これが恋


 陽光が頬に当たり、じんわりと温かくなっていた。夕方から降り続いていた雨は、今朝になると止んでいたらしい。
 窓の外にある樹々は、そのたっぷり茂らせた葉の上に多くの水滴を溜めて眩しいほどに光を反射させていた。
 風は眩しそうに手を目の上に翳して、翡翠の瞳を細めながらベッドから起きあがる。そして、腰掛けたままで暑くなっていた頬に手を当てた。

 眩しいのは外が光で溢れているからではない。
 鏡に写る自分の顔は、泣き濡れて瞳は赤く、瞼は腫れ上がっている。
髪も乱れていて、撫でつけようと指を通しても引っ掛かってしまう。皺だけらの服は昨日着ていたもの。泣き疲れて眠ってしまうなんて、小学校の頃以来ではないだろうか…。
「それにしても、随分酷い顔…ですわね…。」
 そう呟いて、鏡を覗き込んだ。そこにいる自分の姿は、今まで見たこともない姿と表情をしている。
 こんな顔をして、電車に乗り、人通りの多い場所を通って帰ってきたなんて信じられない。昨日の自分は本当にどうかしていたのだ。
 風はそう感じた。
 幾ら演奏が思うようにいかなかったからと言って私は…。

フェリオさんに八つ当たりをしてしまった。

 冷静になってしまえば、どうしてあんな事を言ってしまったのだろうかと思う。彼がこない事が気になっていたのは間違いないけれど、それと不甲斐ない演奏という事実の間に、彼を責める要因があったとも思えない。
 下手なのは私の練習不足。気が散ってしまうのも、自分の心構えの問題。
酷い事を言ってしまった自覚はあるのに、何処か安堵している自分を感じた。

 ああ、雨は上がっている。

 風は窓辺に寄り、部屋を明るく照らしていた陽光から隠すようにカーテンを引いた。

 眩しすぎて、目を開けていられなかった。
 遮られた光にも背を向けて、風はもう一度ベッドに座りこむ。瞼を閉じていても感じる底の熱さは、何度擦っても拭い去ることは出来なかった。じりじりとした、痛痒い感覚がもどかしい。眼鏡を外して、目を擦っても、それは変わらなかった。
 シャワーでも浴びて、さっぱりしようと思い立ち、着替えを手に階段を降りる。
家の者はまだ寝静まっている時間、ゆっくりと足音を立てないように浴室へ向かう。
 いつも時間はきっちりと守る方なのは自覚しているので、こんな些細な事でも罪悪感を覚え、心臓に悪い。生真面目ねぇと友人が聞いたなら、笑うだろう。
 普段感じた事のない床の軋む音に、そろりそろりと足を進めた。
考えなくても浮かんでくる言葉。
 
 これで、良かったのかもしれない。風はその言葉を胸で何度も繰り返していた。

 前に海が言っていたではないか、わざわざ異世界から足を運ぶ男性を友達と呼ぶのは失礼だと。
 だったら、これで、フェリオはこちらの世界に来ることもなくなるだろう。友達が失礼だと言うのならこれが一番良い方法ではないだろうか?

そうして、
「セフィーロで好きな方がいらっしゃれば、本当にもういらっしゃることは無いですし…。」

 自分の唇から出た言葉が、胸に刺さり息を詰めた。笑顔を、自分の知らない女性に向け、いっぱいの優しさを傾けるのだ。
 当然だと思う気持ちと裏腹に、瞳や鼻の奥がツンと熱くなる。
 風は足音を気にする事を止めて、浴室に駆け込んだ。ジワリと滲んでくるものをこらえて、着衣を籠の中に脱ぎ捨てるとシャワーのコックを全開にした。
 生ぬるい水の粒が頭から降り注いだかと思えば、それは直ぐに冷たい水へと変わった。
 しかし、涙で腫れた瞼にあたるそれは心地良い。濡れた金髪が細い肩や腕に張りついて、水滴は細く柔らかな風の肢体を流れ落ちていった。
 サーッという水音も耳には優しかった。微かに漏れる嗚咽をそれは隠してくれる。
涙が溢れていた。それが、何によるものか風には判断出来ない。
 ただ、身体から勝手に涙が流れ落ちていくような感覚。
 そうしていると、冷たかったはずの水が温かく感じられ、それは自分の身体が熱を持ち始めているのだとわかる。押し留めようとしている心が、まるで抵抗しているような…そんな奇妙な感覚を風にもたらした。

