擬態の限界


 常世の春がセフィーロだった。
柱を失った今でも気候は穏やかで過ごし易い。そして、ぽかぽかとした陽気を誰よりも(例えるのならセフィーロの住民よりも)享受している男がいる。
 彼は、自らが主催したセフィーロとオートザムの会合の最中に瞼を固く閉ざして船をこぐ。
 ゆらゆらと前後に振られる身体は、揺り籠のごとく彼の眠りを深くしているように見える。涎を垂らす訳でも鼾をかく訳でもないのは立派なものだが、そもそも居眠りをしている時点で問題がある。
しかし、事、此処に及んでは、彼の片腕たる副官も、技術担当者も苦笑いすら出ず、見て見ぬフリを決め込んでいた。勿論、彼の親友も同じ態度を貫いている。
 
「…イーグル…。」

 呼ぶ声に仕方なく、それは本当に仕方無く、フェリオはイーグルの肩を揺すった。ゆらりゆらりと前後の振れ幅は大きくなったが、眠りを妨げるまでにはいかない。
 短気な老人の手が震えている。

ああ、もう駄目だな。

 その場にいた全ての人間が思った瞬間に、司令官の後頭部には飾りがたっぷりと乗った重い杖が振り下ろされていた。
 
 ◆ ◆ ◆

「見事な音がしましたね。」

 後頭部にこんもりと膨れた瘤を撫でながらイーグルは苦笑する。銀色の髪は直毛なので、盛り上がった部分は妙に目立った。
 隣に座っていたフェリオは、眉を歪めて首を竦める。
 杖の直撃に覚えのある彼には、イーグルの痛みがわかる。小柄な導師が持っている杖なのだから、重さはないように見えるが実際それなりの殺傷力を秘めているのだ。
 容赦なく後頭部を打撃という他国の要人に対しての処遇としては判断に苦しむところではあるが、ランティスは無表情で(お前が悪い)と告げる。
 上から降って来る親友の台詞に、イーグルは(酷い言い方ですねぇ)と笑った。ふたりを見下ろす様に幹に体を凭れランティスは腕を組む。木漏れ日が柔らかな日差しを落とす、此処は昼寝に最適な大樹の根元。愛用者達が、執務の合間の休息を楽しんでいた。
「導師は短気でいらっしゃるからな。」
 クスクスッと笑うフェリオに、イーグルも同意する。
「でも、僕なんかでも本気で叱って下さるところが、導師の良いところですよね、王子。」
「それはそうだが、緩めて頂きたいと思う時もある。」
 普段から導師の御指導御鞭撻を受けている王子の返答には、ランティスが(お前が悪い)ともう一度繰り返した。にやりと口端を上げてもみせるので、フェリオはムッとした表情で睨み上げる。
「なんだよ、」
 答えを返す気持ちなど欠片もない男に、イーグルは笑う。
「羨ましいんですよ。余りにも好き勝手ばかりするので、導師もランティスには何も言わなくなってるみたいですから。」
「お前もだろう。ジェオは匙を投げたと言っていたぞ。」
 
 それって信頼されてるって事なんだろうなあ。

 相手の揚げ足を取り合う二人に、フェリオはそんな感想を抱いていた。
 王子としてまだまだ未熟さの残る自分が気になって、導師も(恐らくランティスも)つい口出ししてしまう。

 羨ましい、なんて思うのが未熟な証拠だ。このふたりと自分では明らかに格が違いすぎるのに。

 フウと息を吐き、フェリオは立ち上がると服についた葉っぱをパンパンと両手で払う。
「どうしました?」
「いや、鍛錬でもしようかと思って。じゃあ、ごゆっくり。」
 ヒラと手を振り遠ざかる背中を眺め、イーグルは黄褐色の瞳を細める。
「基本的には真面目、ですよね。王子様は。」
「悪くはないだろう。」
 低めた声に、友人の不機嫌さを感じ取ったのだろうイーグルは再びクスクスと笑い出す。なんだ、かんだと言っても、この親友は身びいきだとイーグルは思う。
 自らがからかう分は良いらしいが、他人が告げる分は駄目なのだから。
 剣呑な親友の顔を見上げて、イーグルは言葉を付け足した。

「褒めてるんですよ。」
 
 ◆ ◆ ◆

 城務めの剣士達が集う鍛錬の場は、誰もいない。
 フェリオはキョロと周囲を見回して、本当に誰もいない事を確認してからオーブから愛用の剣を取り出した。
 両手で柄を握り、ギュッと力を込めると不思議な程に指先に馴染む。
大きく振り上げてから、地に向かって勢い良く下ろし地面と平行になるようピタリと留める。
 たかだが、こんな素振りひとつでも糸を張ったような心地がするから不思議なものだ。雑念ばかり浮かんでしまう頭でも、澄んでいくような気になってくる。

