All You Need Is Love.[rayearth OVA]


「もう、どうなってるのよ。」
 腰に手を当てて、海は周囲を見回した。二人の友人の姿はその中には無い。
 相変わらず周りは薄暗く、ぼんやりした明かりでは遠くを見通す事は出来ない。
「光みたいに、ここから出るのが試練…とかなのかしら…。」
 言葉を発しても、静かな空間に消えていくのみ。ふうと大きな溜め息を付いた。
「歩いてみればいいのかしらね。」
 海は、しっかりとした足取りで正面に数歩進んでみた。…と、透明なものに急に色が付いたかのように、人影が現れる。
「誰?光?風?」
 早足で、その人影に近づいた海は、かの人の後ろ姿に息を飲んだ。
 紫の髪、背中に白い纏が長く流れている。何よりも間違えようないのは、その杖。先端に様々の装飾が施されているその杖は、この薄闇の中でぼんやりと光を放っている。

「クレフ…!?」

「ウミ。」

 穏やかな声が自分を呼ぶ。
 にこりと笑う顔。童顔なのに、その紫色の瞳だけは思慮の深さを示すように深い。全開で笑う事は少なくて残念に思う事もあるけれど、穏やかに微笑む姿が好きだ。

「どうして、こんなところにいるの?私達の様子でも見に来てくれたの?」
 思わず口元は緩むのを海は感じた。
 嬉しい。走り出した彼女の長い髪が、その早さに会わせて高く跳ね上がる。その表情には満開の笑み。
 どんな理由があろうとも、クレフに逢えるという事実は喜びでしかなく、そう、それにこれから自分は『試練』とやらを受けなければならないのだ。
 光や風の手前、大見得を切ってしまったが、心の中には不安の塊が胸を詰まらせていた。そんな場面で、彼の姿。
 まるで、自分のピンチを知って駆けつけてくれた王子様のようではないか。こんなに、にやけた顔の御姫様なんで、いないわよ。と自分でつっこんでみた。

 しかし、もうすぐ彼に手が届くという距離に来て、海はふいに立ち止まる。目の前にいるのは大好きな人だ。なのに、足が勝手に止まってしまう。

 何故…でも…。わかってしまう。

 理由は、大好きだから。誰よりも、貴方を見つめているから。


「ねぇ、貴方…。」
 普段の彼女からは想像しがたい、戸惑いを隠せない状態でなおも言葉を続ける。
「クレフ…よね?」

 にこり、相手はその返事を告げるように微笑んだ。



「フウ。」
   風は両手で口元を押さえた。目尻が熱くなっていくのが自分でもわかる。動けない。手も足も震えていた。
 そんな自分の様子を、彼は不思議そうに眺めて小首を傾げた。

「どうしたんだ?」 

 自分をいつでも気遣ってくれる、やさしく深い声。
 差し出してくる手。
 なんの躊躇いもなく握る事の出来る自分であったのなら、真実を掴む事が出来なかったとしても、幸せになれたのかもしれない。
 瞼の奥に秘められて、見ることの出来なかった琥珀の瞳が自分を映す。
 顔についた傷も、碧色の髪も。
 少しはにかんだ笑みも。何もかも、ほんの数日前までこうして目の前にあったのだ。

「……フェリオ…。」

 声を喉から出すだけで、胸が詰まり、言葉が掠れる。これを試練と呼ぶのなら、あまりにも…。
「フウ…?」
 戸惑い、自分を宥めるように柔らかな声がこの空間に響いた。
 胸に詰まった言葉を手繰る為に風は、自分の喉に手を添える。喉が…いや手が、全身が震えている。彼が、フェリオであるはずがない。
 彼は、今セフィーロで永遠へと繋がる眠りについている。

