あなたじゃなきゃ ver ferio


※続きのようなそうでないような…。

 雑踏の中。
 フェリオは足を止め、空を仰いだ。急に立ち止まった自分を、鬱陶しそうに斜めに見ながら、人々は進んで行く。
 この東京という街は、何処へ行っても人姿で溢れている。
 故郷では考えられないその人の数だが、自分という個人を知るものは、たった三人だけだ。  そのうちの一人。
 聡明な瞳と、綺麗な微笑みが似合う彼女。

  『…もう…来ないで…ください。』

 フェリオの脳裏に彼女の言葉が、何度も何度も蘇る。
涙を抑えながら、自分の横を抜けていく彼女の腕を強引に引き寄せる事が出来る自分だったら、彼女を涙させる事もなかったのだろうか…。
 それとも、もっと早く、フウが傷つかないうちに、離れる強さが自分にあったのなら、こんな結末を迎える事はなかったのだろうか…。

 聡明な翡翠の瞳に涙が溢れていた。
紅く変わっていた目が、自分の罪の汚れに感じた。

『お前には…。』

 セフィーロの聡明な導師が自分を見据えてこう告げた。
その瞳は、友に裏切られた怒りと共に、自分に対する憐れみの色を滲ませていた。
 同じように、別の世界の人間に恋をしてしまった男の気持ちが、あの友人にだけは分かるのだ。
 それ故に彼は自分を諫め、そして自らの心を隠している。
しかし、瞳の奥に、蒼い髪の少女の影を隠しきれない事をフェリオは知っている。遠い目をしながら、そこにいない少女の面影を感じていた事も知っている。
 だからこそ、彼の言葉は重い。

『彼女の人生を狂わせる権利があると思っているのか?』

   そんなものが、あるなどと思ってはいなかった。
異世界を訪れて、彼女に会うこと。
 理由があるとすれば、ただ…心惹かれた。ただ、彼女の事が好きだった。それだけだ。

 自分にとって、理由はそれで充分だった。
どんな危険も、どんな努力もその理由だけで越えてこれた。
…けれど…。

「フウ…。」
 それは、彼女を泣かせるのに値する行為だったのだろうか…。
 ふらりと身体が揺れた。
 額に手を当てて、身体のバランスを取る。瞼が今にも閉じてしまいそうだった。怠くて眠い。魔力がもう殆ど残っていないのだろう。
 しかし、こんな所で倒れてしまうと、後々問題が起こることは眼に見えていた。東京で、もうこれ以上風に迷惑を掛けるわけにはいかない。不甲斐ない自分でも、せめてそれくらいは…そう思う。

「さて、どうするかな…。」
 ひとり呟いた。
 今の自分にはセフィーロに戻るだけの魔力もなければ、戻る訳にもいかなかった。戻れば、軟禁などという生やさしい代物では無く、完全に投獄されてしまうだろう。
 なにせ、その『軟禁状態』から抜け出て自分は此処にいるのだ、エメロード姫の勅命すらも顧みず。
 ふっとフェリオは自嘲の笑みを浮かべる。
 こちらへ飛ぶ前のエメロード姫の悲しげな顔が脳裏に浮かんだ。それは、涙した風の顔へと姿を変える。

「俺は、大切な人に嫌な思いばかりさせているな…。」

 ふるふるっと頭を振って、遠くなっていく意識をなんとか繋ぎ止めると、人気のない場所を探る。
 風が通っている学園都市と言われる此処は、本当にひとつの多きな街のようで、立ち並ぶ建物の幾つかには全く人間の気配が無い場所もあった。その中で、危険の少なそうな場所を探ると、となんとかある。
 とりあえず…その場所へ逃げ込む位の魔力は残っているようだ。

 大きなパイプが無数に張り巡らされている部屋。それ自体が熱を持っているようで、暖かい。壁に背を預けてフェリオは膝を抱えた。安全を確認する力は既に無かった。
 思考は、繋がっては切れるスイッチのようで役には立たない。
 『どれ程、此処に来ていなかったのだろうか?』
 ぼんやりとした意識でそう思う。セフィーロと地球の暦が必ずしも一致していない都合上、完全な特定は出来なかったが、最初にこちらを訪れて、不慣れだった為に間を開けた時間よりも長い期間だったのかもしれない。
『騙したな…。』

