なんて無謀な恋をする人 震える手足が納まったのはどれ程の時間が経った後だろうか。 風は凭れていたベッドから顔を上げた。 最初に案内された部屋のゲストルームらしい一室。少々室内は狭くなったが、調度品の豪華さに差異は無かった。 やわらかな絨毯は、ずっと座り込んでいたにも係わらず風の脚を優しく包み、ありがちな圧迫感を感じる事はない。 イーグルという男と対峙していた時は、ピンと張りつめていた糸のような心が、ひとりになった途端、緩まった。 アルシオーネに殺されそうになって、イーグルに捕らわれて。まるで、ありきたりの冒険小説のようではないかと。 現実を見ているのに、心だけが何処か遠くにいるようなそんな感覚だったものが、ひとりになり。本当に自分は囚われの身なのだと認識した途端、もう立ってなどいられなかった。 小刻みに震える全身を両腕で抱き締めて、へたりと座り込む。頭の中は、真っ白になっていた。 これは恐怖なのだろうか? 生まれてこの方、感じた事のない感情が鳩尾の辺りから生まれ喉へと上がっていく。その為に息をすることすら苦しくなった。 涙が零れてこないのが不思議だったけれど、きっと感じる心そのものが麻痺しているような状態だったのだろう。 『フウ…!!』 ふいに、必死で自分の名を呼ぶ少年の姿が浮かぶ。 顔を歪ませ、名を絶叫していたフェリオの姿に、風は無意識のまま制服のポケットに手を入れた。 固い感覚を指先が捕らえ、そのまま持ち上げる。ツルリとした滑らかな肌触りと冷たさが、今の風には心地良かった。 両手で包み込むようにして頬にあてる。 再び、心がギュッと締め付けられる感覚に風は戸惑った。 この感情は恐怖ではない、それだけは断言出来た。ならば、と唇を噛みしめた。けれど、沸き上がってくる名前のない感情に何度も唇を噛み直す。 苦しいのに、思い浮かぶ彼の顔は何処か甘みを含んでいるのがわかった。 そうだ、あんなに必死に自分の名を呼んでくれたヒトを、私は知らない。 始めて、知った感情なのだ。 「フェリオ、さん…。」 助けを呼んだ訳ではない。ただ、唇をついて出たのがその名前だったというだけだった。 自然に、言葉を紡ぐのならばこの言葉だけしか許されていないかのように、フェリオの名を呼んだ。 怪我をしていた。敵対していると告げていたランティスやクレフが居たことも知っている。彼は一体どうなったのだろう。考え続けるほどに、風の思考はフェリオの事に占められていった。 先程の感情を浸食するように不安がじわりと増す。 「フェリオ…どうかご無事で。」 愛おしい姫君に賜ったというオーブに、風はフェリオの無事を祈る。 彼の元へ、戻りますようにと。そうして、自分が戻して差し上げる事が出来るようにと強く、強く祈りを込める。 『お前も無事、なんだな。』 え…? 途端に響く声に、思わず周囲を見回した。 それでも声の主の姿は見つからない。戸惑う視線は、吸い込まれるようにオーブへ向かう。 そうすれば、見計らった様で声が聞こえた。 『だから、無事なんだな?』 せっぱ詰まったような声に風はコクリと頷き、そうして相手には見えないのだと悟り慌てて返事をする。 「私は手荒な事は一切されておりません。アナタこそ大丈夫なのですか? それにオーブから声、がしているのですが、私これは姫から頂いた宝なのだとばかり思っておりました。」 『宝って…勘違いするな、コイツは、ただの通信道具に過ぎない。』 通信?携帯電話のようなものだろうか、小首を傾げる風の、何処かのんびりとした反応と違い、フェリオの声は酷く強張っていた。 『そこへ向かっているところだ、俺が行けばお前は解放される。 危険な事に巻き込んですまなかった…。』 「…! お待ちください。フェリオ!」 一方的な言い様に、言葉を重ねるものの、フェリオは応じるつもりはないようだった。 風だとて、こんな場所にいたい訳でない。試験も近いし何よりも、両親や姉が心配するだろう。けれど、彼の手伝いをすると断言しておきながら、もう関係ないと突き放すことを良しと出来ない。 「大いなる力を見せて下さるのでは無かったのですか!?」 『忘れてくれ。それがお前の為だ。』 プツンと切れた声と共に、固く閉じられていた扉が重い音を立てた。 風は反射的にオーブをポケットに仕舞うと、戸口に視線を向けた。 「出ろ。」 風を此処に閉じ込めた無愛想な男が顔を出し、ただ告げる。 フェリオが此処に来たのだと、風はそう確信する。 「入れと言ったり、出ろと言ったり、勝手ですわね。」 憤ったふりをして様子を伺うも、相手は無表情のまま。それでも、身体中から面倒くさいという雰囲気は漂って来る。 「そんな一方的な事、納得出来ません!」 「…納得して頂くわけにはいきませんか?」 クスクスと耳障りな嘲笑が聞こえて来て、風は大きく眉を歪める。扉にもたれ掛かったイーグルが満面の笑みを浮かべて風を見つめていた。 「貴方には何が起こったのか、わかっているでしょう?」 「何の事ですの?解りかねますわ。」 きっぱりと言い切り、風は視線をきつくする。 「そういう強さ、僕は嫌いじゃあないですよ。」 「でも、フェリオはどう思うでしょうね? 此処で貴女の身に悪い出来事が起こるなんて。」 