切なくて、苦しくて


「す、すごい素敵だったよ、風ちゃん!!!」
 頬を真っ赤に紅潮させた光が両手で拳を握りぶんぶんと上下に振った。

 本番を明日に控え、少しだけ時間が空いたからと事務局から連絡を受けた風はふたりだけの観客を前に本番さながらの演奏を披露してみせた。
 本当なら此処での練習時間などとれるはずはなかったけれど、初めてのリサイタルなんだからと貰った心遣いに風は立派な演奏で答えた事になる。周囲をぐるりと囲んだ椅子はいまはカラッポだけれども、幾人かの観客が座るのだろう。
 唯セッティングされた舞台で演奏するのとは違い、自らが演出する、演奏家を目指す人間としての(本当の舞台)だった。

「ありがとうございます。光さんにそこまで喜んで頂けるなんて嬉しいですわ。」
 ピアノの前、椅子に座ったままの風は小さく会釈をすれば、反射的に光も頭を下げる。そうして、はにかんだ笑みを浮かべた。
「ううん、本当に素敵だった。風ちゃんがちゃんと弾いてるの初めて聞いた訳じゃないけど、引き込まれるっていうか、情景が浮かぶっていうか、本当に綺麗な曲だったよ、ね、海ちゃん。」
 光は自分の隣でリハーサルを聞いていた海を振り返る。
 同じ様に、感想を述べるだろうと思った光の予想を裏切り、海は酷く難しい顔で唇に指を当てた。
「どうしたの海ちゃん、具合悪いの?」
 パッと表情を変えた光に、海は慌てて首を横に振った。
「ううん違うわよ、ちょっと考え事をしていただけ。綺麗な曲だったわ、風らしいっていうのかな。」
 にこりと微笑めば、光もにっこりと笑う。
「そうだね、風ちゃんらしい。優しくて綺麗な曲だけど、心に残るんだ。」
 幸せそうに笑う光に、風は微かに眉を潜めた。重ねて膝に置いていた腕を解き、キョロキョロと周囲を見回す。
「まだ練習してもかまわない時間でしょうか? うっかりと時計を忘れて来てしまって…。」
 困った表情で小首を傾げれば、光が入り口に向かって踵を返した。
「私、聞いてくるよ!」
 パタパタと元気な声を残して走り去る光を見送って、風はホールの中心に置かれたグランドピアノを一瞥してから、立ち上がる。
「嘘…ついてしまいましたわ。」
「そうね、でも仕方ないかな。」
 海と風は互いに顔を合わせて、困った表情で笑う。
「海さん、何かあったのですか?」
 コクリと頷き、海は風を見つめた。
気丈には振る舞っているだろう彼女の心を思うと辛い。言うべきか、言わざるべきか、風の手伝いをしながら海は何度も考えた。
 リサイタルの前日になってしまったのは流石にまずかったのではないかと思わないではいられなかったけれど、風の演奏に海も心を決めた。

「この間、フェリオに逢ったの。」

 その言葉に、風は息を飲んだ。


「こちらにいらしたんですか。」
 目を伏せ、風は俯く。唇が微かに笑みを浮かべるように、上がる。けれども、小さく首を横に振った。
 そうして海を見上げる瞳が潤んでいるのを見ても、どうしてあげることも出来ない海はジッと視線を合わせた。
「…莫迦ですわね、私。どうして逢いに来て下さらないのか、なんてわかっていますのに…。」
 目尻に指をあて、拭う。睫の先が濡れ、ライトに反射してキラキラと輝いた。
鞄の中からハンカチを取り出して、風に差し出すタイミングで、海は言葉を紡ぐ。

「風の、せいだけじゃないの。あのね、」

 フェリオが躊躇っているのは、クレフのせい。彼の言葉がフェリオを迷わせ、風から遠ざけているのだ。
 まるで自分達の関係が風とフェリオを邪魔しているようにも思え、海は言葉を躊躇った。