「風さん、いるの?」

 脱衣場から姉の声がして、風はシャワーのコックを左に回す。少なくなった水音が姉の声を鮮明にした。

「風さん?」
「はい、すみません。起こしてしまいましたか?」
 風の答えにはいいえと返事が来た。
「トイレに起きただけよ。昨日入浴をせずに気分が悪いと言って眠ってしまったみたいだたから、声を掛けただけ。」
 明るい、しかし聡明な姉の声。彼女は自分が体調不良では無いと知っているのではないだろうか?
「もう、平気です。ご心配をお掛けしました。」
「ねぇ、風。ひょっとして、今緩めのシャワーを浴びているの?」
 どうして、そんな事を言うのだろうか?風が尋ねると、クスリと笑い声がした。
「窓がね、湯気で曇っているように見えなかったから…でもね、風さん。目をぱっちり覚まして、身体をしっかり目覚めさせるのは少し熱めのシャワーがいいわよ。」
「そうなんですか?」
「そうよ。冷たいものの方が、目覚める気がするけど実は違うの。
思い込みって、捨ててみるとあっと驚くことあるのよね。試してごらんなさい。」
 そう言うと、姉の足音は遠ざかり、シャワーの音に掻き消される。
「熱い…お湯…?」
 身体はほっ照ってきている感じはするものの、どこか怠い。風は思いきって湯量を増やすコックを開ける。
 チリと肌を焼く熱さ。痛がゆいと感じる目の奥へ瞼の上から熱が伝わる。思った以上に心地よかった。そう、冷水をかけるよりも。
 
 身体の感覚がしっかりと戻っていくにつれ、風の気持ちも落ち着きを取り戻したように感じた。

 そう、フェリオさんには悪い事をした。これで、彼との交友は無くなってしまうのかもしれない。
 けれど、今私がしなければならない事は、課題曲をしっかりと弾きこなせるようになることだと風は、心のなかで繰り返した。



「この頃風ちゃん、元気ないよね。」
 本来なら、四人が輪になって座れる大学のテーブル。海と向かい合って食事をしていた光が、今までしていた世間話を突然止め、そう告げる。
話し掛けられた海も、左には資料。右手にスプーンというなんとも行儀の悪い状態で、光の話をなんとなく耳に入れていた状態だったので直ぐには答えは返らなかった。それでも、本を捲り、口元に昼御飯を詰め込んでいた手は止まる。

 三人揃って食べていたお昼も、この頃はご無沙汰。
 元気が無いという光の感想も会話を交わして得た物ではなく、たまたますれ違った際の手の振り方だったり、風に対する噂話からだったりする。
 しかし、風が何をしているのか二人とも知っていた。彼女の生活時間の殆どは、今、練習に割り当てられている。親友である二人との会話よりも、それの優先順位は上なのだ。
 海にもそれはわかっていたようだった。
「そうね。」
 海は、チラリと光に目をやり、直ぐに机に広げられた本に視線を戻した。
「でも私、それどころじゃないのよ。レポート三本も溜めこんじゃったんだもの。これを済ませて綺麗な身にならないと、風どころじゃないわ。」
 意思の強い光の眉が、歪められる。
「ねぇ、海ちゃん…まだ、怒ってるの?」
「え?誰が?」
 今度はしっかりと顔を上げて、海は長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。
「何?私?」
 顎に手を当てて、光に向かって斜めに視線を送る。こんな時でさえ、光は怒ったとか憤ったという表情ではなく、道に迷った子供ように(要するに幼い表情で)海に視線を返した。
「だって、海ちゃん…この間…。」
「怒ってないわよ。」
 綺麗な唇が、少しだけ開いた。「ああ、そうね。強いて言うなら、呆れた…だわ。」
「呆れた…?」
 きょとんとした光の顔に、海はしょうがないわねと微笑んだ。
「風以上に、光に恋愛の話をするのは難しいわ。」
「私、子供だから…そうかもしれないけど…。「ストップ。」」
 言いかけの言葉を奪われて、光はなおも困った顔になった。海は、ふうと溜息をつく。
「風はね、間違いなく恋をしていると思うわ。」
「フェリオに…?」
「そうね。フェリオにだと思う。でもね、光。風はそれを自分で認める事が出来ないの…。」
「どう…して…?好きな人が出来るって、私大事な事だと思うし、私も出来たら嬉しいと思うよ?」 
 にこりと海は笑う。その笑みはとても綺麗で、光は一瞬目を奪われる。
「恋はね…堕ちるものだから。」

「…おちる…って、えと、その、穴か何か?」

 往年のギャグ漫画を思わせる台詞に、海は呆れたように口を開ける。
「なんて言うか…とんでもなく光らしい答え。」
「そんな意地悪な言い方しないで、教えてよ。海ちゃん。」
 両手で拳をつくると目の前で揺らす。幼い子供が駄々を捏ねているような仕草はとても可愛らしくて、(大学生とは思えないけど)光らしいと海は思う。
そう言ってしまうなら、今の状態は風らしいのかもしれない。