 歯噛みする自分の言葉に、クレフの叱咤する声が被さった。

『騙していたのはお前の方だ。』

 まるで、夢に引き吊り込まれるように、フェリオは眠りに落ちていった。



「騙したな…。」フェリオはそう口にした。
 
 部屋の中心に立っていたクレフは、片方の手に杖をもう一方の手には、包帯を握っていた。
 一目見るなり、フェリオはそれが何であり、自分の立場がどうなったのか理解する。その包帯は、風が手当してくれた時のもの。異世界へと足を運んでいた事が、白日の下に晒された…という事だ。
「騙していたのはお前の方だ。」
 だらりと長いそれの中心を握り込んでいる。空気は淀み、風など起こらないにも係わらず、揺れている包帯は、彼の手が震えていることを示していた。怒りか、それとも悲しみなのか。彼のどちらの感情が強いのか、フェリオにも判断は出来なかった。
 視線を返し、爪が食い込む程に手を握り込む。
 喉にからまる唾を何とか飲み込んで、フェリオは声を発した。
「…ラファーガを俺の部屋へ来させたのはその為か…。」
「あくまでも偶然だ。しかし、利用しなかったとは言わん。」
 クレフの言葉に、フェリオの表情は更に険しさを増した。
 結界を張る間も無く、開けられた扉に不審な思いはを抱かなかったかと問われれば嘘になる。やはりという思いは、この部屋に呼び出されて確信に変わったと言ってもいい。
「この包帯から異世界の少女の…いや、風の気配を感じる。お前の耳にあるリングと同じものだ。」
 一息に捲し立てて、クレフはぐっと言葉を止める。普段の高めな声色を感じさせる事なく、それは低くフェリオに届く。
 クレフは握っていた包帯をフェリオに突きつけるように掲げた。

「これをどう説明するつもりだ。」
 
 フェリオは黙って見返すのみ。しかし、その琥珀の瞳に翳りがないことは、クレフに別の危惧を抱かせた。
出来るはずも無い。ついこの間、異世界に飛び彼女に会った。
そんな言葉を返すことが出来ないと、勿論クレフも知っていた。
 それでも、問わずにはいられない。
 二度と異世界には向かわないとした約束を反古にしたこの男に。
「一度異世界へ飛んで、生死を彷徨う羽目になったのを忘れたのか、フェリオ。」
「そんなドジは二度と踏まない。」
 ポツリと呟いたフェリオに、クレフは苦々しい表情になる。
言葉がどんどんと荒くなっていくのを、クレフ自身も押し止める事が出来ない。純粋と言えば聞こえもいいが、幼い子供でもありはしないだろうに、そんな理屈を告げるのか。
「何処からそんな自信が湧いてくるのか、教えて欲しいものだ。」
「…話すつもりだった…。」
「嘘を付け。」
「嘘じゃない…。エメロード姫は既にご存じだ…。」
 フェリオの言葉に、クレフの声が荒くなった。
「まだ、理解していないのか!お前の魔力はセフィーロを支える為に必要不可欠なもの。自らの過失であろうと、お前を失うわけにはいかないのだ!
 お前は自らを律する事も出来ないのか!!」
クレフは、振り上げた杖を床に叩きつけた。

 瞬間、部屋の空気が一変。
 ハッと気付き、クレフに駆け寄ろうとしたフェリオを見えない壁が遮る。予め施してあった結界を、クレフが作動させたことは明白だった。
 こんな、子供だましのような手に気付かないほど、自分の魔力は少なくなっていたのかと、改めてフェリオは感じた。
 ならば、クレフに疑念を抱かせてしまったのも当然だ。

しかし…。

 フェリオは、ぐっと拳を握りしめると見えない壁に叩き付ける。音などしない、叩き付ける感覚も無い。ただ、その中に閉じこめられている。
「此処から出せ!!」
「出たければ、出るといい。」
 クレフの返事はあっさりとしたものだった。
  「本当ならお前と私の力は拮抗してきている。この結界を破る事は可能なはずだ…だが。」
 見据えるクレフに、久しく見せる事がなかった『抑えきれない程の怒り』という感情を乗せていたフェリオも睨み返す。
「もしこれが破れないのなら、お前は異世界との行き来で半端無い魔力を消費しているという事だ。それは、確実に寿命を縮める。
 これ以上お前の我が儘を許すわけにはいかない。エメロード姫の為にも、セフィーロの為にもだ。」
「わかってるさ!我が儘なのかもしれない!けど…。」
 けれど、俺は風の事が…。声にならない言葉を聞き取り『そうか…』と、クレフは呟いた。
「…なら、お前は、彼女の人生を狂わせる権利があると思っているのか?」
 それが、この部屋を出ていくクレフの最後のから二番目の言葉だった。フェリオの輝きを失わなかった琥珀が、初めて曇る。