「卑怯ですわね。」 しかし、イーグルはふるりと首を横に振った。 「いやいや、そもそも貴女には関係の無い事でしょう? レイアースのお嬢さん。」 文字通り違う世界の出来事だと、イーグルが告げる。 確かにその通りだ。 自分は受験に悩む普通の中学生であり、魔法だの秘宝だの陰謀だの、ネットか本の中でしか知ることもない話しだろう。 『忘れてくれ。それがお前の為だ。』 脳裏に、先程の声が甦る。 「わかりました。従いますわ。」 「彼を呼び寄せてくれた事には感謝してますよ。」 座り込んだままの風に差し出された手を一瞥し、彼女はすっと立ち上がった。 「気遣いは無用です。自分で歩けますから。」 ◆ ◆ ◆ ホテルの玄関に黒塗りの高級車が横付けされ、風が乗り込むのが見えた。 毅然とした態度で去る彼女の姿に苦笑が漏れる。 無事で良かったという気持ちと、そんなに強気に偉そうで、これからの人生どうなんだよという下世話な心配が(風なら平気だろうという気持ちがある上だ)入り混じっていた。 遠ざかっていく車が見えなくなってもフェリオの視線が動かない。イーグルはクスリと笑い、腰を落とし顔を覗き込んだ。 「ほらね、僕は可愛い女の子に手荒な真似はしませんよ。」 目つきを鋭くするフェリオにクスクスッと嗤う。 「…でも男には容赦しない。 なんてのも、冗談です。貴方も自由になって、彼女と再会したいのでしょう?早く終わらせる事です。」 元々、私達は同じモノを探しているではありませんか。 「見つかればきっとエメロードも喜びますよ。」 ◆ ◆ ◆ 校門に横付けされた黒塗りの車は、風を下ろし立ち去った。 こうして、現実に戻ってみれば、現実の問題が生まれるものだ。 午後の授業をふけた言い訳と試験故に図書館と自習室以外は施錠されているせいで取りに入れない鞄やコートに思いをはせながら、風は門に佇む人影ににこりと微笑んだ。 長身の黒いコートの男と、小柄な白いコートの彼には見覚えがある。 けれど彼等の前に立つ少女二人には覚えがない。 別々の制服を着た彼女達はその様子も全く違っていた。 長い髪を靡かせる少女は、すらりとした美しい肢体と顔立ち。 もう一人の少女は三つ編みにした長いお下げ髪をぴょんぴょんと揺らす、可愛らしい様相の少女。 美少女はクレフに、可愛いらしい彼女はランティスに寄り添うように立っていたが、スッと髪を指先で梳くと美少女は風に向かって歩き出す。 まるでモデルのような優雅なウォーキングは、風の前でピタリと止まった。 細い唇で弧を描き微笑む。 「貴方(碧の疾風)ね。」 「はい、貴方は(水の龍)さんで、あちらの方が(炎の矢)さんですわね?」 風の言葉を聞き、美少女はパチパチッと目を瞬かせた。 「どうしてわかったの?」 微笑みながら風は言葉を返す。 「セフィーロの方々がPCを自由に操れるというのは無理がありますわ。ですから、必ずこちらの方が協力していらっしゃると思っておりました。 けれど、名前を特定したのはお二人の印象です。あちらの方は髪が赤いので炎を、貴方は青く流れるような長い髪がとてもお綺麗ですわ。」 賛美の言葉に美少女が少しだけ頬を染めて、息を吐いた。 「流石に都内有数の進学校に在籍している人は違うわね。私は龍咲海、あの娘は獅堂光。」 「風ちゃん大丈夫だった?怪我してないか?」 軽い身のこなしで近づいて来た光は、風の顔を見ると酷く眉を歪めた。心の底から風を心配してくれている様子の光はとても可愛らしかったが、呼び名には少々面食らう。 それに気付いたらしい海もクスクスッと笑った。 「ちゃん付けね、最初は私も吃驚したわ。…というかくすぐったい感じ。」 (小学生以来ですわ)と風も笑い、そして、深々と頭を下げる。 「皆さんに大変ご心配をおかけ致しました。私はこの通り無事に戻って参りました。ですが、フェリオは私と交換でイーグルさんのところへいらっしゃったと思います。」 真っ直ぐに向けられた視線を受け、クレフは大きく溜息を吐く。 「…お前がそう気に病む必要はない。」 開口一番に掛けられた言葉は、風を驚かせた。 「私は…「我々と共闘する気があれば良かったが、フェリオは私達の言葉をなど受け入れる気がまるで無い。それでいてお前を開放させようとするなら、我が身と引換にする以外はあるまい。 寧ろ、迷惑を掛けているのはこちらの人間なのだ。」」 「私はクレフが迷惑だなんて思っちてないわよ!」 思わず、といった様子で声を張った海は赤面したまま唇を掌で覆う。 「ありがとうウミ、だがそれが事実だ。」 (いやいや、そもそも貴女には関係の無い事でしょう?レイアースのお嬢さん。) イーグルの言葉が甦り、風は反論しようとした口を噤む。 それが違うと思うのなら、確かにあの時否定すれば良かったのだ。受け入れ、フェリオを引換に残して去ったのは紛れもなく自分自身だ。 「忘れてくれと…あの方は仰いましたわ…。」 ギュッと握った拳が震える。 喉元まで競り上がってくる感情が苦くて、飲み込む事も吐き出す事も出来ずに言葉を途切れさせた。 「お前は忘れたいのか。」 ジッと見つめるだけだったランティスも声に、風は緩慢な動作で首を横に振った。 content/ next |