突然の雨


 幼い頃、優しくしてくれた近所のお兄ちゃんがを好ましいと思った事があった。
小学校の時、同じ委員をしていた男の子と一緒に居るときに胸がどきどきした事があった。
 それは、柔らかく、ただ甘く、幸せが何処かから雪の様に舞い降りてくるようなもの。指を絡め、腕を組み、微笑みながらに自分の横を通り過ぎる恋人達は皆幸せそうで、何も辛い事などなさそうに見えて…だからそれが『恋』なのだと信じていた。

 自分が自分でなくなりそうで、もどかしくて、苦しくてそんなものが、『恋』のはずはないんだと頑なに思っていた。
 気付くと思考は相手に囚われていて、必死で抜け出そうとしてもただ想いは深まる一方で、どうして私だけが、何故こんなにも不自然な状態に追い落とされてしまうのだろうかと、そんな事ばかり考えていた。
 理不尽だ。何故、どうして。
 形のない掴み取る事もできない『私の心』が、どうして彼に囚われてしまうのか、考えれば考えるほどにわからなかった。だた闇雲に理由を求めていたのだから、わかるはずなどない。

 囚われたのは私の心。フェリオの事を考えてしまうのは、私の想い。

 全ては私だったのに、何故、理由をフェリオに求めていたのだろうか。恋を知らず、向き合う事もせず、私はただ怖がっていた。踏み出す一歩を、恐れていただけ。

 心はフェリオを好きだと、ずっと、繰り返し教えてくれていたのに。見る事もせず、逃げ出してしまったのだ。
 変わったと思っていたのに。強くなったと、真実から目を反らすこともなく向き合えるのだと、そんなものただの強がりだったのだ。


「風。」

 優しい声に、風はゆっくりと顔を上げる。
「海さん。」
「酷い顔してるわよ。でも、この前までの傲慢な顔よりはいいかもね。」
「酷いでしょうか?」
「酷いわよ。でも、優等生じゃない顔をしているわ。」
 綺麗な眉を僅かに歪めて、海が微笑んだ。
「貴方のその顔、とても好きよ。」
  
 海を中心に、ゆっくりと景色が風の前に戻って来る。
此処は学校のカフェテラス。目の前には、冷めきった珈琲が、溶けていたはずのミルクを表面へと押し戻し初めている。レッスンが終わってからずっと此処にいた事を風は思い出していた。
「私、フェリオに酷い事を言ってしまいましたわ。」
 ぎゅっとコップを握る手に力が籠もる。長時間放置された紙コップは、撥水性を失いつつあって、風が込めた分だけ皺が寄る。
「いいんじゃない?」
 海は風の前の椅子にストンと座る。ふわりと広がった髪が、その肩に落ちる前に、彼女は両手をテーブルに置くと、顔を上げた。
「だって、恋をしてるんだもの。必死になって然るべきだと思うのよ、私。
 貴方も、フェリオも。だって、自分が好きになった相手が、自分の事を好きになってくれるかどうかなんて、奇跡みたいなものだもの。
おまけに、相手は異世界の…人間よ? 容易い相手なんかじゃあないわ。」
 

「ねぇ、考えてみて風。私達が幼い子供だった頃、異世界の人間と恋に落ちるなんて考えた事あった?」
 ふるりと風は首を横に振った。緩やかに海は微笑む。
「じゃあ、そんな人のことを知る日が来るなんて思った事があった?」
「いいえ。」
「そうよね。」
 同意の言葉とは裏腹に、海は思いきり眉間に皺を寄せた。両手をテーブルのど真ん中にドンと落とすと、風の顔を覗き込む。急に変わってしまった海の態度に愕き、風は目をぱちぱちと瞬かせて、海を見つめ返した。
「な、何でしょう、海さん。」
 人差し指を風の前で振ってみせる海は、悪戯めいた瞳で風を見つめ返していた。
「もう、お姉さんぶって話すのは、光相手でお仕舞いだわ。私、怒ってるのよ。風」
 相当頭に来ているんだからね。海は、ウインクをしながら風に詰め寄る。
「貴方は、頭が良いから私がクレフの事を好きだって気付いているんでしょう?
そういうのは気が付くのに、貴方の煮え切らない様子を見ていて、私がどれだけコンチクショーって思ってたのはわからなかったの?」
「コンチクショー…ですか?」
 躊躇いがちに口にする言葉を、海はもう一度繰り返した。
「コンチクショーよ、勿論。私がどう足掻いても手に入らないものが貴方の目の前にあるのに、それを手にしようともしないんだもの。」

