危険な兄貴3


 終業のチャイムと共に、廊下に出たフェリオを呼び止める声。ああ、またかと思いつつ振り返えれば、思った通りの人物だった。
 
「考えてくれたか?」
「期待してくださるのは有り難いんですが…。」
「そうか。」
 
 簡単なやりとりだけど、相手が落胆しているのが手に取る様にわかるから少しだけ申し訳ない気分になる。
「気が変わったら、いつでも来てくれ。歓迎する。」
 それでも笑顔を絶やさず、爽やかに立ち去る相手には尊敬の念を感じずにはいられなかった。何度無下に断った事だろう。自身に未練が有る分だけ後ろめたさは倍増した。
「…あれ、弓道部の部長だよね?」
 通りかかったアスコットが声を潜めて話し掛けて来た。そんなに寂しそうな顔をしていただろうかとフェリオは思い、敢えて笑みを浮かべてみせる。
「部活入らないの?」
「仕方ないだろ、中学ならまだしも高校ではそんな余裕ないんだから。」
 奨学金で通っている身としては、成績を下げる事などもってのほかだ。
 それでも、付き合いの長いアスコットは俺の気持ちを察するのだろう。小さな声で言葉を続ける。
「でも、勿体ないよ。全国大会まで出るレベルなのに…。」
「中学では、だろ?高校になれば、もっと強い奴はいっぱいいるぜ。」
 未練は振り切るに限る。エメロードが結婚するなら本気で一人暮らしも考えなければならないし(勿論反対されてるけど)、そうなればアルバイトは必死。どう考えても部活をしている時間なんて皆無だ。
 それに…。
「やべ、こんな時間じゃないか。タイムバーゲン始まっちまう! じゃあな、アスコット。」
「うん、また明日。」
 苦笑したアスコットが手を振る後ろから、仲良し女子(海と光と風)が歩いてくるのが見えた。
 (海がいるぞ)と、動作で教えてフェリオは、その場を後にする。なにやら、話し掛けられたアスコットが声を上擦らせているようだったが、頑張れよという声援は心の中だけに留めて置く。
 何しろ、これから時間を争うタイムバーゲンなのだ。 
 
 ◆ ◆ ◆
 
 数時間後、フェリオはすっかりと顔馴染みになった主婦の方々との戦闘(?)を終え、戦利品を片手にストアのドアを潜っていた。
 実は級友達がエメロードが作っていると信じて疑わない弁当は、フェリオの手作り。姉の分も華麗にこなす厨房男子だ。
どしうしてまたと聞かれれば、自分の口は自分で養わないと空腹だっただけの話だけど、自分で作るなら材料にも拘りたいと思うのは、嫌いじゃないからだ。

 威勢のいい店員の声に背を押されて、フェリオは正面の開きっぱなしの自動ドアから外へ出る。活気溢れる店内は安いが品も良い事の証明なのだろう。まだまだ客足は遠のきそうにも無い。
 そうして、お釣りを握りしめたまま出て来た事に気付いた。レジの周辺も混む時間帯だからだけれど、いざ仕舞おうとすれば、両手に荷物が邪魔で上手くいかない。
 通りがかった自転車を避けた拍子に、5円玉が転がった。

 5円あれば、特売のもやしだって買えるのだ!

 慌てて、手を伸ばすも奴は丸い!もたついている間に距離を開けられた。
 けれど、側溝に落ちる寸で、横から伸びてきた指が5円玉をすくい上げた。脚元から視線を上げて、フェリオはうっと息を飲む。
 亜麻色の巻き髪がふんわりと揺れる。
しゃがみ込んだ膝がすっと上がり、綺麗な仕草でスカートの裾を抑える。

