※OVA 風ちゃんの一人暮らしにまつわるお話です。


トントンと階段を降りる小気味良い音が聞こえて来くる。
 ダイニングテーブルに座りお茶を飲んでいた空は(そろそろよね)と笑みを浮かべる。
 妹の足取りが普段と違うのが、とても嬉しい。
 
 大人しくて控えめで、本当はとても優しいのだけれど、消極的だった妹。
空は彼女の事がとても好きで、と同時に酷く心配していたものだった。
 風の優しさは表に出る事がない。
 故に誰かに利用されてしまうこともあるのではないだろうか?
 自己を主張することも少なく、自信が無いように見える。だからこそ、望んだ事が出来なくなってしまうのではないか?

 中学入学とともに、親しい友人が出来たことをきっかけに、妹は少しずつ変わっていった。けれど、劇的に変わっていったのは、やはり(彼)を知ってからだろう。
 ずっと心配していた。
 けれど、家族ですら変える事が出来なかった妹を強く変えてくれたのは彼なのだろう。

「空お姉様。」
 キッチンと居間を隔てるカーテンから覗いた顔に、空がにこりと笑う。
「フェリオさんがいらっしゃっているのでしょう? お茶の用意してあるわ。」
「ありがとうございます。」
 ダイニングテーブルに並んだティーセットに頬を淡く染め、柔らかい笑みが浮かべる妹が可愛らしい。

 本当に蕾が花開くような笑顔だと、そう思う。

「そうそう、良い頂き物あるのよ?」
 ポンと手を打つ。
 嬉しくて、ついつい気持ちが高揚してしまう。茶器にお湯を注ぐ妹を横目に、冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
 行列が出来る有名店の名が印刷された箱に、風は驚いたように目を丸くする。
「フェリオがいらっしゃると、お姉様の方が嬉しそうですのね。」
「当たり前よ。普段見れない風さんのとびっきりの笑顔が見れるんですもの。」
 告げた途端、風はポンと弾けるように赤くなる。慌てて下を向き、擦り切りで一杯のはずの茶葉を、3回入れるのが可笑しい。
 あらあら茹で蛸みたいと笑う。
「私はからかってなんていないわよ。そんな風さんを拝見するのがとても嬉しいの。」
 何事か小さな反論をしようとしたのだろう、風が顔を上げた途端、階段を降りる音がした。妹と違い大胆な歩幅は、きっと二段落としで降りてきているはず。
 トンという軽やかな音が床に響く。

「おーいフウ!鳴ってるぞ!」

 フェリオがヒョイと顔を覗かせて、手にした器械を振って見せる。
あ、と慌てた様子でパタパタとスリッパを鳴らして走り寄る仕草は、初々しい恋人同士というよりも、若夫婦を見ているような甘さがあった。
 携帯を受け取った風は、ディスプレイを確認して、一瞬驚いたような表情をしたのがわかった。
 
「はい、はい。そうなんですか、わかりました。今は家におりますので三十分程度はかかりますが…ええ。」

 通話する風を興味深げに見つめるフェリオは(なんて瞳)を向けているのだろうと、空はそう考える。

 自分にとっても大切な大切な妹だ。
 大事にして欲しい。悲しませないで欲しい。幸せにしてやって欲しい。
 そう空が願うのは、家族として当たり前の感情だろう。けれど、同時に感じているのは、フェリオに対する感謝の気持ちだった。
 
 風は少しずつ、確かに強くなっている。

 そうはっきりと確信をもった時の、空の気持ちをどう表現すれば良いのだろう。
 望む事に躊躇なく真っ直ぐに手を伸ばすような、そんな強引な事は相変わらず出来てはいないけれど、心が望む事を決して手放さない強さを妹は手に入れたように思う。
 (優しさは、心の弱さにつながる事がある)空は妹を間近で見守りながら、ずっとそう感じていた。
 争う事をしないのは、ただ真摯に人と向き合う事が出来ないせいかもしれない。
 自分の主張を貫かないのは、己を信じる気持ちが弱いのかもしれない。
 それ自体見誤っていたのかもしれないけれど、今まで表面に出てくることのなかった風の強さは、しっかりと彼女を包んでいる。
 家族だけでは、教えられなかった事が確かに、妹に伝わっている。
 それは、彼のおかげに違いないのだ。

 ふっと視線を逸らしたフェリオに、空は微笑みかける。
「今日はいつまでいらっしゃるの?夕餉も一緒にいかが?」
 電話中の妹を後目にそっと耳打ちをすれば、フェリオはう〜んと首を捻った。
眉を八の字に落とすと、ちらちらと風を盗み見する。
 それから、大きな溜息をついた。
「ものすごく魅力的なお誘いなんだが、お前は少しは遠慮という美徳を身につけたらどうかと、盛大な小言を頂いたんで、」
 お断りします。
 と、続くはずだったであろうフェリオの台詞を遮ったのは、パタパタとスリッパを鳴らして走り寄って来た風だった。

