All You Need Is Love.[rayearth OVA]


 セフィーロは雨に濡れていた。
 涙を想像せずにはいられないような −誰のと問われれば少女のものを…なのだが− 降り止む事のない水滴が茶色のみが目立つ大地に吸い込まれていく。

 フェリオの様子に変化はない。

それがクレフにとっての唯一の救いだった。レイアースへと望みを繋いだ少女達はまだ、戻らない。
 日々の勤めをこなさなければならないと、自分を律しても集中は直ぐに崩れた。何ひとつ、そう今日という日を迎えてから、クレフは終えた仕事がない事に気付いた。
 四散してしまった気持ちをどうしても繋ぎ止める事が出来ずに、書斎を出た。無駄に長い廊下をゆっくりと歩み、纏わりついてくる憔悴感を置き捨てるように、時折頭を振った。

 どうして、こうも無力なのだろうか。

 クレフの思いはいつも其処へ流れ込む。見守る事も大事な仕事であると、それくらいの分別は持ち合わせているつもりだ。
 けれど、届かない力がただ悔しい。

「ウミ…。」

 口をついた名前に、ただ瞼を閉じたクレフは、奇妙な気配に瞠目した。
「…そんな、まさか…。」
 それは、セフィーロ城の蔵書が置かれた部屋へと通じる扉だった。
クレフにも馴染み深い其処から感じる気配がある。友人だった。イーグルの策略で袂を分かち、異世界で再会を果たし、最後を看取った。

 そして、彼の精獣が今フェリオを眠りの底に堕としている。

「ランティス…。」
 間違えようのない深い波動が、隔てた扉を越えてなおクレフに届く。
それほどに、ランティスの魔力は強力なものだった。こうして、改めて感じれば、その強さにただ驚く。
 短い呪文と共に開け放たれた扉は、クレフを通すと再び重い音をたてて閉じた。

 部屋は普段と変わりなかった。
 古書と呼ばれる古い書物が所狭しと並べられた棚は、セフィーロの歴史のように先が見えないほどに部屋を埋め尽くしていた。
 肌に感じる湿気と、黴臭い匂いだけは、此処を常用しているクレフでさえ馴れない。品々を保存する為に、極力落とされた照明と相まって、薄気味悪い雰囲気が部屋全体から溢れていた。
 悪しき魂を呼び込んでしまうのではないだろうかと、懸念しているクレフは、此処の結界に余念がない。
 壁や床に刻まれた印が様々な効力を持つ魔導のものだと、認識出来る人間が少ないのだが。
 そう考えて、尚更強くランティスを思った。
 魔法を操り、剣を振るう。それが、ランティスだった。普段みせる態度とは裏腹に、ランティスはこの部屋を好いていたようにクレフは記憶している。
 彼の好きな昼寝の次に、本を読む事を好んでいた。
 まだ、親友と呼べる間柄だったイーグルと共に、この部屋に籠もっていた事も珍しくない。精霊であったイーグルもまた、やはり部屋の、この少し重苦しい雰囲気を気に入っているようだった。

 全ては、レイアースで失われてしまったものではないか。

 カツと硬質な床を杖で叩き、クレフは気配を探った。
 衣擦れのような微かなものでさえ、クレフの心をいっそ恐ろしい程に緊張させる。
 早く確かめたい気持ちと、その何処か恐ろしい事実から目を反らしたい気持ちが、クレフの中で鬩ぎ合う。こんな日に限って、ここには誰の姿もない。
 たったひとり、闇の中へ挑むような錯覚を覚えながら、クレフの小柄な身体は並んだ棚の中へと消えていった。
 
 ボソボソと秘やかな話し声が闇から聞こえた。
 ゆらりゆらりと頼りなく揺れる、室内の灯りに煽られるように、クレフはそこへ向かう。
 精霊達の悪戯なのだろうか。セフィーロもそれほど復興していると、そう楽観的に考えた方がいいのだろうかとも思う。精神的に参ってしまい、幻聴を起こしている。
 ああ、その方は幾らもマシだ。
 死んでしまったものの、魔力を感じるなどと言うよりも。

 しかし、強くなっていく魔力に、その期待は裏切られる。どんなに否定しても、その魔力はランティスのものだった。
 そう確信した途端、肌が粟立つ程に震えた。人として、有り得ない現象に今自分が向き合っているのだと確信する。
 このまま、先に進んでしまっていいのか?
 クレフは自問自答する。起きるはずがないと、そう思っている事が起こっている。この先、ひとりで踏み込んでいものだろうか。
 此処は一度退散し、他の術師達と共に先に進むべきなのではないか。自分にどんな厄災が降り掛かり、命を落とすかもしれない。
 それ事態を恐れはしないが、自分の死と共にこの怪奇現象が闇に消えるのは避けた方がいいのではないのか?

