3回目の涙


「後始末は私達にまかせてね。」

 連行してきたフェリオを風の楽屋に押し込むと、二人は風にこう告げて扉を閉めた。
 ホールを飾っていた花の片づけをしている業者や担当の事務員に対して、二人が対応している声が聞こえてくる。 そんな二人に後ろめたさと感謝を感じながら、フェリオはゆくりと口を開く。
「‥俺は専門ではないからわからないが、フウの演奏は素晴らしかったと思う。
それだけを言いに来た。お前に迷惑を掛けるつもりじゃなかった。無様で‥すまない。」
 先程のドレスはままで、上着を羽織っている風の、合わせを抑えていた手が震えた。はらはらと涙を流す風の様子に、フェリオはただ頭を垂れる。
「フェリオさん‥。」
「‥なんだ?」
 ふいに名を呼ばれ、顔を上げれば彼女の泣き顔がすぐ側にあった。息を飲んだ瞬間、ギュッと噛みしめられた風の唇が開く。

「‥あなたが好きです。」

 フェリオは琥珀の瞳を大きく見開いていた。驚いた様子で動かないフェリオの胸元に、風はその身体を預ける。 「好きなんです‥。」
「俺も、お前を好きだと告げて良いのか‥?」
 コクリと風の頭が縦に振られた。体の横で、空を掴んでいたフェリオの両腕が、華奢な彼女の背中と腰に廻される。柔らかく抱きしめられて、風の涙はようやくに止まった。
 フェリオの腕の中で語られた、リサイタルを行った経緯の説明は、ままフェリオへの愛の告白となった。先程の余韻で何度もしゃくりあげる風に、わかっていると告げるようにフェリオは頷く。
「こちらには、もういらっしゃらないとばかり‥。」
「風と久しぶりに再会した日。あの時すでに、俺にはセフィーロに戻るだけの魔力がなかったんだ。」
 えっ‥と風が顔を上げる。苦い笑いを浮かべて、今度はフェリオは身の上を話す順番だった。

 どうして自分が長い間こちらへ来ることが出来ずにいたか。そして、今戻ればレイアースに来る事は叶わないかもしれない事を打ち明ける。

「俺は、このままレイアースでお前と生きていきたい。
 どうせ、セフィーロに戻ったところで咎人、籠の鳥の身の上だ。」
 じっと聞き入っていた風はふるりと首を横に振る。彼女の仕草に、フェリオは驚く。
「何故だ…フウは俺のことを必要としていないのか?」
「違いますわ、寧ろ、その逆です。私には貴方が必要です。失うことなど、考えられません。」
「なら、何故…!?」
「だからこそ、故郷を見捨てて苦しんでいく貴方なんて、見たくありません。それは、私達の間に本当の別れを運んで来てしまうはずです。」
「そんなことあるはずが、「聞いてください。」」
 風はそっとフェリオの言葉を押しとどめる。揺れる琥珀を見つめていれば、愛おしいという想いが沸き上がり、再びフェリオの胸元に頭を傾ける。
 トクントクンと打つ音色は愛おしい人の音。全てが愛しい。
「貴方は私だけが大切だとおっしゃいませんでしたわ。私を育んだ周囲の方々や環境が大切だと…私も同じです。
 貴方を育んでくださったセフィーロに感謝しています。
 そんな場所を、私の為に捨てさせれば、私は私を赦す事が出来ないでしょう。ランティスさんや、あの場で亡くなったセフィーロの方々に申し訳もたちません。」
 それは、フェリオの心を多く占めている事柄に違いなく、ぐっと唇を引き締めた。多くの仲間を貧窮に追い込んで、安穏と暮らしていけるような彼ではないのだと風は知っている。
 きっと、フェリオは自分を責める。
「誰かを悲しませなければ手に入らない幸福を貴方は望んでいるのですか?」
 今度は否定の為に首を横に振ったのはフェリオの方だった。
「昔の俺なら、迷わずそうしたさ。」
 力で、レイアースを圧する事出来れば願いが叶うと思っていた頃。フウに出会う前の自分。
「…でも、そんな卑劣な俺じゃあ、おまえにふさわしい男だなんて言えないな…。」
「貴方は貴方ですわ。卑劣だとおしゃるのならば、私の好きな方は卑劣な方です。」
 風の覚悟にフェリオは息を飲んだ。ウダウダとくだらない悩みに捕らわれていた自分が本当にバカバカしく思えた。
 これが風なのだ。自分が世界を超えてでも逢いたいと願った女性だ。

「だからこそ、間違えたくないのです。私は貴方と幸せになりたい。」
 頷いた時には、フェリオの覚悟も決まっていた。そして、最後になるかもしれないわがままを彼女に囁く。

