危険な兄貴4


 弓道場の横を通ると緊張すると言った友人がいた。何だか矢がビュンビュン飛んできそうな気がするらしい。

 そんなはずあるか。

 とフェリオは苦笑する。もしもそうなら、射手が相当の下手糞か、そこが合戦場だったはず。
 それでも一種の緊張感を伴って、フェリオはその場を通り過ぎようとした。
 中学時代に使用していた弓道の練習場。学校ではなく、近くの丘陵地に設えられた公共のものだ。公園の内部に作られてはいても、一応の危険は考慮されているのだろう。散歩コースからは外れた、早朝なら尚更に人が来ない場所にある。
 微妙な疎外感がフェリオの心を揺らしたのは、懐かしさを伴ったものか、輪から外れてしまった人間が感じる障壁のようなものからくるのかよく解らない。
 近道などしなければ良かった。
 後悔の念が浮かび、しかしふらふらと埒のない想いを振り切るように、フェリオは練習場を突っ切った。周囲に植えられた生垣を乗り越え、静まり返った朝の静寂を不作法に破る。
 芝を引いた矢道を真横に突っ切って降りると、学校への最短距離になるのを知っている。(勿論土足で歩いていいはずがない。)気持ちとは別に、中学時代からの馴れた道をついつい身体が選んでしまっていた。
 矢道に沿って作られた矢取り道から中へ踏み込んだ途端、射場から鋭い声が発せられた。

「どなたです!?」

 しまった人がいたのかと顔を向けたフェリオは、両手を上げた降参のポーズを取りながら固まった。
 袴姿の風が、安土に向かって矢を射る格好で立っている。
 勿論矢尻は、的と彼女の間にいる自分へと真っ直ぐに向けられていた。後ろへと引いた腕は、絞った弓を掴んでいる。彼女が少しでも腕を緩めれば、自分の額を射抜き、漫画のような有様になるだろう。
「ちょ、ちょっと待った…降参!!!」
「え…フェリ、オさん…?」
 何度か目を瞬かせて、風はゆっくりと弓を降ろす。同時にフェリオも胸を撫で下ろした。

 ◆ ◆ ◆

「何をなさっていらっしゃるのですか、当たれば怪我ではすみませんでしたわ。」
「…すまない。誰もいないと思ってた。」
 後頭部を掻きながら苦笑いをするフェリオに、風は少し頬を膨らませた。
  優等生として毅然とした態度をとる事の多い風の子供っぽい仕草はとても可愛らしい。
「いつもお通りになっていらっしゃいますの?」
 呆れた表情で息を吐き、手際よく用具と服をスポーツバッグに片付けていく。フェリオは風の仕草を目で追いながら、身振り手振りを交えて会話を続けた。
「だから、此処は馴れた道で、えっと、そこから降りると正門への近道になるんだ。」
「え、でも道なんて…崖のようになっておりますでしょう?」
「そうそう、こう、ザザッと壁面を滑り降りて…だな。」
 目を瞬かせる風にサーフィンをするような格好をしてみせると、彼女は本気で呆れた様子だった。
 パタンと大きな音を響かせて閉じたバッグを肩に掛けて立ち上がる。スカートの裾を手で直してからフェリオに顔を向けた。眼鏡越しの翡翠が険を帯びているから、風は確かに怒っているようだった。
「危険ですわ。先程だって、私、那須与一になってしまうかと思いましたもの。」
「う〜ん無茶ばかりする、とはよく姉には怒られる。」
 ははっと軽く笑うフェリオに、風は眉を顰めた。
 お近づきになりたい彼女を怒らせて仕舞う必要など無かったのだけれど、怒る表情すら可愛らしくてフェリオは軽口を続けてしまった。
 けれど、彼女が怒っているのはフェリオを心配しての事だったと気付いたのは、風が鼻梁の傷を示した時だった。

「もう危ない事はお止め下さい。お顔の怪我もそうやっておつけになったものなのでしょう?」

 眉を歪めた顔を向けられて、フェリオは一瞬呼吸を止める。
 それから、慌てて顔を背けた。ドギマギと心臓が不整脈を打っているのを気付かれなかっただろうか? 斜めに伺う彼女の横顔は本当に悲しそうな表情をしている。
 相当に心配を掛けていると思うと益々告げる事が出来なくなった。

だが、しかし

 鼻に傷をつけた理由がそもそも話せないのだ。
 幼い頃、親戚の犬に躾と称して辛子を食べさせた。
 名誉の為に言っておくが、悪戯のつもりはまるで無い。拾い食いをしないようにという、犬にとってはありがた迷惑だろう心遣いのつもりだった。
 まぁ理由はともかく、そんなものを喰わされた犬は非常に驚き、ついでに暴れ回り、フェリオは名誉の負傷を負う羽目になった。
 親戚にも家族にもケチョンケチョンに怒られ(当たり前だろう)、おまけに顔のど真ん中に(犬に粛正された)大きな傷が残ってしまった。
 目立つからよく理由を尋ねられるのだが、ちょっとお茶目な理由に話せた試しがない。
 幼なじみの女の子を庇っただの、魔物に立ち向かってつけられただの。そんなご立派なものならば、武勇伝の様に言えるのにと何度思った事だろう。
(でも結果的に黙ってしまうので、とんでもない過去があるのだろうと皆が勝手に推測してくれている…益々本当の事が言えないじゃないか!)
 男の顔に残る過去は、もう少しハードであるべきだった。風だって、そういう武勇伝を思い浮かべているに違いないだろう。

