走り書きのメモ 光は、さらさらとピンク色のポストイットにペンを滑らせた。そうして、海が使用しているPCのモニターに、横から貼り付ける。 「あのね、海ちゃん。」 「え? 何?」 海の周りには、分厚い本とノートが乱雑に置かれていた。 そうして、光の方を見ずに、側に置いていたノートに手を伸ばす。読み返せば、何これ象形文字? になっている自分の文字達に首を傾げるのが忙しくて、ちらっと張り紙に視線を移しただけで読もうとはしない。 光は少し困った表情で笑った。 仕方ないよねぇと呟き、自分もさっきコピーしてきた紙の束を見つめた。 思わず、溜息が出る。そして、読んでくれれば、わかるだろうと海の背中にそっと挨拶を残して、その部屋から出て行った。 キーボードに両手を戻して2、3行打ち込むと、海は再び小首を傾げる。 「我ながら、変な文章よね? これ」 ふうむと唸るとノートを丸めて顔を近付けた。パチパチと何度か瞬きをしてから、諦めたように其処から顔を引き剥がした。 そして、さっき光が自分に話し掛けていたのだと思い出して、呼ぶ。 「で、何なの? ひか…光?」 けれど、パーテーションに区切られた一角に設けられたスペースは、気が付くと、海ひとりになっていた。 試験が間近なのだから彼女も忙しいのだろう。いつもは、人も疎らなこの部屋にも、びっしりと人間が詰め込まれていた。 教授によって試験もバラバラ。レポートを提出するだけで単位を頂けるものならば、確実なところから攻めていきたいのが人情だろう。自分でもさっぱりのこのレポートを読まなければならない教授に、少々同情しながら、海は貼付られた紙に手を伸ばした。 ピンク色の小さな紙切れには見慣れた光の可愛らしい字が踊っていた。 其処に書かれていたのは、小さなホールの名前。 海には馴染みがないけれど、この大学に在籍している学生などが、演劇や演奏会など、自らの才を発表する為に借りる場所であることは知っていた。 「ああ、そっか。」 クスリと笑って、海はそのメモを手帳に挟んだ。 此処に決めたんだ。そう思う。 頬杖をつき進まない文章を眺めながら、安堵したような少し悔しい様な気持ちで、海は微笑む。 思慮深くて、下手をすれば石橋を叩いて壊してしまうんじゃないかと思っていたのだけれど、今度ばかりは行動が早かった。尤も、それまでにウジウジと悩んでいたせいなのかもしれないけどね。 海はそんな風にも思って、クスクスと笑った。 「どうぞ、よろしくお願い致します。」 そう告げてから、風は深々と頭を下げる。 「こちらこそ、よろしくお願いしますね。立ち話もなんだから、座って、座って。それで、曲は決めてきたの?」 にこにこと愛想の良い事務員は、此処を訪れた風を最初に案内してくれた女性で、個人的にリサイタルなど開いた事もない風に、親切丁寧に説明をしてくれた。 ホールの大きさ、時間…全てがわからない事だらけだった風のチンプンカンプンな話を我慢強く聞いてアドバイスをしてくれた。やってみようと、そう風に決心させてくれたのは、この事務員の力だと言っても良い。 彼女に即されて、事務室の中にあるソファーに腰を下ろす。脇に抱えていた鞄の中から、楽譜を二冊取りだした。 「あの、これと…これを。どうでしょうか?」 緊張に固くなった風に、彼女は笑顔を返す。そして、一冊手に取り、曲名を読み上げた。『私もこの曲大好きなの』そう風に告げてから、風が差し出したもうひとつの楽譜には、小首を傾げる。 「これは…余り聞かない曲名ね。」 「想い出の曲ですわ、私の。」 風は指先でそっと表紙に触れた。 あの、別れが近付いていた日。セフィーロの、フェリオと戦う運命が待ち受けていた日、弾いていた曲。 そして夜が明けた時、自分は大切な一歩を踏み出していた。これは、そんな曲だ。 「大切な方に聞かせたい貴方にはピッタリの曲ね。」 女性の言葉に、風は瞠目した。さっと染まっていく頬に彼女が笑顔を増すのがわかって、ことさら風は恥ずかしくなる。 「あ、あの私、そんな事を申し上げましたでしょうか?」 それでも、女性が告げる言葉に間違いはなく、冷静さを取り戻したいと言う願いに反して、風の顔は真っ赤になっていた。 あの、その…と言葉もおぼつかない風に、女性は嬉しそうに微笑んだ。 「あらあら、いいわね。若い子は可愛らしくて。」 クスリと笑い、女性は俯いてしまった風の頭をポンポンと叩いた。 