なんて無謀な恋をする人


「フェリオさん…!!」
 知らずに伸びた手が掴まれ、背後から羽交い締めにされた。背中に当たる豊かな感覚と甘い香りが女である事を風に伝えるものの、首を押さえつけられ息をするのもままならない。
 それでも自由にならない首を持ち上げれば、先程の女が覗き込んでいるのがわかる。美しいと表現して間違いないはずなのに、何処か毒々しい印象を受けた。
「…貴女は、どなたですか…?」
 体躯の差だけではない圧迫感に身体が動かせない。彼女は不機嫌そうに眉を歪めたが、風の質問に答える気持ちはないらしい。艶めいた赤い唇も眉と同じように歪んだ。
「やっぱり見えているようね。結界を張っているはずなのに、どういう事かしら?」
「ねぇ、アルシオーネどうでもいいじゃないかそんなこと。殺しちゃっていいんでしょ?」
 無邪気に告げる子供が差した指が自分に向けられ、風は息を飲んだ。
「そうね、どうでもいいわね。レイアースの人間の事なんて…。」
 そうだよと頷く子供にアルシオーネは赤い唇で弧を描く。
「アスコット、さっさと始末して頂戴。」
「そうこなくっちゃ!」
 弾む声で踏み出そうとしたアスコットの服をフェリオの手が掴む。
「やめろ…!」

「関係ないなら、そいつに手を出すな…!」
 
 けれど、アスコットは不思議そうな表情で小首を傾げる。
「変なフェリオ。関係ないから…殺しちゃうでしょ?」
「アスコット…!」
 フェリオの声に混じる懇願に気付き、アルシオーネの表情が険しさを増す。
「貴方は姫の願いよりも、この小娘を気に入ったとでも言うのかしら?」

 試してみようかしら?

 アルシオーネが掲げた右手。人差し指から伸びた長い爪が風の頬に当てられる。ひやりとした硬質な感触は、人間の皮膚というよりも猫の爪、もしくは完全な無機物に感じられた。鋭い光を放つ刃、喉元でも掻き切られれば即死だろうし、首の皮一枚で繋がっても愉快なはずはない。
「…っ…。」
 風の考えを裏付けるようにフェリオがギリと歯噛みをするのが聞こえた。
元々彼はピンチのようだったが、自分が来たことによって余計に追いつめられてしまたらしい。
 風はそこまで考え、フェリオさんと呼び掛けた。

「あ、あのですわ。
 本来でしたら、私の事など構わずにと申し上げるべきところなのでしょうが、生憎私も年若い身。まだ死にたくはありません。この矛盾、この気持ち、わかって頂けますわよね?」
 一息に捲し立てる風の様子に、一瞬アルシオーネもアスコットも毒気を抜かれたような表情を浮かべる。
 フェリオも無言で大きく顔を歪ませた。
「なので、フェリオさん。
 出来れば穏便に物事が進むように説得なさってくださいませ。セフィーロの流儀とでも申し上げるのでしょうか?」
 掴まれていない両手で身振り手振りで話をしていれば、へえと言葉にしたアスコットが風を見上げた。
「お姉ちゃん、死にたくないの?」
「ええ、こちらのおばさんよりもまだまだ若いものですから。青春を謳歌しようと考えております。」
 にこりと微笑む風と彼女を捕まえているアルシオーネに思わず視線を走らせ、アスコットはキャッキャと笑い出した。
「小娘…!」
 カッと頭に血が上ったアルシオーネの腕が拘束の力を失った瞬間、フェリオの両腕が風の腰に巻き付いた。まま横抱きして飛びのく。
 
「馬鹿っ…!何しに来た!」
 忘れ物を、と言いかけ風はオーブが入ったのと反対のポケットを探った。
取り出したハンカチで鼻血を拭う。
 ポタポタと地面に垂れていた染みは、風のペパーミントグリーンのハンカチを赤くする。幾つもの擦り傷が顔を覆い、腫れた瞼は痛々しい。
「貴方こそ、こんなに怪我をして。」
「俺の事はいい、お前が…!」
 風を見遣り、しかしフェリオはハッと顔を上げた。正面にアルシオーネの歪んだ笑みが迫っていた。大きく仰け反る胸元から得物を振り翳しているのがわかっても、避ける事が出来ない。

「馬鹿にするのも、いい加減にして頂戴ね、」

 くしゃりと笑う女は、フェリオの知らない顔をしていた。(駄目だ)思わず閉じた瞳は、刹那に開かれる。
 鼻先すれすれに置かれた長剣がアルシオーネの爪を防いでいた。斜めに振り上げ、彼女を遠ざけたたランティスが振り返らずに、声を発する。

