※一応レイアース。

下界が滅びたら我々は楽園を築こう


 白い部屋。透明な管が部屋中に張り巡らされて、透明な筒を通っていく筒の中には透明な液体が流れていた。
 その管全てが、部屋の中心に設えられた医療用のベッドへと流れ込んでいた。ベッドは天蓋から乳白色の布が幾重にも降ろされ、そこにいるだろう人間の姿を見る事は出来なかった。
 それでも、布の隙間からか細く小さな腕と、それを包み込むように巻き付いた管が見えた。
 ピクリと腕が痙攣する。
「…クレフ…!」
 彼が病室へ運び込まれてからずっと付き添っていたプレセアは、座っていた椅子から腰を上げた。
 何度も彼の名を呼び、布を丁寧に手で押しのけてベッドへと向かう。大きなベッドに横たわる小さな膨らみが規則正しく上下を繰り返していた。
 プレセアはその小さな口に耳を寄せた。
 震える唇から吐き出される吐息のような声が、プレセアの耳に届く前に消えていく。それでも、彼女は根気強くその言葉に耳を傾け、病人の意志をくみ取ろうと努力した。
「…王子を呼んでいらっしゃるのですか?」
 コクリと布の向こうで頷く小さな影。
「わかりました。すぐに、お呼びいたします。」
 ぱっと身翻して、プレセアは足早に廊下へと向かう。扉を開け、一瞬だけ振り返る。
「すぐに戻りますから…。」
 ただ、部屋を離れる。そのことだけでプレセアの胸が締め付けられそうに痛んだ。
セフィーロという、『心』で支える国を失い。他国へと避難した人々は皆等しくその国の寿命を享受しなければならなかった。
 心が強ければ、自らの力で保つ事が可能だった命はただ流されるモノへ変わる。幸いな事に現状からの移行であり、実年齢に比例して急激に変化するものでは無かった。
 けれど、導師クレフだけは異例で、寿命を追うように身体が老化し衰弱していく。魔力でもって留める事も可能だったのだが、彼はそれを行おうとはしなかった。
 内臓等の全ての機能はオートザムのマシンによって補われ、(その動力もまた精神エネルギーだった)生命を維持している。
 目的方向に向かって移動している廊下の上を走りながら、プレセアは唇を噛みしめた。
 導師クレフの命は長くはない。
側に使え、慕っていた彼女にはその現実が痛いほどにわかっていた。セフィーロを失い。他国に身を委ねる身の上でも、己の心で成していた仕事が何ひとつ出来なくなった状況でも、クレフのお側にいることが出来ればそれでも良かった。
 それも、それですらもうすぐ叶わない願いへと変わる。
一分一秒でも、クレフの側にいたい。
 プレセアの願いは、今やただひとつだと言っても良かった。
 ドンドンと扉を叩き、プレセアはフェリオの名を呼んだ。
緩慢な動作で姿を見せた王子にも、胸が痛む。彼も随分と痩せた。

「どうした?プレセア。」
「導師クレフが貴方を呼んでいらっしゃます。」
 声を潜めて用件を告げれば、直ぐ行くと部屋へ踵を帰した。プレセアも彼を待つ事なく、クレフの部屋へととって返す。
 上着を羽織り、手袋を填めてフェリオはすぐに追いついて来た。セフィーロの王子服ではなくオートザムの服装だったが、オーブのはめ込まれた手袋だけは手放す事もなく彼の腕に填められている。
「意識が戻っていらっしゃるんだな?」
 コクリと頷き、プレセアは言葉を足した。
「でも、すぐに混濁なさってしまうかもしれません。」

 ◆ ◆ ◆

『フェリオ王子』
 部屋に脚を踏み入れた途端、脳裏に声が響いた。
脚早くベッドへと急ぐプレセアに、幾重にも下ろされた白い布が揺れる。隙間から見えた人物の姿に、フェリオは一瞬眉を歪め顔を伏せた。
 知らずに唇を噛みしめる。
礼節に五月蠅く短気な導師は、同時に皆の信頼を集める頼もしい存在でもあった。それが、まるで枯れ木のような腕で、枯渇した泉のような皮膚で…。
 どこかで、何かが狂ったような感覚に、フェリオは額を抑える。理に沿った出来事だったにも係わらず、どうしてこんな噛み合わない感情を抱くのだろうか。
 それが、大切な女性を二度に渡って失ってしまった事に対しての憤りだと、そう言う事は出来た。けれど、ただそれだけではない。
 言葉でない感覚が、無償に心臓を締め付ける。
 
『フェリオ王子、どうか側に。』
 ふいに、目の前の老人が発している心の声だとは信じがたい確かな響きが、再びフェリオの心に語りかけてくる。
「はい。」
 他の人間になら反発する(王子の敬称)も、導師が呼ばれるのならと心を止めた。
クレフの右手を両掌で包み込むようにしているプレセアの横に立ち、顔を見た。
 面差しは幼い姿の頃を伺わせるだけになってはいても、薄く開いた瞼から覗く瞳は、変わらず深く澄んでいる。
 心の強さだけは、彼は未だに失う事などない。
 なら、どうして、導師クレフは魔力を使わず、こうして死の淵を歩こうというのだろうか。
 クレフが力を留めてさえくれていれば、王子としての責務などとっくの昔に投げ出していただろうに…。