「長い事働いてるから何となくわかるのよ。大勢の人に聞いてもらいたくて来る人と大事な人に捧げたくて来る人。雰囲気とかやっぱり違うのよ。 ああ、だったら、その人には特別に招待状を出さなくちゃねぇ。サンプルもあるんだけど、手書きっていうのも捨てがたいのよ。心、籠もっている感じするじゃない?」 風の事を気づかってくれる言葉に、しかし返答出来なかった。 一番聞いて欲しい相手は、誰よりも遠くにいる人間で。連絡など取れようはずもなく、招待状を送る事など叶わない。 テーブルに置いていた風の手がキュッと握りしめられた事で、彼女は何かを悟ったようだった。少しだけ眉を八の字にしてから、黙り込んでしまった風に話し掛ける。 「連絡、出来ない相手なのね。」 コクリと風は小さく頷いた。異世界の人間だなどと言えようはずもない。けれども、事情について彼女は深く聞くつもりはないようだった。 「残念ね。」 困った顔でただ告げられる。 ホールでリサイタルを開こうと思い立ったのは、ただ居ても立ってもいられなかったから。演奏の事で、フェリオに対して八つ当たりをしてしまったのだから、ただ彼の耳に止まってくれればいいと思った。自分の力で、演奏出来るのだと、そう伝えたい。 連絡が、たとえば電話が繋がるのなら、言葉で伝える。手紙が届くのなら、幾つも手紙を書いた。でも、全ては叶わない願いでしかない。 謝ろうと思ったところで、自分には為す術もなく。全ての手段を失った様に思えた時、風の中に残っていたのは、演奏することだったのだ。 何の為に演奏するのか、そんな問いに、此処まで明確な答えが出る事自体が初めてで、風自身でさえ戸惑った。 ピアノは好き。演奏することも好きだった。だから、頑張ってこれた。この事に間違いはない。 でも、自分の想いを伝えたい。音階だの、技術だのそんな物を何処かに置き去りしたってかまわない。誰かに聞いて欲しいとそう願ったのは初めてだったのだ。 帰路を辿りながら、風は思い立った事があり肩から下げていた鞄から、ファイルを取り出した。書き込んだ事柄を確認しなんと細々とした雑用が意外と多いことだと、風は苦笑を浮かべた。 試験期間中とはいえ、常日頃から決まった時間分が勉強をする癖がついていた事が幸いし、土壇場で大騒ぎ…などという失態を演じる事すら無かったが、何だか色々と忙しい。 これが、個人でなくグループであれば分担する事も出来たのだろうけれど、生憎とひとりぼっちのリサイタルだ。 協力を惜しまないと公言してくれた、海と光にも試験中とあっては、頼みづらいものがある。最も、試験がなければ、こんなに早くホールを借りる事が出来たかどうか怪しいものなのだが。 打ち合わせを終え、具体的な内容も煮詰まって来た。 日程が決まった事で、しなければならない事がぐっと具体化してきた。演奏曲の練習もさることながら、教授や大学側への許可の届出等は義務化されているし、許可さえ出れば無償で借りられる。今はアルバイトをしていない風にとって、この差は大きい。 徒然と考え事をしていた風は、その(バイト代)でフェリオの服をプレゼントした事を思いだした。 申し訳なさそうに笑みを浮かべた彼の姿が蘇る。 微笑んだ表情。酔っぱらって背負って貰った時の体温。照れると鼻を掻く癖。 途切れる事なく、浮かぶ仕草が胸に迫った。 ふたりで連れ立って歩いたのは、紛れもなく此処。溢れ出してくる想いは、風の眦を熱くする。胸が苦しくて、堪らなくて立ち止まった。ワンピースの裾だけが、冷たい風にハタハタと揺れていた。 俯く風の視線に、横を人々は通り過ぎて行く人々の脚は見えた。勿論、恋人同士だとわかる者達の軽やかな笑い声も聞き取れる。つられるように顔を上げれば、先を行く青年の腕を後ろからギュッと掴み、引き寄せるように頬を寄せて、微笑む少女が見えた。 可愛らしい苦情の言葉を口にして、置いていくなと唇を尖らした。苦笑した青年は、歩幅を変えてゆっくりと歩き始める。 遠ざかっていく恋人達の後ろ姿を見送り、不思議なものだと風は思う。こんな情況それこそ、何度でも見たことがあったはずなのに、まるで初めて見たような気分だった。 頑張って捕まえていて下さいね。 心の中で、そっと少女にエールを贈る。そして(私も頑張りますわ)風はそう言葉を続けた。 〜Fin
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