「行け、」
「…礼は言わない!」
 躊躇い無く風の手を握って、フェリオは彼等の横をすり抜けた。先には、杖でアスコットを打ち据えているクレフの姿がある。更に先には、公園を出る道があった。
 とにかくこの場を離れる事が何より優先される。
何よりも彼女の、風の身の安全が。
 けれど、きつく掴んでいたはずの彼女の指先がするりと抜ける。
「!?」
 振り返ったフェリオの瞳は、驚愕に見開かれた。

「イーグル…!」

白銀の髪が、緩く宙に舞った。
 にこりと微笑む端正な顔が、逆に禍々しい長身の男が風の身体を捕らえている。愛しい恋人を抱くように両腕で彼女を腕の中に閉じ込め、笑う。
 声も出ない様子の少女の耳元に唇を近づければ、風は頬を紅潮させた。
 
「今はまだ騒ぎは困ると言ったでしょう? アルシオーネ、アスコット帰ります。」
 動きを止めてしまっているフェリオを一瞥し、あくまでも柔らかな声でふたりに呼び掛ける。しかし、顔色を変え、彼等はランティス、クレフから距離を取った。
 背を向けて歩き出すイーグルを反射的に追おうとしたフェリオの身体を、ランティスが押し留める。
 
「離せ、フウを…!!」
 視界から消えて行く男の背に、叫ぶフェリオにランティスは忌々しそうに舌打ちをする。
「落ち着け、あの男は、「煩い…!!フウがあいつに、…!!離せ、!!」」」
 狂った様に暴れるフェリオの首筋に指先があてられてば、ガクンと身体が弛緩する。意識を喪失したフェリオを見下ろし、クレフはその手を引いた。
 そして、大きく溜息をついた。
 
 ◆ ◆ ◆ 
 
「驚きましたわ、声すら出ないものですから。」
 喉元に指先をあてて、風は大きく息を吸い込む。
イーグルの腕に抱かれている間、身体が操り人形に変わってしまったかのように指先ひとつ動かす事が出来なかったのだ。
 怯えた様子も見せず、自分を拉致した男を見つめ替えず仕草にイーグルは目を丸くする。
「貴女はなかなか面白いお嬢さんですね。」
 唇に指先をあてながら、イーグルはクスクスッと邪気の無い笑みを浮かべた。そうして、彼は部屋の真ん中に設えられたソファーに風を誘う。
 風ですらお目に掛かった事のないような豪華な調度品を設えた応接室は、しかし目の前の男には相応しく見えた。
 スラリと長身の体躯、動作が優雅であるのは言うまでもないが顔立ちも申し分のない優雅さだ。
 風は空から降ってきた、子犬のような少年を思い浮かべた。
 丁寧な仕草で、風をエスコートし長椅子に腰掛けさせると、紅茶を差し出す。芳しい香りは鼻孔を擽った。
 躊躇う事なく、頂きますとカップを手にとる風を、向かい合わせのソファーに座ったイーグルが面白そうに眺める。

「なかなか、待遇も良いでしょう?」
「申し訳ありませんが、私、授業がございます。その上、今週末には試験が控えているのですから、此処に留まる事など出来ませんわ。」
「やれやれ、取り付く暇もありませんね。」
 困った顔で肩を竦めていても、イーグルの銀の瞳は少しも笑ってなどいない。風はちらりと視線を送ってから、部屋をぐるりと見回した。 
「イーグルさん、でしたわね。
 貴方はこちらの方ではないと伺いましたわ。こんなホテルにお泊まりになる金銭がおありだとも思えませんけれど?」
「ああ、そんな心配ですか?数字の書き換えひとつで終わりますよ。こちらの世界は、ある意味セフィーロよりも扱い易いかもしれませんね。」
 クスクスッとイーグルは嗤う姿に、風は大きく眉を歪めた。
「それは魔法のお力という事でしょうか?
 でしたら止めて頂きたいですわ、あるはずの無いものが基盤となってしまっては、こちらの経済が破綻致します。」
 風の言葉に、イーグルは目をパチパチッと瞬かせてへぇと声を出す。
「貴女は賢いようだ。でも、それが魔法なんですよ。無から有を作り出すのですから、無理が生じるのは当然だと思いませんか?」
「無理が通れば、通りが引っ込みますわね。」
「なんですか?それ。」
「こちらの国の諺です。」
 涼しい顔で応答する風をイーグルも楽しそうに眺めていたが、さてと声を上げた。
「おわかりだと思いますが、貴女は人質です。
 フェリオが来るまで少し不自由な思いをして頂かなければいけないので我慢してださいね。」


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