「フウ、お前に触れていいか?」

 言葉が耳に入った途端、風は頬を赤く染めて、コクリと頷いた。すっと近づくフェリオの気配に瞼を落とす。

「フウ…好きだ。」

 床に上着が落ちた音。
 熱い声が耳元を掠め、カッと高まる体温に火傷でもしてしまうそうだった。
「来るべき約束が出来たら、今度こそ俺はフウと共に暮らしたい。」
「私も…信じております。」
 掠めるように奪われた唇と、ギュッ抱きしめられる身体。
 永遠があればいいのにと、風は生まれて始めてそう願った。

 
 
「良かった、仲直りしたんだね。」
 ふたりが寄り添う様に廊下に現れ、光は満面の笑顔でそれを迎える。フェリオは困った表情になり、風は柔らかく微笑んだ。
「私達、喧嘩をしていた訳ではないのですよ?」
 クスクスッと笑う風に、光はあれぇ?と首を傾げた。
「そうだった?」
「そうですわ。」
 おかしそうに笑う風に、光もえへへと笑いかける。それから、ああと声を上げた。
「教授達が風ちゃんに会いたいって、お客さんが来てるって言ったら、待たせて貰いたいって…ごめんなさい、伝言忘れそうになってた。
 でも今日のリサイタル凄かったって、誉めてたよ。壁を超えたって。」
「有り難い事ですわ。」
 超えなければならない壁は、この先幾つもあるのだろう。見上げたフェリオの顔は、風を見て微笑んでいた。 「それで、今どちらにいらっしゃいますか?」
「あ、うん。こっちだ。」
 連れだって、玄関ホールへと向かう二人を見送って、フェリオは海に向き直る。
「もう大丈夫なのよね?」
 フェリオを見つめ、そう問いかけた海に、しかしフェリオは苦笑した。
「ウミ、俺はセフィーロに行く。」
 当たり前だろう台詞に海が首を傾げるが、続けられた言葉に顔色を変えた。
「もしかしたら、永遠にレイアースには戻れないかもしれない。」
「…っ、一体なんのことよ!?私、聞いてないわ!」
「ふたりで決めた事だ。だから、ウミ、フウを頼む。アイツを泣かせてしまうかもしれない。」
「弱気なこと言わないで、戻ってくるのよね?」
 苦い笑いは、可能性の低さを海に感じさせる。すまないと小さく呟いた後、フェリオはウミと呼びかけた。
「クレフはウミの事を忘れてなんかいない。それだけは信じてやってくれ。」
 くしゃりと海の顔が歪む。
ぷっくりと涙の粒が目尻に膨らんだ。ほろりと落ちていくそれを拭って、海は笑う。
「わかってるわよ。フェリオもさっさと行って、さっさと帰ってきてよね。手間ばっかりかけさせないでくれる?」
 海の強がりを最後まで聞いていたのかどうか、フェリオの姿は消えていた。



「あ!!フェリオ帰っちゃったの!?」
 戻ってきた光は声を上げ、酷く残念がる。海は意地の悪い笑みを彼女に送った。
 唇に指先をあてて、片目を閉じる。
「ちょおっと文句を言ったのが悪かったかしら。」
「え〜海ちゃん、酷い〜〜一緒にお茶でも飲もうと思ってたのに。」
「フェリオさんもセフィーロでやらなければならない事がありますわ。いつまでもお引き留め出来ませんから。」
ぶんぶんと腕を振り回す光を風が宥めた。
「風ちゃんがいいなら私はいいけどぉ。」
 残念そうに上がった語尾に、風はまた微笑んだ。
「風…。」
 はいと答えた風に、海は金魚のように口をぱくぱくさせてから、いいやと首を横に振った。
 それから、わざと頬を膨らませてみせる。
「フェリオってホント馬鹿、フウの事だけ考えてればいいのに。」
 風はふるりと横に首を振る。
「でも(馬鹿)なフェリオさんの方が、海さんもお好きだと思いますわ。」
「そうかもね。」
「ねえ、風ちゃん、フェリオ今度はいつ来るのかな。」
 ふたりの会話が途切れ、光は無邪気に微笑んだ。
「私にはわかりませんが、きっと合いに来て下さると信じております。」
「当たり前だよ、フェリオが風ちゃんに合いに来ない訳ないもの。」
 ニコニコと笑う光の表情に、風も笑顔を返した。真っ直ぐな光の信頼が、自分にも力をくれる気がした。

「ええ、必ず…。」

 戻ると言わず、行くと言ってくれたフェリオの心に応えたい。今度泣くときは、彼が…風の胸に小さな決意が生まれた。



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