3回目の涙 ver ferio


 フウの暮らす街並が眼下に広がっていた。
セフィーロ城に一番近い空間。赤くて三角形が空に伸びている格子状の建物に脚を掛け、僅かな感傷に浸る。

 フウの言葉は正しくて、セフィーロを見捨てれば俺は確かに後悔するだろう。自分自身が生まれ育ち、命を賭して守ろうとした友人達から託された場所。今こうしていても浮かぶ顔は一人や二人ではない。  けれど、彼女さえ手に入れればいいじゃないかと欲望が囁いたのもまた真実だった。そもそも、フウを手放して後悔しないはずがない。本当に最初からわかっていた事だ。
 それでも、己の全てを引き換えに望んだ女もまた自分自身を欲してくれたという事実。掌に残る柔らかな肌。頬を染め、伏し目がちに見上げる瞳で(お待ちしております)と告げた。
 それだけで、力が湧いてくるのは現金すぎるか。
 僅かな逢瀬では物足りない。清廉潔白なぞ糞食らえだと、フェリオは笑った。
 彼女の深淵に触れたい。己を深く刻み込みたい欲望は、男として当然にある本能だから仕方ない。彼女の波動を感じたくて、耳につけた指輪に触れた。

「フウ…。」

 彼女がいてくれるから、俺は強くなる。
フェリオは瞼を落として、意識をレイアースではなくセフィーロに向けた。大きな波の様に、エメロードの力を感じる。
 飛び込むように、フェリオは爪先を建物から落とした。
 なのに、世界を渡る感覚が途切れる。
ギョッとして、目を見開き周囲を見回せば、見たこともない風景が広がっていた。淡い光が照らす静寂の空間は力に満ちあふれてはいたが、物質の類がないように感じられる。
 自分の身体も、魔法を使っていないにも係わらず浮いているような状態だ。
「…んだ、これ…?」
 パチパチと瞬きを繰り返しても、風景は変わらない。
どうも渡り損ねてしまったらしい。久しぶり過ぎて、手順さえおぼつかなくなったかと思うとなんだか情けなくなった。あ〜あと大きな溜息を付いて、再度魔法を使おうと試みて、ハッと顔色が変わった。
 血の気が引いていったのが自分でもわかる。
 
 魔法が抑えられていた。

 強力な壁に阻まれて、魔法が自由に使えない。これだけの力を持った相手とは相対した事もない。背筋を嫌な汗が流れ、どれほどの時間が過ぎたのかゆっくりと気配が動いた。

『久しいな、セフィーロの若者よ。』
 ひとつであり、三つでもある声は、フェリオの顔を蒼白にするのに充分な相手だった。考えてみれば当たり前の事だ。今まで彼らが自分を阻まなかった事こそが、不思議だったのだ。
 
「…レイ、アース…。」

 呼び掛けた声は、自分でも情けないほどの掠れた声になった。
レイアースの魔神となんとか渡り合う事が出来たのは、対峙したのが一体だったからだ。それでも負けた己が三体と闘って無事でいられるはずがない。
『そう怯えられても困る。』
「怯えてなんかっ…。」
 強気な言葉が咄嗟に飛び出したものの、後は続かない。圧倒的な力の前では為すすべがない。腹筋に手を当てて大きく深呼吸をする。
 ドクドクと異様に速まる心臓の音を沈めるまでには至らないが、冷静さを失っては、どんな対処も無理だ。
「…俺に、何の用だ?」
 恐怖はある。
 けれど、此処で、こんな場所で命を失いたくない、その想いが強かった。セフィーロに暮らす同胞の為にも、何よりフウの為にも。涙を湛えながら微笑んで、自分を送り出してくれた愛おしい女。
 彼女以上の強さを俺は知らない。
 
『我が結界を越える者、進みたくば汝の心を我に示せ』

 精霊も聞いてくるお決まりの科白。嘘は通じない。彼等の求める言葉が心にないのなら上辺だけの虚勢も意味を持たず、お眼鏡に適う事がなければ、処遇に情け容赦無い。
 けれど、幸いな事にとフェリオは笑う。自分の心はたったひとつの言葉しか示す事が出来ない。

「フウが好きだ。」

 情けないほど、切実な言葉だった。自分自身の深いところから沸き上がる言葉もつらなる想いも全てそこに集約した。願うだけで、瞳の奥が熱くなり緩む感覚に掌を押し当てる。弱い人間だと、今更に自覚する。