 そこにいたのは、級友の鳳凰寺風だった。
 
 俺は、負けず嫌いだ。たとえエコバッグであろうとも(学校一)似合う男だという自負があった。…あったが、気になる娘に見つかったのには流石に赤面した。

「夕餉のお買物ですか?」

 にこりと微笑んで、風は5円玉を渡してくれる。
 どこから見られていたのかわからないけれど、財布に小銭が入っているなんて随分生活感溢れていると思われた事だろう。フェリオは羞恥に赤くなった顔を見せたくなくて、ついつい目を反らしてしまう。
「サンキュ…、お前は?」
「塾が終わりましたので、帰宅するところですわ。でも、」
 風はクスリと笑って手を差し出した。
 白くて綺麗な掌だなぁ、なんて妙な感心をして見つめてしまう。そんなフェリオの様子を風は遠慮ととったようだ。
「随分重そうですのね、お手伝い致しましょうか?」
「え、!? いや、いいよ。重いし。」
 慌てて首を横に振ると、何が可笑しかったのかクスクスと笑う。
「では、鞄の方をお持ち致しますわ。財布お仕舞いになった方がいいと思いますし。」
 エコバックと学生鞄を片腕にぶら下げ、小銭と財布を握りしめているのだと気が付いて、それはもう顔から火が出そうになる。
 感謝の言葉もそこそこに、風の好意に甘えて鞄を預けて財布にお釣りをしまうと買い物袋を持ち直す。今度は風に手を差し出した。
「ごめん、助かった。」
「どういたしまして。あ、少しお待ちいただけますか?」
 風は鞄を戻すと、くるりと身を翻して自動ドアを潜っていった。待つという程の時間でもなく、風は小走りに戻って来た。手にはこのストアのオリジナル商品である紙パックのジュースを持っていた。
「少し休憩しようと思っていたんです。奢りますから、ご一緒して頂けませんか?」
 風はそう言ってくれたけれど、俺を気遣ってくれているのは丸分かりだ。ストアで戦闘を繰り広げたせいで(いやただのバーゲンだけど)額に汗が滲んでいるし、制服はしわくちゃなはずだ。
 それに、値段が高いと遠慮すると配慮して、安いものにしてくれているのが心憎い。
 心遣いってこうだよな、とフェリオは自分の若輩加減を認識した。

 近所の公園で、ベンチに腰掛け夕日を眺める。並んだ肩がくすぐったいくて複雑な気分だ。
 たわいもない話をすれば、クスクスと風が笑う。
可愛いなあと思って眺めていれば、ふいに頬を赤くした。俺は慌ててストローの先に救いを求める。
 
「私の顔に何かついてますか?」

 困った表情でそう問われ、キスしたくなりました。とも言えずに、フェリオも頬を赤くして黙り込む。
 沈黙しか残らなかったけれど、それはちっとも居心地の悪さを感じ無かった。
「…今度は、俺が奢るから一緒に飲んでくれるか?」
 ぼそぼそと呟いた言葉に、風はこくりと頷いてくれた。

 ◆ ◆ ◆

 帰宅途中は、雲の上だった。けれど、ふわふわの俺の気持ちを裏切るように、家の台所は真っ暗だ。
 鍵は掛かっていないのに、と蛍光灯のスイッチを入れれば、ふたり掛けのダイニングテーブルにエメロードが腰掛けているのがわかった。
 ちょっと、心臓に悪いぞ…。

「どうしたんだ、姉貴…!?」

 冷蔵庫に戦利品を収めるべく彼女の前を移動する。途端、俯いていたエメロードが脇腹に飛び掛かった。
 ぐえという無様な叫び声を上げるも、姉の顔が泣き顔だった事で息を飲んだ。
「フェリオ。」
「な、何?」
 碧眼を涙で潤ませた姉は、いきなり眉尻を上げる。
「私、ザガートと結婚なんかしないわ!」

 なんですと!?

 あんぐりと開いた弟の口に意識を取られる事なく、エメロードは早口に捲し立てた。
 少々興奮気味な事と、勢いが良すぎる為に意味がいまひとつ聞き取れないが、どうやら(ザガートと結婚するのはやめる)(あんな人だとは思わなかった)という意味の言葉を繰り返しているようだった。
 
「け、喧嘩でもしたのか?」
 フェリオは両手で買い物袋を持ち上げたまま、自分にしがみつく姉に声を掛ける。出来れば自由にして欲しい。でないと、食材が痛むだろう。
 しかし、フェリオの願いも虚しく、姉はくしゃりと顔を歪めて腕の力を強めた。

「私、一生独身でいるからいいの!!!」

 いいわけないだろう!?

