All You Need Is Love.[rayearth OVA]


 う…と唸り声が、響く。
 光など射し込まないはずの地底の空間に、しかしそれは確かに降り注いでいた。
 これまで対峙した時と明らかに違う唸り声で、その聖獣は光達を威嚇する。低く腰を落とし、眉間には厚く皺を刻む。怒りなのか、恐怖なのか彼の黒く艶やかな毛は浮き上がり、仔牛ほどもあった身体を膨れさせている。きつく噛み締められた口は咆哮の為に開けられる事はない。
 そうして、ジリジリと獣はフェリオの方へ後退していた。

「効いてるわね。」
 こそりと海が光に耳打ちする。コクリと頷き、光は先頭に立つ風を見た。彼女は剣を構えてすらいない。寧ろ片手にそれを持ち、無防備なほどの仕草で獣と相対していた。
「お願いします。」
 胸元に手を置き、風は聖獣と向き合っていた。ゆるりと近付いていく彼女と距離を置き、獣は背後に脚を落とす。風の直ぐ後から、光と海は歩みを進めていた。
 階段の最下段にはクレフとエメロードが事の成り行きを見守っていた。
「貴方を傷つける事を望んでいるわけではありません。ですから、どうか私にフェリオを返して下さい。」
 懇願の声に、びくりと聖獣が震える。雄々しく立ち上がっていた耳も下がりつつあった。

「ほらほら、観念しちゃいなさいよ。」
 鼻息も荒く海が告げた。
「大人しく異世界とかに帰ってくれるんなら、命まで獲ろうなんていわないわ。」
 腕を捲り上げて、言い放つ海に光は笑う。
「海ちゃん悪代官みたい。」
「もう、失礼ね。」
 クスと笑い、光は再び視線を聖獣に戻した。
 ランティスと共に、そして自分に力を貸してくれた聖獣だからなのだろうか。フェリオの命を奪おうとしてるというのに、光には憎悪や嫌悪の気持ちが浮かんで来なかった。
 その変わり、胸の中に何かモヤモヤとした得体のしれない気持ちが浮かんでくる。

 どうしてなんだろう。

 ふいに、光は思う。
 ひとりぼっちが寂しくて、異世界から此処へ降り立ったはずの聖獣が、どうしてひとりぼっちで、フェリオの前にいるんだろうか?
 目覚めさせられたら困るのだろうかとも思ってみたが、いつ尽きるかもしれない魔力だとクレフは言っていた。
 ならば、その間だけでも外の世界に出ていたいのではないのだろうか?
 ひとりぼっちの空間で、セフィーロに住まう者達を羨ましいと思っていたのなら尚更だ。
 
「…!?」

 光は自分の辿りついた結論に、息を飲む。
 聖獣の目的は(フェリオを眠らせておく事)そんな、おかしな話があるのだろうか?

 そう考えた途端、光は聖獣の前へと身を躍らせていた。

「光さん…!?」
 急に目の前へ飛び出して来た光に、風は目を見開いた。しかし、光は風を振り返る事はせずに、精獣に向かい声を発した。

「お前はどうして、其処にいるの!?」

 光の声に、伏せていた精獣の耳がピクリと動く。見据えていた風ではなく、視線は光に向けられた。黒目がちの瞳は、光にランティスの面影を感じさせる。
 そう、彼は慈しみをもった深い瞳の色で私を見ていた。
「どうして何処にもいかないで、此処にいるの?」
 ジッと光を見つめる瞳に、答えが浮かぶとは思えなかった。それでも、光は問う事を止めない。眼前の精獣がくれるのではない。自分の中で、燻り纏まらない答えを、そうすることによって、明らかに出来る気がしたのだ。