それとも…。

「…貴方は…あっ!」
 しかし。言葉の全てが紡がれる前に風はフェリオの腕の中にいた。
「あ、あの…。」
 肩に置かれた手は優しく添えられるだけ。けれど、腰にまわされたそれは力強く引き寄せる。変わらないその仕草。少しだけ頭を傾けて、風の髪に口付けを落とす。
 風は、躊躇いながら手を柔らかく押し付けられた胸板に手を置く。規則正しい、いや幾分早目の鼓動と感じる体温。
「震えてる。」
 ぐっと近づけられる顔。
「フウ。」
 ギュッと目を閉じる。彼の髪から感じる香りも全て、彼自身のもの。
「フェリオ…。」
 風の腕もフェリオの腰に伸びた。

 彼は目覚め、こうして自分の元へ訪れてくれたのだろうか。
 馬鹿な考えだと風はそう思う。けれど、彼の腕を身体を振り払う事は出来ない。ここにいるフェリオは、自分の記憶そのものなのだ。



「誰かいませんか〜!」
 光は、両手で顔を包むと山彦でも呼ぶように声を張り上げた。
「海ちゃん!風ちゃん!」
 音は何かに吸い込まれていくように消えていく。「やっぱり」思った通り、誰もいない。  目を凝らさないと、右も左も、下手をすれば上下でさえわからなくなっていく感覚はあの時と同じ。此処から出る事が試されているはずだ。
 鼻息も荒く、いざ歩き出そうとした光は踵を鳴らす足音に耳を澄ませた。
 規則正しくしっかりとした足取り、余裕をもって聞こえるそれは背が高い相手という事だろうか?
 段々近付いてくることだけはわかった。
 薄闇の中で、何故だかぼおっと明るくなる視界。大柄な人影が止まる。

「…ラン…ティス…。」

 もう二度と会うことなどないと思っていた彼。
 遠い異世界の剣士。黒衣を身に纏い、余り表情を表に出すこともなく、けれど優しかった神官ザガートの弟。二つの世界に心を痛め、自分に苦言を呈してくれた恩人。
 柔らかな黒髪が、目の前で揺れていた。

「久しいな、ヒカル。」
 笑みを浮かべるわけではない。少しだけ細められる瞳が、やさしさだと知っている。頭は違和感に締め付けられそうではあったが、脚と身体は動き始めていた。
 ランティスの直ぐ目の前に立ち、見上げる。
「生きて、たの…?」
「ああ。」
 愛想のない言い方。それすら彼らしい。触れてみたい…しかし、光は手を伸ばすのを躊躇う。もしも、幻だったら、差し伸べて触れてしまうと、しゃぼん玉みたいに消えてしまうのかもしれない。
 光の躊躇いを感じ取ったかのように、ランティスは己の腕を伸ばし光を抱き込んだ。大柄なランティスの腕の中。光は幼子のように腕の中いすっぽりと包まれてしまう。
 そうされれば声も出ない。自分の心臓の音だけが響く空間。
「会いたかった…。」
 ランティスの懐かしい声が、その空間に響いた。

 胸の中に、ずっと留まっていたから。
汚れた水が、時間を隔てた後に濁ったものを沈殿させて澄んだ上澄みが出来るように、純粋にそれだけを願っていたから。望んでいたから。
 
 でも、だからこそ、どんな詭弁をもってしても、わかってしまう。

 唐突にランティスの腕を抜け出した光は、驚いた貌で自分を見下ろす男に問い掛けた。
「ねぇ、ランティス。ランティスが小さい頃の話を教えて欲しいんだ。」
 ランティスは無言。それ自体は、さして珍しいものではない。
「じゃあ、セフィーロの…セフィーロの話をして?」
 大きな緋色の瞳には、輝く光が留まっている。成程、これが試練。
「ランティスは食べ物は何が好き? 一人の時は何をしてる? 大事にしているものって何?」
 矢継ぎ早に出てくる質問にランティスは答えない。それから、えと、それから…。光は思いついた事を全て並べ立てた。話し続けていたから、呼吸も苦しい。ゴクンと喉に溜まった唾を飲み込む時、ギュッと目を閉じたら目尻から涙が溢れた。
 それでも、光は笑顔をつくる。
「ね、答えられないよね…。だって、貴方は、私の中にいるランティスだもの。
 私…、私は、ランティスの事、何にも知らないんだもん…。」
 