 側から見ていると、なんともじれったく、馬鹿馬鹿しいその様子も風にとっては精一杯なのだろうか…と。
しかし、それが黙って許せる自分ではない…とも思う。
 フェリオの気持ちがわかる以上、そして風の頑なさを突き崩してやりたいと感じる以上きっと自分は意地の悪い考えをもっているのだろう。

「海ちゃん…?」
 ぼおっと視線を彷徨わせてしまった海を呼ぶ。海はもう一度にこりと微笑んでみせた。
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて、光なら恋に墜ちないんだろうなって思ったの。」
 頭の上に大きな『はてなマーク』を浮かべている光にクスクスと海は笑った。
「だって、光は素直だから好きになったら、好き…でしょ?自分の気持ちを見失ったりしないと思うの。
 相手に対してつまらない意地をはったり、自分の気持ちに無理に理由をつけて納得させたり、嘘をついたり…そんな事はないわよね。」
 瞬きを繰り返し光は躊躇いがちに話し掛けた。
「海ちゃん…そのね。海ちゃんは…。」
「そうそう、クレフの事が忘れられないの、私」

 そして、続けた。「好きなの…ずっと、あの時から。」



 初めて…そう。初めて間違える事なく最後まで弾ききった。安堵の溜息が、風の口から漏れる。
 未だに危うい箇所は何カ所もあるが、何度も指に覚えさせれば大丈夫なはず。何故なら、今確かに弾けたのだから。
 風はそう確信をもって、今度こそ胸を撫で下ろした。
 しかし、心の焦りが凝りとなって残っているのか笑みが浮かばない。弾ききったという安堵感以外は、なんの感情も浮かんで来ない。空っぽとは、こういう感覚なのだろうか?余裕がない…という事なのだろうか?
 何処かで味わった事がある感覚…けれど、頭の隅で囁く声に耳を傾けようとは思わなかった。
 そんな事を考えてどうする、もういいではないか。この難しい課題曲の示す通り指が動く、それだけでもう充分。そう、これで何も思い出したくないんです。



 風は暫くの間、放心して椅子に座り、ピアノと向き合っていた。


 課題曲を聴き終わり、教授はあの時と同じように頭をかしげた。
指遣いは完璧だったはず、操作法も間違いない。少しばかりはメトロノームの刻むリズムに乗り損ねたところもあったが、概ね問題はないものだと思っていた。
しかし、風を見る彼の表情は曇っていた。

「ああ、悪い演奏ではないよ。ただ、この間はあまりにも良い音色だったものだからね。」
 教授はそう良い、おきまりのように白い髭を手で撫でつける。骨張った指の動きは、あくまでも繊細だ。
 一瞬、誰かの指を思い出させる。そして、風は我が耳を疑った。

良かった?あの演奏が…?

「優等生だった鳳凰寺さんの音色が変わっていてね。」

 え…?

「こんな事を言って、鳳凰寺さんが相手のことを妙に意識してしまってもいけないかと思って言わなかったんだが。その、誰かに恋をしているのではないかと思っていたんだよ。」
 
 お爺さんが孫娘に向けるような、そんな柔らかな表情を持って教授は風を見つめた。諭すように、ゆっくりと言葉を続ける。
 
「ふむ…私は『繊細な』という言葉をよく使うが、君はどう思うかね、鳳凰寺さん。」
「神経の行き届いた演奏…でしょうか?」
 うんうんと頷く。
「そう思うかね?実は繊細さというものは、心が弱いということなんだよ。様々な刺激に敏感に反応を返すということは、即ち弱さ。羽根が風に舞うように、湖面で木の葉が揺らぐようにという例えでわかってもらえるだろうか?
 だから、往々にして心に振り回されて、演奏自体を疎かにしてしまう人間がいるのも本当だ。けれどね、何もかも弾き返してしまうような心は、演奏家には向かないというのが私の持論だ。私も貴方もここは弱い。」
 教授は、自分の左胸に掌を当て、そして…と続ける。
「けれど、演奏家というものはどのような場所でも精神状態でも、最高の演奏をしなければならない『強さ』というものを同時に望まれる。
 私はね、これに似た状態が恋だと思っているんだよ。」

 音色はあくまでも、相手の機微を感じ取る『繊細さ』を持ちながら、些細な出来事や相手の態度に惑わされない『強さ』を併せ持つ心。
 
「プライベートに立ち入るようで失礼するが、この間の演奏に私はこれを感じた。
演奏という技術では、努力という才能も持ち合わせている君が、もうひとつ演奏家としての『繊細さ』と『強さ』を持ち始めていた気配を感じたんだよ。
 もしも、思い当たる事があるのなら、今はその気持ちと向き合う事を勧める。あの音を失うのは実に惜しいよ。君と師弟関係にあるものとしてね。」
 ふっと優しい笑み。

 途端に浮かぶ笑顔が誰なのか、考えるまでもない。

 これが…恋?。
〜fin



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