「フェリオを…、フェリオは目覚めさせちゃいけないの?」

 光の言葉に、皆息を飲む。
 今まで、事実だと思っていた事と正反対の事を告げる彼女に、風は戸惑った。
「光さん、どうして…?」
「わからないんだ。」
 光は風の問いを左右に首を振り抜く事で答える。寄せられた眉と、戸惑う瞳は、向かい合う二人の少女に共通している。
「でも、私、この精獣を…。」
 光の言葉が終わる前、ガツンという硬質な音が耳元で響く。そのまま床を小刀が滑っていく。刃についた血糊が床にいびつな線を残す。

「光! 血が…!」
 
 離れて二人を見守っていた海の発する声に、光は頬を伝うぬるりとした液体に気付いた。指先で拭うとそれは粘り気を持って、光の手を汚す。
 ズキンズキンと、耳の近くで心臓の音がした。
「光さん!」
 真っ青な風の背後に送った視線は、自分に槍を向ける兵士の姿を捕らえた。咄嗟に構えた剣が矛先を僅かに反らし、それは床を貫いた。
 風も剣を構え、光を背に庇う。
「光さん、傷が…。」
「大丈夫、少しズキズキするけど大した事はないよ。でも、これって…。」
 いつの間にか、部屋を埋め尽くさんばかりの兵士がフロアに溢れていた。階段を降りてくる足音が、幾つも続いている。

「お前等…結界を…!?」
 クレフにすら剣を振り下ろす兵士は、彼の杖でそれを留められた。海は自分の剣を構え直し、兵士に向かって彼を守る為に剣を斜めに薙いだ。
 暫撃されたというよりも、その力に吹き飛ばされ。兵士達は床に転がり、動かなくなる。
「これって、どういうこと…!?」
「あれを…!」
 海の叫びに、エメロードは階段を急ぎ降りる老いた術師を指さした。
「お前達、何をしている!」
 ドンと階段を杖で叩き、憤った声が兵士達を叱咤する。他人を傷つける事を厭わないその表情は、ただ醜い。
「早く…その娘を…!!」
「しかし、手傷を負わせたのに、精獣使い殿はなにも!」
 術師の声に、応答し兵士が戸惑った声を上げた。(馬鹿者!)術師は、あらん限りの声を張り上げ、叱咤する。
 震える空気に光は顔を歪めた。

「違う、その赤毛の娘ではない、金の髪の女だ!!」

 老いた術師の声に、兵士は一斉に操り人形のように風に向き直る。その中に、あの兵士がいた事に光は息を飲んだ。
 フェリオをこんな目に会わせてしまったと、自分に懺悔した彼が今は風にその刃を向けている。
 一体、どうして!

「やめて、なんでなんだ!!」
 
 光の叫びは取り囲まれた兵士に潰される。それ以上、光に危害を加えるつもりではないようだったが、壁に囲まれたように周囲の状況が掴めない。
「きゃぁああ!」
 鋭い風の悲鳴が上がる。兵士の剣が自分の頭上高く、風に向かって構えているのが見えた。
「風ちゃん!!!!」
 風を呼ぶ声が幾つも聞こえ、その直後、忘れられない声が続く。

「いけない、フェリオ!」

 驚愕に目を見開く光の横に、膝をついている風は見えた。
幸いどこにも怪我らしい怪我は見えず、荒い息と真っ青な顔色以外は、光の見知った風の姿だった。
 ただ、その視線は一点を見つめたまま動かない。その向こうにいる海やクレフ、エメロードも同じ方向を見つめていた。
 周囲には兵士も術者も、彼等全員全が壁に叩き付けられていた。ある者は床に落ち、ある者は階段にその身を横たえている姿は、己に刃を向けられたとて、歓喜で迎える事は光には出来なかった。
 そこから視線を逸らすように、光は皆が凝視している方向へ首を回した。ズキズキと頭が痛む。
 それでも、確かに、光は目を見開き声を上げた。

「…フェリオ…。」

 それまで、何をしても揺るがなかった眠りは、もう彼を捕らえててはいない。見えない何かに座っている彼は、風に向かって伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。
 その指先に、精獣が頬を擦り寄せる。
「ありがとう。」
 ふっと微笑み、フェリオは視線を上げる。
「フェリオ…。」
 風の声が、震えた。


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