 魔神はきっと俺を認めない。
 
『いいや、汝の想い確かに受け入れた。』
 
 何処か人間味のある柔らかな声に、フェリオは驚く。
 力の強い精獣は冷徹なものが多い。人間の都合など元々彼等には関係がない、欲するのは己を生かす事の出来る力を持っているかどうか。勿論フェリオがいままで対峙してきた相手も例に漏れない。それ故に、精獣使いとなるものは力に溺れる者が多いのも事実だった。
 己の常識を覆され、戸惑いをみせるフェリオに魔神が言葉を続けた。
『汝の願いは強い。試練を受ければ、我が力受け継ぐことが可能かもしれんぞ。』
 冗談のようにも感じられる、少しばかり甘美な誘いにフェリオは笑う。おどけた仕草で両肩を竦めてみせた。
「御免だね。
 だいたいこの手の試練は、一番大事なものを打ち破って手に入るのが多いんだ。俺にはフウを切る自信も、腕前もない。」
 それに…
「試練はこれから受ける。本当にフウを手に入れる為に。」
『汝の背負いしものは、己の思うより遥に重い。』
 少しづつ収縮していく結界の中から声が響く。フェリオはセフィーロへの道しるべを再び見つける事が出来た。
「心しておく。」

 親が子を想うようなそんな想いを、レイアースの魔神達は彼女等に抱いているにかもしれない。

 フェリオは浮かんだ考えに、口端を緩ませた。
脚は床に着地する。磨き上げられた石が敷き詰められたエントランスを警護していた兵士が一勢にフェリオに向き直る。
 異世界の服装をした自分はさぞ奇妙なものに見えるだろうとフェリオは思う。
「エメロード姫はどちらに?」
「謁見の間に…っ、しかし、精獣使い殿。此処をお通しするわけには…。」
 スッとフェリオは目を細める。途端に纏う雰囲気は兵士達の志気を奪う。セフィーロ唯一の精獣使いの力がどれほどの物か、兵士ならば誰でも一度は目にしている。
 それでも、立ち向かえというのは酷な話しだ。
「お前達では俺を足止めする事など無理だ。怪我をしない内にどいていろ。」
 彼等が逃げ易いよう声を掛け、フェリオは城内に脚を進めた。忠告しても尚、斬りかかってくる者は容赦なく排除する。諭してわからない相手に躊躇うほど、フェリオも甘くはない。
 修羅場と化すかと思われた場は、叩き付ける硬質な音と伴う声に制される。
「命を粗末にするな!どれほどに魔力を減らしていても、お前達が敵う相手ではない。」
 クレフの声に従い、怪我をしていない兵士達は壁に沿い跪く。他の者も人の手を借り、道を空けた。
 遮る者がなくなり、フェリオは奥へと続く廊下に立つクレフを見つめる。こめかみに向かい引き上げられた眉は、彼の言葉と共に眉間に皺を刻む。

「フェリオ。エメロード姫が謁見を許可下さった。来い!」

 言いたい事だけ告げて、振り返る事もなく奥へと歩き出す。フェリオも足早に彼を追った。並び立つのは躊躇われ、背を追うフェリオの耳に声が届く。
 
「馬鹿な事をしたな。もう、お前に自由などない。」
 吐き捨てた後に、クレフは僅かに声を緩める。
「それでも戻ってくれた事には感謝しよう。私は、お前が二度と戻らないと確信していた。」 
 クレフの言葉に、フェリオは口端を歪めた。
「自分がひとりだと思っていたなら、戻らなかったさ。」
「…どういう意味だ。」
「ままだ。俺の故郷を、俺と同じように大切にと願ってくれるフウの存在がなければ、俺は逃げ出していた。」
「フウか、彼女は聡明な少女だった。あの時といい、また異世界の少女に迷惑を掛けたか。」
 ふいにフェリオの足音が消え、クレフもまた歩みを止めた。クレフが振り返るのを待ち、フェリオは口を開いた。
「クレフ、お前は正しいよ。彼女の人生を狂わせる資格は確かに俺にはない。けれど、フウが望んでくれるのなら俺は何でも出来る。
 …忘れたのか、クレフ。俺はエメロード姫の為に、レイアースを滅ぼそうとした男だぞ。」  
  「そう、だったな…。」

 どんな理由があろうとも、フェリオの決意は揺るがないのだと、想い出の中にある彼と同じ目をして立つ青年を見据えた。





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