 もしも、私がフェリオの事を好きだったとしたら、風になんか絶対渡さないわ。

 海の言葉は風の心に深く届く。本心を偽る事なく風の前に差し出せるのは、彼女が風を、そして光を大切な存在として心を砕いているからだろう。

 たとえ、フェリオが風の事しか見てなくて、私の事をただの友達だと思っていたとしても、側に来てくれたら彼の手を決して離さない。
 ううん。風のとこへ行きたいって言っても、どんな手を使ってでも行かせない。卑怯だと言われても構わない。だって、隣に確かな存在があるんだもの。
 話掛ける事も出来るし、触れる事だって出来る。失わない為にどんな事だってする。

「………海さん。」
「私が好きになってなくて幸いだったわね。甘くはないわよ? 私」
 ニコと海が微笑んだ。
「だから、風。本当に自分の気持ちに気付いて、本当に離したくないと思ったら立ち向かうのよ? どんなに足掻いても決して手に入らないものは確かにあるし、綺麗な言葉だけど、手に入ると信じ続ける事も出来るけれど、本当の機会の神様は前髪しかないの。」

 良い? それを掴めるからこそ、奇跡なんだからね。

 怒っていると言いながら、海の口から出てくるのは励ましの言葉ばかりで、風は目尻に浮かんだ雫を眼鏡の端から指で拭った。

「ありがとうございます。海さん。」
「何お礼を言ってるの? 私、怒ってるって言っているじゃない?」
 澄ました顔で、海は首を傾げた。
 

 優しく逞しい友人は助言をすると立ち去った。風は、想いを巡らせていた椅子を立ち、もう飲む気になれないコップを処理するべくカフェに設置された水道に向かった。
 恋なのだと、尊敬する師が教えてくれた。
 恋とは捕まえるものだと友人が伝えてくれた。
 どうして、それが恋だとか、何故その人が好きなのかなんて問いが愚問だった事を風は知った。

優しかったからかもしれないし、顔の造形が好みだったのかもしれない。
時々、酷く気障な事をいう声が良いのかもしれないけれど、真剣な時に見せる冷酷な表情も胸を打ったのかもしれない。

 何が好きなのではない。彼が−フェリオ−が好き。

 彼に理由をぶつけていた時には、その不条理さ故に止められなかった涙が今は出て来ない。今でも、理由を答える事は出来ないだろうと風は思う。
 でも、自分の心なのに制御出来ない理由はわかった。彼は自分ではないから。
違う身体を持ち、違う事を考え、違う行動をする。自分の思った通りになるはずがない。そもそも、恋に対する前提が間違っている。
 いや、間違っていた。
「優等生だなんて…海さんに言わせてしまうはずですわね。」
 海はずっと前から知っていたのだ。恋しい相手は決して自分の思い通りになどなりはしないと。逢瀬を果たすという、ただそれだけの事すら自由にならない我が身を通して。
 そして、師の教え。『優等生の音色』 
 取り澄まし、綺麗なだけの旋律に心が動くはずもない。自分を守ろうとする固い鎧を纏った演奏など、テクニック以前の問題。仮にもプロに成ろうという志の者が抱いていい目標のはずはない。言外に、師はそう告げていた。
 
 少し勿体ない気はしたが、コップの中身を排水構へと傾ければ、思いもよらない模様を描きながら茶色と白の液体は消えていく。少し、綺麗だったようにも感じて、風の唇は綻む。ふっと微笑んで、ああ、近頃こんな風に笑った事がなかったと思う。
 こんな日常のたわいない出来事だって『思いがけない物』で溢れている。
 それを知ってはいたけれど、理解しようとはしなかった。だから、戸惑い、躊躇い一度逃げ出した。
 もう逃げたくない。どんな結末が自分を待っていようとも、この気持ちからは逃れようがないのだと知ってしまったのだから。

「そうなんですね、全部、私の気持ち。」

 両手を胸元でギュッと握りしめる。繰り返す動機は、早く強い。この中に私の気持ちがある。何よりも確かに、此処にあるのだ。
 
 ふいに、空から墜ちた雨粒が風の頬を濡らした。変わりやすい空模様はいつの間にか鉛色の雲を敷き詰めていた。ぽつ、ぽつと落ちる彼女の涙を模すように頤へと流れ落ちる。
 けれど、それは涙ではない。翠の瞳は強く空を見上げた。
 鉛色の空とて、それは空。この雨も、柔らかな陽光もその空が与えてくれるものだ。絶望も、希望も同じところにあるようなもの。

 私は、セフィーロに向かう事は出来ない。
 フェリオに来るなと告げてしまった以上、彼が再びこのレイアースに降りたってくれると期待するのは、間違いなのかもしれない。

 それでも、チャンスを掴みなさいと励ましてくれた友人の為にも、そして紛れもない自分自身の為にも精一杯のことをしようと風は思う。
 その顔に浮かぶ表情は、悲愴感に満ちた固いものでもなく、柔らかな笑みだけを讃えている。ただ、その内心にある不安と、もう二度とフェリオに会えないかもしれないという悲しみは、突然の雨が代用してくれた。だから、風は真っ直ぐに歩き始めた。

 
〜fin



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