 無茶をした…といえばそうかもしれないけど。ど真面目な顔をして好きな女の子に告げられる理由には成り得なかった。

 羞恥に顔が赤くなるのがわかって、フェリオは誤魔化すように声を張った。
「平気、平気。馴染んだ場所なんだよ此処は。
 風は知らないかもしれないけど、俺中学時代に弓道部だったから、此処よく利用してたんだ。ほら、中学校も近いから常連的に近道っていうか。」
 ははは〜と軽い笑う。同調してくれるかと思いきや、風の返事は静かなものだった。
「申し訳ありません。存じておりました。」
 風の言葉に、俺はもう一度目をぱちくりさせる羽目に陥った。
「昨年、春の県大会でお姿を拝見して。ご立派な成績を残していらっしゃいましたから覚えております。」
 はにかむ表情を浮かべる風に、どくんと胸が高鳴った。けれど、彼女は直ぐに顔を曇らせる。
「高校でお見かけした時に、続けていらっしゃるとばかり思っておりましたので、お辞めになったと伺って…随分残念ですわ。」
「うん。」
 お前が残念がる必要はないんだよ。俺の勝手なんだ。
 今度は静かになったフェリオに、風はハッと口元を抑えると小さく頭を下げる。
「申し訳ありません。色々事情がおありになるでしょうに、差し出たことを申し上げてしまいました。」
「気にすんな、辞めたのは確かに俺の個人的な理由なんだから。お前がそんな顔する必要ない。」
 努めて笑顔を作って風を見つめ返す。彼女はふるりと首を横に振った。
「弓をお嫌いになっていらっしゃらないなら、それでいいですわ。」
「…嫌いじゃないよ。多分。」
 フェリオは笑みを維持しようと唇に力を込める。上手く出来たかどうかは、酷くおぼつかない気分だった。

 ◆ ◆ ◆

 朝から調子が悪い一日は、何となく調子の悪い一日になる。
うすらぼんやりで授業に向かえば指名され、クラスの爆笑を浴びる羽目に陥った。なんだかんだで用事を言いつけられた昼休みは、空腹のままで5時限目に突入し眼が霞む。そのまま掃除をすれば、バケツに足を突っ込んだ。

「…フェリオ…。」

 俺を呼ぶアスコットの声すら悲しげだ。
「何かあったの?」
 制服のズボンを体操服に着替えて戻れば、アスコットの開口はそんな台詞だった。
「いや。」
「でも。」
「何も無い。」
「けど。」
「普通だ。」
「やっぱり、シスコ…「拗らせてない!」」
 最後の一言をキッパリと言い切っても、アスコットの表情は晴れなかった。
「でも、やっぱり今日のフェリオは変よね。」
 ひょいとアスコットの脇に指を絡めて顔を出した海が、瞳をキラリと光らせた。密着している海に湯気を出したアスコットは停止する。
「で、ここで報告。」
 すんなりと伸ばした人差し指をフェリオの鼻先に突きつける。そのまま横にスライドさせるので、つい視線を追っていく。
 行き着いた先は、風の姿だった。驚いた様子で眼を見開いている。
「風もね、今朝から様子が変なのよね。」

 ねえ、心当たり無い? 

 片方の瞳だけを眇める仕草でのぞき込まれれば、パッと視線を逸らした。風も同じ仕草をしたのに気付いたのはすぐ後、ニヤニヤと笑う海の表情に気付いてからだ。
「知る訳ねえだろ。そうだよな、風」
「ええ。」
 余裕を欠いた風が俯きながら返事をする。
(そんな事ありませんわ)と告げながら合った視線にフェリオは気まずさが隠せない。自然に逸れる顔を海が見逃すはずがない。
「怪しいわね。」
「いい加減にしとけよ、アスコットが固まってるぞ。」
 更なる追求がくる前に海の関心を反らす。当然嘘など言ってない。
海の掴んだ腕から上、首筋まで真っ赤になって硬直しているアスコットを見て海は目を丸くした。
「え?やだ、どうしたの?」
「う、ううん。何でもないんだ。」 
 上擦った声が、何でもなく無いけれど、フェリオは助け船を出すゆとりが無い。
熱でもあるんじゃないの?と首をかしげる海に、確かに、アスコットはお前にお熱だよ(親父ギャグも甚だしい)なんて思っていれば、ふいに着信音が鳴り出した。


〜To Be Continued



content/