 こうしていることが−好きなのだ−と自覚出来る。

「…あれ…?」

 ふいに声がして、フェリオは視線をそちらへ向ける。オートザムの兵士だろうか、周囲を見回し、けれどフェリオと目が合うとビクリと背を反らした。
「フェリオ、王子…。」
 さっと強張った表情が、己が不味い場所へ来てしまったのではないかという危惧だと悟り、フェリオは剣をサクリと地に刺してから、相手に笑い掛ける。
「どうした?」
 それでも、身体を硬直したままの兵士は何度か口をパクパクさせた後に、直角に身体を曲げる。お辞儀というより、もはや機械体操の動きだろう。
 地面に向かって声を張り上げる。
「邪魔をするつもりはありませんでした!申し訳ございません!」
「いや、頭を上げてくれ。俺は大した事などしてない。」
 どうも新米の兵士らしい。
 フェリオは苦笑したまま、相手に近付くとポンポンと背中を叩いた。
 親交の深い兵士などは、セフィーロの剣士達とも刃を交えて鍛錬する機会も多く、フェリオに対してここまで(王族)扱いをする者はいない。道に迷った様子といい、セフィーロに赴いたのは初めてに違いなかった。
「それよりどうした? オートザムの方々は皆休憩中だと伺っているが?」
 ハ、ハイと吃りはしたが彼は敬礼の姿勢をとると、副司令官を捜しているのだと告げる。
「訓練を再開するはずでしたが、司令官殿を捜しに行かれたままお戻りになりません。」
 のんびりと木陰で昼寝をしている司令官を思い浮かべ、彼を必死になって起こそうとするジェオの姿がフェリオには容易に想像出来た。
 ククッと笑いが漏れ、それでも他国の名誉もあるだろうと口元を抑える。怪訝な顔をした兵士に捜し人の居場所を教えようと腕を上げた瞬間にふわりとした声が響いた。
 
「フェリオ。」

 木漏れ日の中に佇む少女に、フェリオの顔も綻んだ。緩く巻いた髪を揺らす彼女を名を呼んだ。
「フウ…!」
 フェリオの声に風は瞳を細めて緩やかに笑みを浮かべ、会釈をする。
「どうしたんだ、約束していたか?」
 愛おしい少女の姿に、兵士の事など忘れて駆け寄れば、風はちらりと視線を逸らし、眉を寄せた。
 あの…。と小さく呟く。
 そうして初めて、フェリオは兵士の事を思い出した。
 振り返れば、置き去りにされた兵士と視線があう。彼は慌てて目を反らす。何処か不自然な仕草だとフェリオは感じた。

「副指令殿は、この奥の庭園だと思う。探してみると良い。」

 ハ、ハイとまた吃り、もう一度敬礼をする。
「お邪魔致しました!ありがとうございます!!」
 声も高らかに叫び、兵士はふたりに背を向けて早足で奥へと向かう。それを見遣り、フェリオは風へと視線を戻した。
 今度は彼女も微笑んで、フェリオを見つめ返す。
「三人でお茶をしておりましたら、急にセフィーロへ行こうという話しになってしまって…。」
 瞼を落とすと風は少しだけ頬を染めて俯いた。
「勢いで伺ってしまって、ご迷惑ではありませんでしたか?」
 彼女は己の行動を恥じているらしい。
 確かに、彼女は思慮深く冷静な少女だ。時々、ドキリとするような鋭い言葉を贈ってくれる。それでも、ふいに可愛らしい事をする。今、約束もないのに、セフィーロに訪れてくれるような事だ。
 迷惑な筈がない。
 此処の人間も大歓迎に決まっているが、彼女の不在時に、常に風の事を思い浮かべている自分の方が(ある意味)迷惑だろう。
 ふるりと首を横に振って、左手を抱く。
「フウが来てくれて、嬉しいよ。」
 指のリングに唇をつければ、フウの顔は真っ赤になった。頬に纏う金色の髪を指先でほぐす仕草が可愛らしい。
 けれど、兵士の脚は止まっていた。彼はまま振り返り、けれど直ぐに踵を返した。
それでも視線の先は風の姿だった事にフェリオは眉を寄せる。
 感じたのは、先程と同じ違和感だった。


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