いちばん近くに(終章)


 明かりを消した部屋。
それでも、星空は輝くとまではいかなかった。霞んで見える闇の中にポツンポツンと星が見える。
 天の川…などという上等なものは其処には無かった。
 窓辺に頬杖をついて眺めていた光は、あからさまな溜息を吐く。
「…海ちゃんの部屋は高層階にあるのに、星はあんまり見えないね…。」
「仕方ないわよ、此処はそういう街なんだから。」
 ローテーブルの上でケーキを切り分けようとしていた海も手を止め、ささやかな晩餐に色を添える為、グラスに注いだシャンパンを台所から運んでいた風も脚を止める。
 トレーをテーブルの上に置くと、光の隣に脚を向けた。
そうして、頬にかかる髪を片手で抑えながら窓下を覗き込む。ふふっと笑い、風は光にそれを示した。
 天には乏しい星達は皆、地に降ってしまったのだ。そう感じるられるほどに、街は輝いていた。うねる光の波は現れては消える。それでも、途切れる事なく光は続いていた。

「うわ〜綺麗だね。」
「ええ、本当に。」
 満足げに微笑んだ光に、海は得意気な笑みを浮かべてから、指を振ってみせる。
「そうでしょう? こうしてると街明かりを独り占め出来るわ。勿論気分だけなんだけど。」
 まぁ、海さんたらと、風は笑う。
「海さんのお部屋は本当に眺めがいい場所ですものね。」
「其処が気に入って借りたのよ。
 そうそう、風も一人暮らしを始めるんでしょ?どんな部屋にするの?もう決めた?」
 興味津々と身を乗り出す海に、風は少々困った表情に変わった。
 テーブルに戻ると、コースターを敷いてひとつずつグラスを置いてから、海へと向き直る。
「それが…始めたいと思って音大生用の物件を探しているのですけど、なかなかお家賃と折り合いが付かなくて迷っております。」
「そっか、風ちゃんの場合は、色々条件あるものね。」
 未だ実家暮らしの光は、部屋探しって大変そうと眉を顰める。そんな光に風は首を横に振ってみせる。
「そんな事はありませんわ。
 雑誌を捲って探すのも勿論楽しいですし、実際にお部屋を見て回ってみると思い描いていたものと違ったり、驚いたり。知らない街を散策するのも凄く面白いですわ。」
 でも決まらないので困ってます。と困っている様子もなく風は笑った。
「そっか、良いところ見つかるといいね。そしたら私遊びに行っても良い?」
「勿論ですわ。でも、もう暫くお時間を頂く事になりそうですけど…。」
 申し訳ありませんと告げれば、光はぶんぶんと首を振る。
「もし決まったら、直ぐ連絡してね。私、引越のお手伝いもするからまかせて!」
「ありがとうございます。頼りにしておりますわ。」
 今日明日にでも、風が一人暮らしを始めるかのような性急ぶりに、海が目を丸くした。
「もう、ふたりとも気が早いわよ。全く決まってもいないのに。」
 クスクスッと海が笑えば、風も光も笑った。
「そうだった。」
 コツンと頭を叩いて、光は舌を出す。
「さ、海さんの準備も出来たようですから頂きましょうか。」
 綺麗に切り分けられたケーキが皿に盛られてテーブルを飾っていた。美味しそう!と感嘆の声を上げた光を囲んで、賑やかな声が海の部屋を飾った。

 ◆ ◆ ◆

 雪のちらつく季節は、いつしか桜の舞う季節を過ぎて、もうすぐ紅葉を楽しむ時期になる。
 もうそんなに経ったのだと、感嘆の声を上げてしまう。
 光や海とこうして逢ったのも、考えてみれば久しぶりの事。それでも、顔を見合わせれば隙間など感じる事がない。そのことが嬉しい。
 風は駅に向かう脚を止めて、海の住むマンションを振り返った。彼女の部屋はまだ灯りがついている。光は泊まると言っていたから、女の子同士のお喋りは尽きないのかもしれない。加わる事が出来なかった自分が少しだけ寂しい。
 けれど仕方のない事だ。
 ふっと息を吐いて気持ちを切り替え、視線を街並みに戻そうとして気付く。夜空は闇。星の輝きを見つけられない。

「でも、これなら楽に川が渡れそうですわね。」

 ふふっと悪戯に微笑んで、風はくすんだ宙を眺めた。七夕はとうに過ぎてしまったけれど、夏の夜空を見上げればついそんな事を思ってしまう。
 隔てられた恋人同士。それは、自分とフェリオの関係に重なった。
 遠く離れた想い合う同士にとって、身体を隔てる距離は何倍にも感じるだろう。けれど心に距離は無い。
 今すぐに走り出して、希薄な星の川など飛び越えてしまえそうだ。
 駆けだして走り寄って抱き締めて。そして、抱き締め返されれば、その腕に包まれる。酷く現実味が薄い、それでいてドラマでよく見る状況。ヒロインは(全く同じと言って良いほどに)その腕の中で涙ぐむ。
 
