引き返せない気持ち


 最後の音を弾き終わって、風の指先は鍵盤を離れた。
一呼吸のちに、拍手。光や海が最前列で、勢いよく手を叩いているのが見えた。
 風は椅子から立ち上がると、ホールの真ん中に置かれたグランドピアノを背にして観客に向かう。部屋全体を囲む様に飾られた花は、会場に華やかさを添えていた。
贈られた花−海の名が添えられた白い花−が一輪、シンプルなドレス姿の風の胸元を飾っている。
 両手を前で揃えて深々とお辞儀をすれば、また拍手が起こった。
「本日は、私の拙い演奏を聴いて頂き本当にありがとうございます。今日、此処で演奏出来る事に感謝し、携わって頂きました全ての方々に御礼を申し上げます。」
 そうして、一礼する。今度は拍手は無かったが、観衆が皆自分の言葉を待っているのがわかり、再び顔を上げた。最初に弾き終わった曲の解説をしながら、しかし、瞳は自然に姿を探した。

 翠色の髪をした琥珀の瞳を持った青年の姿を。

 確かな姿を見つける事も出来ず、風は小さな落胆に瞼を落とした。
 この会場の中でも小さな部類に入るだろうホールは、それでも観客で埋められていた。ピアノの囲んで扇を描いて並べられているパイプ椅子は全ての客で埋まり、数人は壁を背に立っているほど。担当の教授や、数人の教授や助手の姿もあったが、自分への評価に関するだろう動揺は湧かなかった。
 ただ、此処に彼が、フェリオがいないことだけが、風の心を締め付ける。
ギュッと指先を握り、風は次ぎの曲に入ることを告げた。

「最後に、といっても二曲だけのリサイタルなので少ないのですが、私の想い出の曲になります。
 この曲と出会ったのは中学生の頃で、卒業を控えて友人達との別れを間近に感じていた時期です。皆さんの記憶にもあるとは思いますが、(都心を大災害)が襲った年でもあります。
 私はこの時に、人生の節目とも感じられた出来事がありました。私的な事なので内容は割愛させて頂きますが、とても大切な方々と出合いがもあり、忘れられない出来事になっています。
 有名な物ではありませんけれど、この曲を選ばせて頂いたのはそんな理由からですした。私の想い出を披露させて頂くつもりで、弾かせて頂きます。」

 お辞儀をして、再び椅子に座った。驚く程に心は静かで、けれど鍵盤に指が触れた途端、相反するように想いが溢れる。鍵盤がその先に続く弦を響かせている。そんな構造上の頭で考えている音ではない。音符という名の記号ではない。

 出合った時の衝撃、激しい戦いに垣間見えた葛藤。強い願いと、揺るがない想いに心が震えた。そして、再会共に恋を知った。
 同時に恋は苦しいものだと、辛いものだとわかった。
 なのに、微笑む顔も、驚いた顔も、悲しそうな表情も。もう二度と見る事が出来ないかもしれないと、そうなってしまってはじめて、溢れて、締め付けられて心が痛い。

 好き、ただ、好きなのだと激しく暴れる心を抑えることが出来ない。恥ずかしさを感じる余裕もないほどに、奏でる音は思いの丈全てだった。


「風ちゃん、凄い…。」
 お出掛け用のワンピースを着た光が、唇を両手で覆い顰めた声で呟いた。コクリと海は頷く。
 そうして、(失敗した)と、海は唇を噛んだ。
 何故自分はフェリオに出合った時、首に縄を付けてでも此処へ連れてこなかったのだ。どんな言い訳や理屈よりもこの音は雄弁だ。これを聞けば、フェリオにだって簡単にわかるはず。行き違いや変な勘違いがあったとしても、風の心が誰を向いているのか、どう感じているのか。
 なのに、千歳一遇のチャンスを逃したのは自分ではないか。風を嗾けて置きながらの、自分の不甲斐なさに、海の心は後悔に染まる。

 フェリオの馬鹿、クレフの馬鹿、フェリオの馬鹿、クレフの馬鹿…。

 ぐるぐると回る思考が、ピタリと止まった音でまた止まる。演奏が終わったのだということは、会場を包む拍手で知れた。
 終わった、終わってしまったのか…。
 落胆の気持ちを押さえ込み顔を上げれば、中央で、風は深くお辞儀をしていた。隣で力の限り手を叩き続ける光に苦笑しながら、ふっと会場を見回す。皆、風の演奏を楽しんだ様子で笑顔で拍手を送り続けている。
 しかし、海の眼は、入口で拍手を送る青年に釘付けになった。

「…フェリオ…!」

 思わず発した声に、光がえっと振り返る。そして、彼の姿を認めた光の行動は海よりも早かった。蹴り飛ばす勢いで、椅子から立ち上がると、人々の隙間を走り抜け、ガッシリとフェリオの腕を掴む。
 息を飲み、咄嗟に腕を振り払う仕草をしたフェリオに、光は指先の力を込めた。風の為にも、異世界には行かせない。強い思いに、フェリオは息を飲む。
「ヒカル…」
「逃げちゃ駄目だよ!絶対に駄目!」
 拍手に溢れる会場は、光の声を覆い隠してしまったが、彼女はぐっと拳に力を込めて、フェリオを見上げた。
 強固な瞳はフェリオに有無を言わせない。
「ヒカル、俺は…「私には何も言わなくていい!風ちゃんに言って!風ちゃんに逢って!」」
 
 (風)と名を呼ばれ、フェリオは反射的に顔を上げる。

 観客席を隔てた舞台に立つ風は、真っ直ぐに此方を見つめていた。はらはらと、翡翠の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
 そうして、笑みを浮かべてから、拍手の鳴りやまぬ会場で風はもう一度深いお辞儀をした。



3児の母さまより1 2
風ちゃんが非常に美人です♪


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