あなたじゃなきゃ


 大勢の学生で賑わう午後のランチルーム。
手にしたバッグをくるりと宙に回わし、彼女はストンと椅子に座った。ふわりと広がった長い髪が少しだけ優雅に彼女を纏う。
「あ〜疲れた。」
「海ちゃん、今日デートだったんじゃなかった?」
 食べかけの卵焼きを、箸でつまんだまま光は驚いた顔で海を見た。海はすかさず指で三を作ると、光の目の前に突き出す。
へ?と光の目が寄るのを見てから、海は形良い唇の端を綺麗に持ち上げた。
「あの男、三回目のデートでカップルはキスをするべきだとか言い出すのよ。」
 あほらしくて、バッグでひっぱたいて帰ってきちゃった。…と言葉を続ける海を見る光の目は真ん丸。 「何処のマニュアルに書いてあるのかしらないけど、そんなの個人の勝手よね。そうでしょ?風。」
 しかし、彼女の問いに賛同の声は上がらない。
「風?」
 海が光の横に座っている風に再度呼び掛けると、彼女はまるで夢から覚めたようにはっと顔を上げて、海に顔を向けた。
困惑の色が彼女の瞳にありありと浮かんでいる。
「申し訳ありません。聞いていませんでした。…でも、海さん今日はデートにいらっしゃったのではありませんか?随分お早いですね?」
 軽い会釈をかえすように首を傾げた風に、海は笑って返事をかえす。
「お付き合いも止めたから…そうね、お早いかも。」
 テーブルに両肘を付いて風の食べていた日替わりランチを眺めてから、お腹すいたと呟いた。
「私もなんか食べようっと。光、飲み物いる?」
 鞄を椅子に置いて立ち上がると、海は光の方を向いた。
風に問わないのは、日替わりランチはドリンクがセットになっているから。光は手作りのお弁当を持って来ていた。
「うん。お茶がいいな。…って、海ちゃんもうやめちゃったの?今月に入ってから三人目…だよね?」
「だってねぇ。ひょっとしたらって思っちゃうんだもの。この人だったら、ひょっとして…なぁんてね。」
 海はそう言うと長い睫毛を微かに伏せた。
憂いを帯びた彼女の表情は、なおさらに綺麗だ。
その美貌の持ち主にありがちな傲慢なところもなく、「まずはお友達ね!」とノリの良い返事が頂ける可能性大という事実も含めて、海は人気が高い。光も風もそのことはよく知っていた。
 風も比較的もてる方なのだが、『お付き合い』となると軽く「いいわよんvvv」 と言えるタイプでもないので声を掛けてくる相手は少ない。
『鳳凰寺さんて良いよね。』止まりで終わっているのが現実だ。そして、光は可愛い妹タイプとして人気があった。

  海は俯いたまま、言葉を発しない。彼女が何を思っているのか、二人は海の態度から察するものはあった。しかし、光と風は僅かな時間顔を見つめていただけで声は出さなかった。
言葉にする事はお互いに躊躇われた。
 それはあくまでも推察だ。海の口から聞いたわけではないのだから。
「そう言えば、風。この頃フェリオの姿見ないわね?」
 急に顔を上げたかと思うと、くるりと自分の方に顔を向けて問われた疑問に、風は再度困った顔で笑みを浮かべた。
「また来る…というのは時間的な定義として、どれほどをさすのでしょうね。」
「また来る?そうフェリオが言ったの?」
「はい。」
 風はそう言うと、自分の長袖に替わった服装に目をやる。彼が最後に此処を訪れたのは、まだ半袖でも過ごせる季節だったのではないだろうか。
あの時にお礼として渡した服に、彼が袖を通したのを風は見た事がなかった。
 あれ以来、彼は東京へ訪れてはいない。
海や光は、服を買いにいったあの時もフェリオと会ってはいないので、随分と姿を見ていない事になる。
「色々、忙しいんだよね。…たぶん。」
 最後の部分は、少し困ったような笑顔を浮かべる光に、風は笑みを返した。
「ええ、そう思いますわ。」
「ああもう、優等生の答えね。」
 海は、風の顔を凝視するとねえと言葉を続けた。
「フェリオが来てくれないのに、寂しくないの?」
「え…?」
 風は一瞬言葉に詰まる。
 寂しくないと言えば嘘になる。けれど、相手の都合も考えずに駄々を捏ねるほど子供でも無いはずだ。その程度の分別はあると自負していた。
 寂しいと素直に口に出す事が戸惑われて、返事の言葉を頭の中で探していた風に、海は眉を潜めて話し掛けた。
「それとも、フェリオが来なくても気にならない?」
 途端、風が本当に表情を曇らせたのを見て、海はふうと心の中で溜息を付く。
『どう言えば、この賢くて鈍い友人は気が付くのだろうか』
 友人の話を上の空で聞くなんて、普通の彼女ではあり得なかった事なのに。自分の変化に気付いてないのだろうか?
意識することもなく、ふいに浮かぶ思いは、他の何よりも気になっていることだろうに。
「ねえ、風。フェリオが何をしてるのか…とか、どうして来てくれないのか…とか、考えるでしょ。普通。」
「いえ、それは考えていますけど…。」
 私達に対しても一緒なのだと、風が言いたいのを感じると、海は焦れったさが増した。胸の中が、じわりと熱くなる。
 前にも言ったはずだ、異世界からわざわざ此処に足を運ぶ男を友人で片付けるな…と。

