澄んだ碧ではないけれど、翠を帯びた瞳は綺麗にさえ見えた。
 ぐにゃりと歪んだ視界はイーグルの顔を映し出し揺れる。
「ヒカル、貴女は…。」
「悲しみに満ちた気配なんて、私もう感じたくないよ…っ!」
 声を出す度に、ズキズキと心臓が痛む。
 ランティスが命を以て諫めてくれたのに、イーグルはまた同じ事を繰り返すのかと、強く問いただそうとした光は伸ばした指先で彼の袖をつかむ。
 しかし、告げようとした言葉通りに唇が動かない。
 景色が大きく回ればもう立っている事すら危うく、脂汗が滲む指先はそれでもイーグルを離さない。今にも崩れそうな光の腕をイーグルの手が支えた。不思議と温かい腕は柔らかく光を包む。
 ランティスを呼び起こす暖かさは、光に力を与える気がした。

「…もう、好きな人達を…引き離しちゃ、駄目…。」

 寄り添うフェリオと風の姿は、エメロードとザガートが重なる。
 フェリオはやっと目覚めたのだ、もう彼等のように離ればなれになったりしない。
 違う、そうじゃない。もう、してはいけなのだ。だから…。

「駄目なんだ…。」

 吐息の様な光の声は、イーグルの耳にだけ届いた。キュッと唇を噛み、光の身体を抱き寄せる。
「もう、遅いんです…。」
「え…?」
 イーグルの表情を確認しようと上げた光の顔は、背中に吹きつけられた強い風によって彼の胸板に押しつけられる。小さな光の身体など、アッという間に持ち上げられて天井にでも叩きつけられそうだったが、自分を包む腕がそれを拒んだ。
 
「…これ、何…。」
 目も開けていられない風の中、光はそれを見た。
 地下の閉鎖された空間だった部屋に、大きな穴が開いていた。風はそこから吹き出し、光だけではなく海やクレフ、エメロードでさえ邪魔だと言わんばかりにそれを叩きつけている。
 クレフは海を庇い、エメロードは彼の隣に立ち眉を歪めた。

「フェリオ…!」

 彼女の声に、光は目を見開いた。
 穴の中心にフェリオはいた。
 彼の白い纏は強風にはためく事もなく精獣の口にくわえられている。四肢で地に踏ん張る精獣は、身体を低く保ち荒れ狂う空気の波に抵抗していた。何度も、何度も首を振り牙を深く止めようとするが、纏はそれ自体が生き物ででもあるかのようにうねり、精獣を翻弄する。
 なのに、中心にあるフェリオの身体は何も起きていないかのように、動かない。光にピンで止められた虫達の標本を思わせた。
 一体何が起こっているのか、まるで見当が付かないのに、光の心は膨れ上がっていく。上から抑え込まれてでもいるような恐怖と、胸を圧する切なさが容赦なく光を押し潰していく。
 トロリと流れ墜ちる闇が、穴に満ちていた。
ゆうるり、フェリオの身体は消えていく。沈んでいくという表現こそが相応しかったのかもしれない。白い服が少し、また少しと闇の波間に消えていく。
 フェリオ自身も動けないようだったが、見守る人間達もまた誰ひとりとして動く事はままならない。
 
「あぁ…!!!」

 両手で持って、フェリオの腕を掴んでいた風の身体が抵抗出来ずに宙に浮く。風にバタバタとはためくスカートの裾が揺らいだ瞬間に、彼女の両手はフェリオから離れ、空気に押し出され床に叩き付けられそうになる。
 纏を放した精獣は、躊躇いなく風の背後に飛ぶと、彼女を押し戻し、自分自身が床へと遠く投げ出された。
 
「フェリオ!!」

 風の両手が再びフェリオの手首を掴むが、彼はすがりつく風の手を掌で押し返した。自らの意志では動く事さえ容易ではないのだろう、深く眉間に皺を寄せ、それでも振り払う仕草をする。

「…駄目だ…フウ…! このままじゃ、お前も…。」
「いいえ…!!」

 声を張り、風は何度も首を振った。溢れる涙は拭われる事もなく、風に散る。

「私はずっと、貴方が目覚めるのを待っていました! 
 もうお会いする事が出来ないかもしれないと覚悟しながら、それでも待っていました!!」

 迸る声に押され、フェリオの手が止まる。風は躊躇いもなく、その指先に己のものを絡めた。片手で彼の服を掴み縋りつく。

「こうして逢えたのに…貴方はまた、私を残していくおつもりなのですか!?」

 フェリオの手が、風の手首を掴む。彼女の腰を抱き寄せ、胸元に抱いた。
 涙に濡れた風の頬に、フェリオが口付けを落とす。

「すまない…。」

 風がただ首を横に振るのが見えて、それが光が見た最後の光景だった。
 ふたりの姿が見えなくなったのは、視界が暗くなってしまったせいなのか、彼女達が消えてしまったせいなのか、結論が出ないまま、イーグルの腕に抱き留められ、光の意識はプツリとそこで途切れた。


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