「そこで、頭を冷やして、よく考えるんだな。」



 音はしない。薄ぼんりとした明かりが照らす部屋。
食事が運ばれて来ることで、時間が経っていることがわかる。それでも、どれ程のと言われるともう定かでは無かった。

 気に掛かるのは、セフィーロの事でもなく、仕事の事でも無く、レイアースの彼女の事だった。

いや、違う…とフェリオは首を横に振る。

 彼女が気になるのではなく、自分が彼女に会いたいのだ。己のものでもないのに、彼女に触れて、声が聞きたい。
 もっと長い間、自分はこの想いを胸の奥に潜ませていたはずだった。なのに、それよりも遥かに短い時間で、其処を焼き尽くしてしまいそうな程、熱い。
 何度か会ってしまったからか。たった一度の逢瀬では、伺い知る事の出来ない風の姿を知ってしまったからなのか、理由などフェリオにはわからなかった。
唯、じりじりと胸の奥底から触手を伸ばしてくる焔が苦しくて、胸に大きな穴を開けてしまう気さえする。

「フウ…。」

 名を呼んでも、それは収まるどころか逆に油を注いでいくようなものだ。
クスリと自嘲の笑みが口元に宿る。
 クレフ…。ここにいて、頭を冷やすどころか俺は…。

 カツンと靴音が響いた。
 衣擦れの音と共に、この薄暗い空間の中で光を放つ存在が目の前に現れる。
 豊かな金の髪を携え、澄んだ碧の瞳を持ったその美貌が、フェリオの顔を見つめて僅かばかり曇った。
 ベッドに腰を下ろしていたフェリオも思わず立ち上がる。二、三歩彼女の元に歩み寄り、立ち止まった。

「エメロード姫…。」
 フェリオの呼び掛けに零れるような笑みを浮かべた。
「少し…顔色が良くなったようですよ、フェリオ。」
  彼女の言葉に少しばかり驚きを覚えて、フェリオはエメロードの言葉を繰り返す。
「顔色が…?」
「ええ、貴方は元々肌の色は白い方ですが、この頃は本当に調子が悪そうで、クレフが随分と心配していましたわ。」
 エメロードはそう告げると、憂いを帯びた瞳をその瞼で覆った。
「だからこそ、彼は気付いてしまったのでしょうけれど…。」
 彼女の言葉に、フェリオは唇を噛み締めた。
「姫…にも、ご迷惑をお掛けしました…。」
 いいえ。エメロードが首を振ると金の粉が舞い落ちるが如くその髪が揺れる。
すんなりと細い手を胸元に当てて、長い睫毛を伏せた。
「私が心迷った時の事を思えば、どんな罪も罪になりませんわ。それに、貴方はただ恋をしているだけ…そうでしょう?フェリオ。」

「…我が儘だとクレフに言われました。」

「どんな状況でも、その方に惹かれていく心を留める事など出来はしませんわ。特に、身体が拘束されていれば、心はただ自由に、求める事を望んでしまいます。」
 フェリオ…とその女性は言い、潤んだ瞳で彼を見つめた。
その表情も、金の髪も碧の瞳も、フェリオに風を思い出させる。悲しげに、彼女は微笑んだ。
「けれど、フェリオ。お願いです。今暫くは、此処で休息をしていただけないでしょうか?
 心が穏やかではいられないと、わかってはいます。でも…。」

 ああ、この方はもう気付いているのだ。フェリオは、瞼を閉じた。

 クレフの張った結界が大きく揺らぐ。そこに障壁として何かがあるわけでは無い。
 心によって作り出された障壁はあくまでもイメージ。波紋を形どるような景色が、一息に回転すると元に戻る。
 エメロード姫の大きな瞳が揺れた。フェリオはゆっくりと目を開け、立ち上がった。
そこには、彼を遮るものなど存在しない。

「申し訳…ありません…。」
 最初はゆっくりと、そして姫の横を通り抜ける時は早足で駆け抜ける。

「フェリオ!!」

 呼び掛けはエメロードではなかった。
自分の結界が破られた事を悟った導師の声。思ったよりも、反応が早い。
 小さく舌打ちをして、フェリオは顔を顰めた。
 結界を粉砕するので、魔力は限界だった。これ以上セフィーロの最高位の魔導師を相手に出来るだけのものは存在しない。
 
 振り返った姫君の悲しそうな瞳を振り切るように、フェリオは躊躇う事なく異世界へ飛ぶ。


 己の欲望のままに…。そして、それがもたらす結果を享受する為に。


 コンクリートの床に崩れ落ちる身体。深い眠りが彼を捕らえる。
揺れる琥珀を覆い隠す瞼は上がらない。

 そして、間もなく夜が来る。


〜Fin



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