 あの男は来てもくれないのに。

 言葉が海の中で、ある青年の面影と共に浮かんで消えた。
 フェリオが風に対して好意を隠そうともしない様子に対して、風はあくまで冷静に見えた。
 正直フェリオは、何の期待もせずにこの世界を訪れてなどいないだろうし、寧ろ期待に答えるつもりがないのなら、さっさと拒絶の意志を示すべきだろう。それが、お互いの為というものだ。
『待つ』と言った彼の切ない気持ちはわかるのだが、『大切な友達』という言葉を使う風が今の海にとっては小狡いようにも感じられた。
 それは、たった今淡い希望を失ってきた故だったのかもしれない。
もしかしたら、あの人よりも、もっと好きになる人が現れるのかもしれない…なんて想いを思い切りよく裏切られていたのだから。

「じゃあ、こう考えてみてよ。」
 海は風にこう問う。
「フェリオは、セフィーロで好きな人が出来たの。もう、こっちに来る必要は無い。だから来ない…どう?」
 風は顔を曇らせてはいたが、ふるっと首を振った。
「…仕方ありませんわね。私達は恋人ではありませんから…。」
「ちょっと!」
 海は声を張ってテーブルに両手を着いた。大きな音が響き、ちょうど弁当のおかずを箸で掴もうとしていた光の目標がはずれて、驚き顔を上げる。俯く風と、表情を固くする海の様子に目を見開いた。
 海はそのまま問いを重ねる。
「風。貴方それでいいの!?」
 しかし、風は返事をしない。軽く唇を噛み締める。
「…もう、いいわ。」
「う、海ちゃん!?」
 慌てて声を掛けた光に、海は両手を腰に当てて首を左右に振った。
「お昼を取ってくるだけよ。光は飲み物欲しかったわよね。」
「う、うん。」
 おまかせ…とでも言う様に、彼女は指を振って遠ざかっていく。
光は、それを見送ってから慌てて風に視線を戻した。
「あのね、海ちゃんは悪気は無いと思うんだ。風ちゃん達の事心配して…。」
「ええ、わかっていますわ。」
 風は顔を上げると、慌てて笑顔を作った。



 ああ、何度同じ楽章を弾いているのだろう。練習室で、風は軽い苛立ちと共に、練習を中断した。
 普段は穏やかな色しか浮かべない、翡翠の瞳に影が落ちる。
今まで凪だった水面に、細波が立つ様に。

こんな事なかった…。

 確かに此処の指使いは難しいと感じる。今まで、弾いたことのない曲。でも、自分の集中力を全て持っていってしまっているものが、そんなことでは無いことを感じていた。
 白と黒で並べられた鍵盤の上は、まるでオセロのようだと思う。そして、それは自分の心だ。たったひとつ置かれただけの駒で、今までそこにあったものが全て変わっていくように感じる。 それも、自分の考えとか、信念とか言ったものをまるで無視して強制的に行われていく。
 一度置かれてしまえば、後戻りは出来ないし、待ったは無い。
 
『このままでは…。』

 そう考えて、風はキュッと形の良い唇を噛み締めた。

私は私でなくなってしまう。

『怖い…。』

確かにそう感じた。
 今まで、自分のしてきたこと、考えていた事の全てが否定されていくような気がした。そうして、その考えはこうやって、練習にすら身の入らない自分を思えば、その通りなのではないのだろうか…。
 しかし、風はふるっと首を横に振った。
それが例え本当だったとして、彼に何の責任があるというのだろうか、余りにも身勝手な考え方だと思い直すと、目の前の鍵盤い意識を戻した。もう一度、課題曲に向けて指を動かす。
 しかし集中しょうとすればするほど、考えまいと思えば思う程心は別のところへ飛んだ。
 笑う顔。深い声。仕草。
 会わないでいた事が、まるで引き金であったかのように、事象が浮かぶ。抑えられない。