 ゆらぐ灯りと同じように、クレフの心は一瞬揺れた。しかし、直ぐに足を進めたのは、目の前の物を黙って見過ごす事が出来ないというクレフの性格の為だった。
 杖を握る手に汗が籠もる。それなのに、体温は逆に下がっているようだ。早く、なるたけ早く。
 どんどんと早くなっていく足並みは、既に走っていると表現してもいい状態で、長くローブを残しながらクレフはその場に踏み込む。
声を出さなかったのは、逃走を警戒したせいではない。ただ緊張の為。しかし、それが功を奏したのか、床に伸びる影ははっきりとクレフの目に映る。
 その姿はランティスの魔力を感じるよりもなお、クレフを戦慄させた。

 人は無力になれば、何かに縋り祈る事しか出来なくなる。その心情を、クレフは悟った気がした。
 まさか、と疑う。そんなと、否定し、何故だと問い掛ける。

 長い纏。短い髪。細く均整のとれた肢体。

 床の影はあろうことか、イーグルの姿を模していた。片手に本を持ち、指先で頁を捲る優雅な仕草にも見覚えがある。
 ゆらゆらと揺れる影に、クレフは目眩を感じる。何かの悪戯なのか、それともこれは現実なのか。
 思わず手を滑らせてしまった杖が、静寂の中派手な音を立てて床に転がった。はっと、それに目を奪われ、しかし、床を転がる杖はそのままクレフは直ぐに顔を上げた。
 白い。
 そう、エメロード姫の色を『金』と例えるなら、イーグルは常に『銀』
 白い衣裳と、色を纏わぬ白く細い髪が、クレフの視界で揺れた。
 翠とも碧ともつかぬ瞳が、何故が微笑むように細められた気がした。

「…イーグル…」

 呼びかけようとしたクレフは、しかし其処に何もない事に気づく。

「…っ…?」
 何も無い。先程まで、強烈に感じていたはずのランティスの気さえ、まるで初めから無かったかのように消失していた。
 消失なのだろうか、本当はただの錯覚で、最初から此処には何も無かったというのが真実なのか…。
 背筋に冷たいものが流れていく。悪夢だとしたのなら質が悪すぎる。それも、白昼夢だ。
 悪い精霊にでも、騙されたのだろうか?

 片手で顔を覆い、ふると頭を振った。

 どうやってでも、冷静になる必要があるだろう。クレフは額に滲む汗を拭き取り、自分が来た方向へ目を向ける。それによって、現実。本物の…だが、に戻っていける気がしたのだ。
 そうして、クレフは再び瞠目する。
 長い髪を揺らし、驚いた様子で唇を僅かに開くエメロードが、指先でそれを隠しながら、クレフを見つめていた。

「姫…?」

 今度もまた幻なのだろうかと、クレフは疑う。
 しかし、彼女が両手で支えるように持っていた本が、何処からともなく入り込んだ風によって、バサバサと頁を捲る様を目にして、それが紛れもなく現実であると、クレフは確信した。
 それと同時に、彼女の細い指先がクレフの額に張りついた髪を撫でつけたので、少し冷えた指がクレフの意識をはっきりとさせた。

「どうなさったのですか? 幻覚でもご覧になったような顔ですわ?」
「まさに、そんな感じです。」
 クレフは上擦った声で答え、取り繕うように笑みを浮かべた。

 ランティスの魔力に、イーグルの幻。

 何をどう取り繕うとも、悪夢の類に違いない。
 クレフは、ほおと息を吐きゆっくりと歩き出した。しかし、エメロードは、クレフが幻を見たあたりに気ぜわしく視線を送り、動こうとはしなかった。
「姫。」
 こんな場所に、大切なエメロードを置き去りにするのが心に掛かり、クレフは彼女を呼ぶ。幻とはいえ、彼女を翻弄した弟君。
 不吉なものを感じないと言えば、嘘になった。
 
「私は、この本片付けてから参りますわ。」
 そして、美しく微笑むと彼女はクレフと反対の方向に足を向けた。

 それから数日後、三人の少女達は剣を携え、再びセフィーロを訪れた。

 


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