『私の最後の願いをお聞き届け頂けませんか?』

 恨み言に近い考えが脳裏に浮かんだ時、もう一度導師の声が続いた。
フェリオはくだらない思考を、頭を振る事で追い出すとクレフの顔を覗き込むように膝を折る。
「幾つもの、それこそ星の数ほどにセフィーロの民の願いを聞き届けていた貴方の頼みを断ることなど出来ません。それこそ、俺に出来る事なら致します。」
 そう告げると、プレセアが握っている場所よりも少し上の腕に、そっと触れた。
ひんやりと冷たい皮膚は、手袋を通してでもフェリオに伝わった。
「けれど、最後だなどと気弱なことを…『導師と呼ばれた私です。命の期限くらいはわかります。』」
 何処か苦笑したような声が響くと、クレフの左腕が申し訳程度に持ち上がる。視線を指先から辿ったフェリオとプレセアは、真っ直ぐに指し示された白い壁に、天井から床まで届く黒い穴が出来ているのを見た。
 プレセアが息を飲むのが聞こえる。フェリオも緊張のせいか、口腔に溜まった唾をごくりと飲んだ。
 壁から生まれた黒い靄は、円の中心に向かってぐるぐると吸い込まれては消えていく。それは無限に続いていくようにも見える。
「あれは…。」
 フェリオはクレフの様子を伺いつつ、壁へと近付いた。そのことによって、黒い靄が襲いかかるような事もない。
 恐る恐るブーツの先を差し入れれば、壁だったはずの場所にその痕跡はなく、するりと中程まで入ってしまう。

『それは、異次元へと繋がっている穴。』

 クレフはそう告げ、ぱたりと左腕をベッドへ落とした。フルフルと小刻みに筋肉が痙攣している。

『空間の先に次元の魔女と呼ばれる人物がいます。彼女は、対価を払い、それに見合った願いを叶えてくれる存在です。
 王子、彼女のところへ赴き、私の願いを叶えて頂けませんか?』
 
 フェリオはクレフの言葉にやっと彼が自分を呼んだ理由を理解した。そして首を横に振る。
「導師クレフ、貴方が自ら赴く事が出来ないと仰っていることはわかりました。
 けれど、その役目は俺ではなくもっと力のある…ランティスに頼まれた方が良い。
彼の方が俺なんかよりもずっと強い…鍛錬中のはずです、呼んで参ります。」
 フェリオはそれだけ告げ、一礼をして部屋を出る為に扉へ向かう。けれど、クレフの声が彼を引き留める。

『私の願いは、再び創造主と会い魔法騎士の幸せを問う事』

 クレフの声は、一呼吸置き、フェリオが目を見開き振り返ったのを見計らうように続いた。
『ランティスでは問うどころではありますまい。』
「…俺も、どうだかわかりませんよ?」
 自嘲気味に笑うフェリオには否を告げる。貴方はそんなことはしない…と。
フェリオは肩を竦めて、再び壁へと脚を向ける。
 確かに今の自分には、それだけの気力すらない。

「わかりました。出向いて、導師の願いを叶えていただけるようお願いすればいいのですね?」
『王子にはご足労をお掛けしてしまいますが、どうかよろしくお願いします。』
 返事の替わりに頷くと、フェリオは寄り添うプレセアを見る。
「プレセア。お使いだけすればすぐに戻る。導師を頼んだぞ。」
「お気を付けて。」
 プレセアがクレフの手をキュッと握り込んだのを見て、フェリオは穴を潜る。
 身体が、背中が、そして身体が全て黒に消えてしまうと穴は壁に吸い込まれて消えていった。

「クレフ…。」

 先程の会話を交わすことさえ、どれほどに彼の命をすり減らしてしまうのだろうかと案ずるプレセアの指を、小さな指が僅かな力を込め握り返す。
『色々とすまなかったな。苦労を掛けた』
 か細い声に、プレセアの瞳に水滴が溢れ頬に流れ落ちる。
「いいえ、私はいつでも導師のお力になりたいのですもの。いつでも、どこでも、貴方の側にいます。」
『そういうお前に私はずっと甘えていたのだろうな。』 
 細い細い声が途絶えた後、クレフの指先が力を失う。
 プレセアは彼の掌をギュッと握りしめたまま、フェリオが消えていった壁を見つめた。彼は、ここへ戻る事が出来ないという事実を知らない。まるで、魔法騎士達をエテルナの泉へ、そして其処から送り出した時のようだとプレセアは想う。

 あの時も、クレフはプレセアに辛い想いをさせたと労ってくれた。唇を噛み、声を殺す。喉の奥から溢れてくる想いを留める。

「いつだって、お礼を申し上げるのは私の方です。」

 ポタポタとシーツに染みを落として、プレセアは唇を震わせた。


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