「海さん、よろしいんですわ。」
 ふるりと首を横に振って、風は今度こそ笑みを浮かべる。ハンカチに気付くと、これも丁寧な仕草で断った。
「フェリオさんは、他にどんな理由がおありであろうとも、私に逢いたいと思えばきっと来て下さる方ですわ。ですから、ここへ来て下さらないのは、私に逢いたくないと思っていらっしゃるという事です。これが、事実なんです「ねぇ、風聞いて、それは…。」」
 慌てて声を掛けたのは、風が『諦め』たのではないかと思えたから。けれど、風は笑みを崩さぬまま、海を見つめた。

「それでも、私はフェリオが好きなんです。可笑しいと思われますか?」

 綺麗な笑みに、海は息を飲む。いつの間に、彼女はこんなにも強くなったのだろう。セフィーロとの戦いの時も、風は自分の知らない間に強くなっていた。
 ああそうだ。あの時も風はフェリオと共にいたのだ。彼女を変えていくのは、フェリオの存在自体という事だろうか。
 海は、やれやれと言いたげに、長い髪を揺らした。
「思う訳ないでしょ? 私の事見くびらないで頂戴ね。」
 悪戯に片目だけ眇め、海は人差し指を振る。少しばかり困った表情で、苦く笑った。
「だけど、貴女はどうしてそんなに強いのかなって思うわ。」
 (強い)という言葉に風は驚いた表情で目を瞬かせた。そうすると、先程までの笑みは消えて、眉をキュッと寄せる。
「強くなんてありませんわ。私、こんなにも切なくて、苦しいんですもの。」
 胸元でギュウと指を握ると、その上に掌を重ねる。心から溢れてしまいそうな何かを押さえ込んで…そんな仕草に海には思えた。
「此処が酷く痛くて、でも逃げだしたくなくて。私、意地っ張りなのかもしれませんね。」

「そんなの、お互い様ね。」
 クスリと海は笑う。風と同じ仕草で胸元に手を合わせると、瞼を落とした。
「ずっと、痛いわよ。でも、忘れられない、ううん、忘れたいとも思わない。どんなに苦しくても、この痛みは手放さないわ。そうでしょう? 風。」
 
 クレフ。

 異世界の青年の名を呼ぶ海を風は見つめた。
切なくて、苦しいのは皆同じなのだ。ただ、その思いを手放すのか、抱き込むのかその選択肢のどちらかを選び取るか。答えを決め、進んでいるだけ。
 そうして、自分には己の想いを分かち合ってくれる友がいてくれる。
 上から忠告を与える訳でもなく、下から羨望のみを送るでもなく。わかってくれる。見守ってくれる、そして助けてくれる。
 その現実が何よりも嬉しいと風は思った。

「海さん、ありがとうございます。」
「御礼を言うのはまだ早いわ、リサイタルは明日よ。」
 瞼を上げた海の瞳は、悪戯っぽく輝いていた。うふふと微笑む彼女は、腕を振り上げ、大きく振る。

「光!どうだった!!」

 軽く息を弾ませて走り寄ってきた光は、首を横に振る。
「もうメンテナンスの時間だって、事務の人が貸してあげたいけど頑張りすぎると本番でへばるわよって。」
「ご忠告感謝致しますわ。」
 風は、先程痛みを抱えていた胸に揃えた指先を当てる。ギュッと締め詰められる想いに変わりはない。明日という舞台を前にした緊張感だけではない何かを、冷静に受け入れられるか。風には少しだけ自信が無かった。
 椅子を降り、ピアノの蓋を閉じると風は、二人の前に向き直った。
 
「海さん、光さん。本当にありがとうございます。明日、精一杯頑張りますわ。」
「うん。」
 キラキラと瞳を輝かせて、光は風を見つめる。
「お客さんきっといっぱい来ると思うんだ。風ちゃんの演奏、私もそうだけど皆楽しみにしているから。」
 嬉しそうな光に、風も頷いてみせる。けれど、光は常に好奇心と喜びに溢れた瞳は微かに細める。元気に上がる眉も一文字に伸びた。

「でもね。明日は風ちゃんの、風ちゃん自身の為に弾いてね。」

 どんな結果が待っていようとも、運命を受け入れそして抗える強さを。

 願いを胸に、風は光に「はい」と返事をした。

 



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