 ガタン。

ふいに戸の開く音がして、風は慌ててそちらへ目を向けた。

「教授…。」
 そこに立っていたのは、初老の男性。彼も驚いたような顔で風の顔を凝視していた。
「鳳凰寺さんが使っていたのか…これは珍しいね。」
 暫くすると、髭に拳をあててくすりと微笑む。
えっと風は、再度教授の顔を見つめた。くしゃりと、紳士の顔に笑みが浮かんだ。
「…まず、部屋の個人ボードに名前が無かった。部屋の鍵を受け取るためにサインはしてあるんだろうけどね。そして、扉に鍵もかかってい無かった。僅かに、戸は開いていたんじゃないのかな?外から音が聞こえた。」
 両手で包み込むようにしていた風の頬が真っ赤に染まる。
几帳面な彼女らしくないミスの連発。
「あの、その…。」
 何か言おうとしていたが、風は何も言えずに俯いてしまう。
こんな事、今までなかった…。
 先程までの思いが、再び彼女を捕らえた。

私は私でなくなってしまう。

「ああ、いいんだよ。良くあることだ。君がするのは、まあ、珍しい部類だと思うがね。
 ところで、鳳凰寺君…さっきの弾いていた曲だけど…。」
 教授は、扉から部屋の中心に据えられているピアノの横に移動しながら、風にそう声を掛けた。
「は、はい今度の課題曲ですが…。何か?」
「ああ、知っているよ。尤も、選曲したのは私ではないんだがね。」
「はい。それが何か…。」
「いや…。」
 教授は顎の髭を手でいらいながら、微笑んでいる。
「弾いてみてくれないか?」
 風は、ぎょっとして目を見開いた。指使いもなっていない、なんとか曲を追うことが出来るそういう状態だ。
「あの、私まだ…。」
「テストをしようというんじゃないんだ。その…少し気になってね。」
 教授は笑みを崩さない。けれど、風は背中に冷たいものを感じた。何が気になると言うのだろう…。
この不細工な演奏が、私を受け持つということを考え直す材料にでもなるというのだろうか…。
 しかし、教授の申し出を断るいわれは無い。今日でなくても、いずれ彼の前で弾いてみせなければならないのだ。それも、完璧な状態で。
 微かに震えがくる指で、風は曲を弾きはじめた。

 何度も躓く、曲調が外れる。
弾いていく事が辛くなるほどの、演奏。
 こんな酷い演奏を他人に見せた事など今までなかった。
キュッと唇を噛み締める。椅子を蹴って、今直ぐ此処から逃げ出したいとさえ思う。
 ただ、この時間が早く過ぎ去ってさえ、くれればいいと願った。

「鳳凰寺さん。」
 自分に呼び掛ける教授の声で風は我に戻る。
どれほど、弾いたのだろうかと楽譜を見れば、ほんの少ししか進んではいない。
「ああ、悪かったね。もういいよ、鳳凰寺さん。」
 教授は、普段どうりの仕草で顎を撫でると、微笑んでいる。
変わらないはずの教授の様子が、今の風には恐ろしかった。

こんな酷い演奏から、彼は何を導き出したというのだろう。

「練習の邪魔をして悪かったね。」
 何かに納得したように上下に頭を振りながら部屋を出ていった教授に、それを問いかけることも出来ず風は、椅子に座ったまま動けなかった。胸が詰まった。声が出ない。
 じんと熱くなる目頭が情けない。

 再び戸口の方でした音に、風は顔を逸らし、目を手の甲で擦っる。教授が何か忘れ物でもしたのかもしれないと、顔を上げた風の瞳は、彼の姿を写し出した。
 全力疾走をしてきたように、荒い呼吸で、戸口に手を掛けて自分を見つめているフェリオの姿を、風はだた驚愕の瞳で見つめる。

「フウ…俺…。」
 何か話掛けようとした、フェリオの言葉を押し留めるように、風の瞳から涙が溢れた。

 どうして、こんな時に、貴方が来るのですか?
もっと早く来ていただけていたら、私は…。

「あなたじゃ…。」

 いつも、予告無しに急に現れて…。私の気持ちを掻き乱していく。

  「あなたじゃなければ…他の方なら、こんな…。こんな風にならないのに…。」
 絞り出す様な声が、風の唇から漏れると、両手で顔を覆ったままピアノの鍵盤に肘を置く。

 蒼白な顔を隠した白い手の平からぽたりと水滴が床に落ちる。
 立ち竦むフェリオの耳に、風の言葉が刺さった。

「…もう…来ないで…ください。」

〜fin/font>



content/ ver ferio