 己の胴体を抱き締めてわんわん泣く姉に困惑していると、唐突に携帯が鳴りだした。画面に表示されたのは、見たこともない番号。
 それでもフェリオにはある種の予感があった。躊躇う事なく受信を押す。

『家にいるか?』

 聞こえてきた声はランティスのもので(ザガートも良く似てるけど、愛想加減が全く違う)、もうどうでもいいやと思う。
 なんでコイツが俺の携帯番号を知っているのかなんて、追求する気もわかなかった。
「…エメロードが一生独身とか言ってるけど、アンタ心当たりがあるか?」
『ザガートは俺の横で、死んでお詫びと言っている。』
 間髪入れずに返った答えに、フェリオは目眩を覚えた。
「一体何が起こってるんだ?」
 辛うじて告げた言葉に、ランティスはただ沈黙した。

 ◆ ◆ ◆

 ランティスからの呼出を喰らった場所は、ふわふわな想い出が確固たる現実であった場所だった。
 それでも、同じベンチに腰掛けていると、風の甘い面影がランティスの仏頂面で真っ黒に塗り潰されるのではないか危惧したくなる。薄暗い公園で、愛想も糞もない横顔を見ていると、風とのひとときは遠い彼方の出来事のように感じられた。
 此処で沈黙していればいるほどに、その恐怖は強まった。

「…えと、ザガートさんは浮気でもしたのか?」

 フェリオは恐怖をうち払うべく、結婚をぶち壊す(世間での)最大の要因を口にした。けれど、ランティスは首を横に向けたまま、顔を凝視している。
「な、なんだよ。」
「兄さん…。」
 ポツリと呟く言葉には目を剥いた。
 だから、その行事自体が危うくなってんだろ!!!と叫びたくなったが、絶対にこちらの異議を受け付けないだろう男に、辛うじて言葉を飲み込む。
「…ザガート、義兄さんは、浮気をしたのか?」
 口にしてみると、妙に生々しくて気分が凹む。ああ、ふわふわの夢が一気にどろどろになった気がした。俺は絶対浮気なんかするもんかと、心に誓う。
「浮気はしていないが、信頼を裏切る行為をしたそうだ。」
 ランティスの具体性に欠ける説明からは、事実が見えて来ない。
「お前はそれで納得したのか?」
 問い掛けるとふるりと首を振る。しかし、要領を得ないのだとランティスは付け加えた。
「恋愛事はよくわからない。お前に任せる。」

 ちょっと待て。大人が雁首揃えて、一番年下に任せると来たか!?
そもそも、俺よりも遥にいい男で(畜生)相手に不自由なさそうな奴が、恋愛事がわからないとはどういう事だ?
 それって、まさか女がって意味じゃ…。
 フェリオは口に出しはしなかったけれど、ハッと青褪めた事で気付いたのだろう。目が探るように眇められ、薄く笑った表情が怖い。
「無用な想像だな。」
「……二度と言いません。」
 言ってないけど、迫力に負けてつい謝ってしまった。
「欲しいと思った女はいない。向こうから近付いてきた奴は、大概こんなはずじゃないと言って逃げた。」
 だろうな…。思ってしまって、フェリオは口を抑える。
喋ってない。けれど、ランティスにはわかったようだった。
「お前は本当に正直だな。」
 呆れたようにランティスに言われ、赤面する。
 感情がすぐ表面に出てきてしまう性格なのは自覚している。それが原因で困った事だって何度もあった。
 直さなければとは思っている。結婚するだろうエメロードの為にも、もっと大人にならなければいけないとわかってる。変わらなければならない、そう知っている。
 でも…。
 ふいに浮かんだのが、部活の事だったなんて弱っちいにも程がある。
 
「…随分と面白い。そのままでいろ。」

 けれど、咎める訳でもなくランティスはそう告げて笑った。
玩具扱いかとも思ったけれど、追求するのも莫迦らしい。コイツが良いっていったら、揶揄や当て擦りなんてなくて、ままの意味なんだろう。
「アンタ、夕食は?」
 聞いてやるとまだと答える。エメロードは泣き疲れて、自室(と言っても2DKアパートだけど)に籠もってしまったので、食材が一人分余っている。餌付けしてみようかと思ったのは、ほんの気まぐれだった。

「じゃあ、飯喰いに来ないか?」

 フェリオの誘い文句に、ランティスはあっさりと頷いた。

 ◆ ◆ ◆

 大型の洋犬を拾った。

 ランティスを家に上げれば、部屋が酷く狭くなったように思える。
こいつ(等)日本家屋に適したサイズじゃない。鴨居を潜る様子は物珍しく、ついつい視線が向かってしまう。 あ、天井も低いなぁ。
 器用に潜っている所を見れば、こういう事態は慣れっこなんだろう。
 一体あの兄弟がどんな部屋に住んでいるのだろかと、首を捻る。
 ベッドだって何だって、スタンダードじゃ絶対無理だ。見る機会がこの先訪れるかどうかわからないが、興味が湧いた。
 だって、玄関に置いてあるあいつの革靴、尋常な大きさじゃないぞ。絶対特注だ。