「ありがとうございます。」
 風は、自分を包み込む腕をそっと外した。
 触れる体温は確かに離れがたかく、手放す事など出来ないのだと、それだけは確信した。
 大切で愛おしい温もり。
 風は両手で、フェリオの左手を包み込む。綺麗な翠色のオーブが光沢を帯びて輝く。最後に見たのは、こんな色では無かった。もっと、青味の増した馴染みのない色合い。だからこそ、此処にいるフェリオのオーブは見慣れた色をしているのだろう。
 自分の中に蓄積している記憶の、不確定要素の少ないものを選び取っているのはず。

「貴方がどれだけ大切なのか、これではっきりと分かりました。私、絶対に諦める事など致しません。たとえ、全ての手段をなくしたとしても、この思いは変わりませんわ。」
 風の唇はゆっくりと言葉を紡ぐ。はらはらと翡翠の瞳は透明の雫をこぼし続けていたけれど、風は止めようとはしなかった。
 告げなければならない言葉はわかっていて。それでも、きっと紡いでしまえば、手の中にある温もりは消えてしまう。  そう、覚悟は出来ている。それでも、辛い。
 迷いを振り切るように、風は顔を上げた。フェリオの顔を見てしまうと、それでも決心は鈍ったのだけれど、これが試練ならば、決して逃げ出す事など出来はしない。
 強い決意を示すように、風ゆっくりと口元を綻ばす。綺麗な笑みが、彼女の顔を覆う。
「貴方は、私のフェリオではありません。」



「そうじゃないのよ。」
 海は、額に手を当てて溜息をついた。
乙女心ってものが、全くわかってないわと文句を唇にのせた。
「しかし、これがお前の望んでいる『私』ではないのか?」
 クレフは困惑した表情で、大きく手を広げ自分の姿を見回した。
「そうよ。望んでいたわ。」
 ああ、もうと首を横に振る。綺麗な青い髪がさらさらと揺れた。
「気が利いてて、スマートで。いつでも私の事を最優先にしてくれる。私が会いたいって言ったら、何を差し置いても来てくれて、私の事だけ考えて…。」
「それなら…。」
「でもね、でも、それは、クレフじゃないの。」
 
「私のクレフはね。馬鹿が付くほどに真面目で、でも妙なところがすっとぼけてて、鈍くて、なのに結構短気で、ちっちゃい事に拘ったりする、ちっちゃい男よ。」
 一息に捲し立てて、海は自分で言った言葉にうんざりする。
「何か嫌だわ。これって褒め言葉なのかしら。」
「お前は、私のそんなところが好きなのか。」
 目の前のクレフが、困った表情で眉を寄せるものだから益々海を苛だたせた。馬鹿な事言わないでよ。

「別にそんなところが、好きな訳じゃないわよ!」

 海は、大きく息を吸い込むと、クレフの姿をした自分の心を睨み付ける。腹が立つったらないわ。貴方にじゃあないの、私によ。
 こんな馬鹿馬鹿しい理想を描いていたなんて、本気でどうかしているわ。こんなの…。

「そんなところが好きなんじゃなくて、そういうところも含めて、クレフという人間が好きなの!わかった!?」
 自分の思い通りになる人間だから、好きな訳じゃない。
 腹が立つ事なんてそれこそ山程あるし、意見の衝突や、私の気持ちをわかってくれない苛立ちなんて、両手両足を使ったって全然足りないわ!
 それでも、そんな。

「ありのままのクレフが好きなの! 貴方なんかいらないわ!」

 きっぱりと断罪するように言い切った海は、頬を紅潮させて、息を弾ませていた。
 困った表情をしていたクレフが、クスリと笑う。

「そうか…。」
「そうよ。」

 顔を上げた、その笑みは、確かにセフィーロで自分を心配してくれているだろう、クレフのものだった。

「ならば、合格だ。」

 クレフの声は、セレスの声に重なり、薄ぼんやりとした闇は、眩い光に変わる。目を開けていることも出来ずに海は腕で両目を庇い、息を飲む。
 人の姿をした何かが、ゆっくりと形を変えていく様子を驚愕の表情と共に見守った。


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