 風は思い出してしまった事に赤面した。
カアッと頬が熱くなる。なんだか瞳まで熱く感じた。昨日、今日の出来事ではないのに、想い出は鮮やかで褪せる事なく自分を気恥ずかしくさせてしまうのだろうか。
 これもまた熱く火照った両耳に当てた掌に、ふんわりと髪が被さった。
「フェリオ…。」
 大切な宝物のように名を呼ぶ。まるで呪文だ。魔法が掛かったように、彼の事を想う。

「待たせたか?」

 不意打ちに掛けられた言葉に、風は慌てて振り返る。笑顔のフェリオが風を見つめ、小首を傾げた。
「赤い顔して、どうした?」
「いいえ、何でもありません。でも、駅で待ち合わせではなかったでしょうか?」
 約束を取り違えたのかと心配する風にフェリオはふるりと首を横に振った。
「いいや、少し早めに着いたんで。お前の気を探してただけだ。」
 クスリと悪戯な笑みを浮かべ、耳のリングを指先で弾く。(なんと言っても)と呟いてから周囲に首を巡らせるので、風もつられて辺りを見回した。
 夜も深い時間帯だ。
 道を歩く人影は減ってはいたが、駅に向かう人間はそれなりにいて、立ち止まっている二人を横目に早足で歩いていく。
 両腕を腰に当ててフェリオは大きく頷いた。
「俺のフウに悪さをする輩がいるとも限らない。」
 大真面目な様子に、風は目を瞬かせる。
「そうですわね、でも私はそんなに迂闊者ではありません。」
 ふふっと笑えば、今度はフェリオの方が小首を傾げた。「貴方以外の方について行ったり致しませんわ。」
 途端に、赤くなるのは彼の方だ。少しばかり目を泳がせて息を吐く。
「ホント、お前には負けるよ。」
「恐れ入ります。」
 微笑む風の瞳には同じ様に笑うフェリオがいる。手を伸ばせば確かな存在を感じる身体に、胸の奥から込み上げてくる感情があった。
 きっと、この想いが全て、愛なのだ。
 目に見えなくても、触れる事などなくても、目的もなく、ただそこにある感情。
日常の行動だけじゃなくて、演奏することでさえ其処に流れ込んでいく、目眩のような感覚。
 急に肩に腕を回され、抱き寄せられる。
 あっと小さな声をあげ、フェリオが顔を寄せているのがわかった。人影が疎らだったのは知っている。それでも、屋外だという意識で気恥ずかしさを感じた。海外で暮らしていた時は、恋人同士のこんな姿は当たり前に街角にあったのだけれど。
「フェリオ?」
「お前の顔を見ていたら、どうしようもない位に好きだって…。」
 風が顔を上げれば、頬が重なる。
 蒸気しているのは自分の肌なのか、相手の肌なのか。火照った顔で、フェリオは何処か困った表情になっていた。
「ごめん、これじゃお前に悪さをしに来たのは俺だ…。」
 口元を抑えて、本気で困惑の表情になるものだから風はついクスリと笑ってしまった。
「では、早く部屋を決めなければいけませんわね。」
 風はフェリオの腕をやんわりと解くと、鞄に入れていたコピー用紙を取り出した。大学が紹介してくれた不動産屋を、何軒か回って得た資料。文字は読めないフェリオだが、間取りが書かれた図で部屋の様子は把握出来るだろう。
「空お姉さまも一緒に探して下さって…あ、貴方の意見も伺いたいから、是非お逢いしたいとおっしゃってましたわ。」
 紙を手に取り眺めていたフェリオは、天を仰いではぁと息を吐いた。
「風の両親にも挨拶に伺わなければいけないよな。」
「空お姉さまを味方にすれば大丈夫です。でも、私、お姉さまは貴方の事を気に入っていらっしゃるように思いますわ。」
「…俺が異世界の住人で、東京を破壊した張本人でも、か?」
 コクリと風は頷いた。そして、微笑む。
「だって、それが私の好きな方なんですもの。
私、都合の良い方を好きになった訳ではありませんから、仕方ない事ですわ。」

 ほら、希薄な川など簡単に飛び越えていける。

「お帰りなさい。」
 風はそっと呟いた。
 セフィーロから舞い降りた彼を見つめていた時。身体は動かず、瞳は熱くなり、そして開いた口からは、その言葉だけを紡いでいた。
 その時と同じ言葉を、今、紡ぐ。

「フウ…。」
 ギュッと抱き締められた腕で、そっと瞼を落とす。
「いつでも、お前の元に戻ってくるよ。」
 
 貴方のいちばん近くでいられますように。

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