「フェリオ!」

 彼女の声は弾み、喜色満面を絵に描いた表情にフェリオは息を飲み、空は目を丸くする。
「あの、あの、折角片付けに来て頂いたのですが、今日これからお時間はありませんか?
 今、不動産屋さんからお電話で、お話を伺っていたお部屋が見せて頂けるって、急な事なのですが、お仕事の都合で退去が早くなったとかでお借り出来る可能性も出てきて、私、お話を伺った時から凄く気になっていた物件で、それで…!」
 思いがけない幸運に、すっかり舞い上がってしまってる妹に、空は言葉を添える。
「まぁ、それは内覧出来るって事なの?」 
「そうなんです!」
「それで、風さんはどうなさりたいのかしら?」
「私は、フェリオとご一緒に、…!」
 そこまで口にして、風はハッと口元を指先で抑えた。

ああ、そう。そうだったと空は思う。
 妹は自分の願いを最優先にはしない。やりたいと思う事があったとしても、言葉にして伝えない事が多かった。それどころか、願いから一歩離れて遠巻きに見ている事だって少なくない。親しい者であるほど、遠慮するようにも思えた。
 我儘を通し姉妹で喧嘩をした事なんて、本当に数える程だ。

 けれど、一瞬浮かんだ空の不安は、すぐに杞憂に変わった。
 風は口元に置いた指を降ろすとフェリオを真っすぐに見つめる。反らしてしまう視線も、気後れに距離を取った仕草も、今の妹からは感じられない。
「一緒に見学を、それでフェリオの意見を伺いたいですわ。急な事で申し訳ないのですが…「行くよ。」」
 目を細めて頷くフェリオに、風の表情は明るさを増す。
「俺も見たいにきまってるだろ?」
「ありがとうございます。私、すぐ支度をして参りますね。」
「焦らなくていいからな。」
 はいと元気よく返事をして、風は軽やかな足音で階段を上がっていく。 
「…という訳なので、やっぱり。」
 くるりと振り向き、空に向かって片目を眇め、おどけた表情を見せるフェリオに、うふふと笑う。
 残念ですわ。と口にはした事は嘘ではない。もう少しだけ、彼等の仲睦まじい様子を見ていたいというのも勿論本音だった。
「そうそう、風さんが入れたお茶がありますから、飲んで待ちませんか?」
 空の言葉に素直に頷き椅子に座ったフェリオの前にカップを置くと、白磁に汰ゆる黒々とした液体にギョっとするのが見えた。
 空とカップを何度も見直してから、もう一度視線を寄越すので、我慢出来ずに笑うと(意地悪なのか?)と問いかけられる。
 例え、大切な妹を攫っていくかもしれない人だとしても、意地悪などとんでもない。
異世界から来たと告げられた時には、流石に驚いたものの、風が望んでいる相手を私達が選定出来るはずもないし、しようとも思わなかった。
 寧ろ私達が反対し、フェリオが妹を想って諦める様子を見せたとしたら、風さんは彼に攫ってくれと頼むのだろう。
 そう、先程のように真っすぐに見つめて、貴方と共に生きたいと告げるに違いない。

「これは、本当に風さんが入れたものよ。」
「え…本当に?」
「ええ、貴方の話をして。そう、少しはからかってしまったのかもしれないけれど、そしたら…。」
「や、いい、わかった。」
 話を最後までしなくてもフェリオには察しがついたらしく、片手で空の話を遮った。俯いていても耳元が少し赤くなっているのが見えた。
 そして、意を決したようにカップを持つと角度を付けて煽る。ひと息に飲み干した苦い液体は彼の唇を歪ませていた。
 それでも、真っ直ぐに空を見つめる綺麗な琥珀の瞳は、妹の真摯な眼差しによく似ている。
「ご馳走様でした。」
「はい、お粗末様です。」
 にこりと微笑んだ空に、フェリオが苦笑するのが見えた。
「フウも笑顔が怖い時があるが、姉上もそうだな。」
 あら、意外。
 と思ってしまったのは失礼だろうか。心の機微も感じ取れるのだから、控え目な風さんの気持ちもきっとわかってくださるのね。
「優しくされると怖いだなんて、フェリオさんは意地悪ね。」
 にこりと笑うと、彼はなんとも居心地の悪い表情で(どっちが)と呟くのが聞こえた。 








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