 そうして食事が出来るまで待ってろと言うと、大人しく椅子に座ってじっとしていた。吼えないし、そうまるで躾の行き届いた犬。
 (待て)が出来るなら、(お手)はどうだろう…。
 奴の前に料理を並べながら、そんな事を考えていみると、なんだか可笑しい。
 ヨシと言ってやれば、両手を合わせてる。(いただきます)こそ言わないけれど、箸使いも含め、本気で躾の良い犬に見えきた。今までのイメージからかけ離れていたせいか、フェリオは料理ではなくランティスを凝視してしまう。
 けれど、躾の良い犬に見えたのは此処までで、食の進まないフェリオに気付くと(何だ勿体ないな)と呟いて、ガツガツと食べ始めた。
 コイツ、単に腹が減って大人しくなってただけだ!と気が付いた頃には、皿の料理は跡形もなく消え去っていた。

 一生の不覚。一人分ずつ取り分けるべきだった!!!

 相手が躾が行き届いた大型犬ではなく、冬眠を前にした羆だったのだと気付いたところで後の祭り。静かに箸を置く様子が白々しい。
 文句のひとつでも言ってやるつもりで立ち上がったところで、差し向かいの扉が開く。
 二つ並んだ扉は、姉弟のそれぞれの部屋として使っている。其処から顔を出した姉は指先で、目の端を擦りながら気怠い動作で、いままでフェリオが座っていた席に着いた。
 クスンと鼻を鳴らして、エメロードが顔を上げれば、泣き濡れて赤い瞳が痛々しい。
 俺は、姉のこういう姿に酷く弱い。
 
「いっぱい泣いたら、お腹すいちゃった。」

 正面にランティスが座っているのを気にする事なく、そう告げる。
「良い匂いしてくるから、目が覚めちゃったの。」
「姉貴はいらないかと思って、其奴に喰わせちまったぞ。」
 フェリオの言葉に初めてランティスがいる事に気付いた様で、あらと声を漏らした。それでも、気にした様子は無い。
「普通には食べられないからいいわ。でも、甘いものが食べたいの。」
 チラリと上目使いのエメロードは、少しだけ元気になったようでホッとする。何だかんだ言ったところで心配だったのだ。二人きりの家族だ、当然だろうとフェリオは思う。
 だから安堵した分だけ、軽口になった。
「……こんな時間に喰ったら太るぞ。」
 溜息と一緒に告げてやると、意地悪と返ってきた。
「甘い飲み物入れてやるから、それで我慢しろ。」
「違うの、アレが食べたいの。」
 言い出したのは、コンビニに売ってる季節限定のデザート名だ。確かチョコと生クリームがフルーツにたっぷりかかった超高カロリーっぽいお菓子。
「太るぞ。」
「いいもん。もうウェディングドレスなんか着ないんだから。」
 (ふぅんだ)と唇を尖らす様子は、駄々っ子そのもので、フェリオは大きく溜息をついた。
 半ば諦めが入りかけたフェリオに、更なる声が追い打ちを掛ける。
「俺は限定の珈琲だ。」

 はぁ?誰がお前の注文なんぞ、聞いとるか!?

 当然の様な顔でえらそうに告げるランティスに、頭痛がした。どうしてそんなに自信満々なんだ、お前は。
「あ、私も欲しい。美味しいのよね、あそこの珈琲。
 フェリオも一緒飲みましょうよ。三人分買って来て。そうそう、貴方の好きなモノも何か買って来てくれていいから。」
 既に買う前提で進む話しに目眩がした。当然のように俺が行くことになっている。ああ、そうですかとツッコミを入れる気力すら萎えた。諦めて、上着と財布を手にして玄関へ向かう。
 それでも黙っているのも癪に障るから、ドアノブに手を掛けたまま振り返った。
「後で金は出せよ、エメロードも。あんたもだ!」
 指を差すと露骨に嫌な顔をする。客だから奢りが当たり前とか、まさか思っていないよな!?
「…仕方無いな。」

 仕方無くない…!!!!!

 会話することにすら疲労を感じて、フェリオはトボトボと玄関を後にした。

 ◆ ◆ ◆

 パタンと力無く閉じたドアを見送って、ランティスはエメロードを振り返る。
バイバイと手を振る彼女は、笑っていた。
「いいのか、弟をこき使って。」
「フェリオは優しいの。」
 (大丈夫)とエメロードは微笑む。そして(美味しいでしょう?)とランティスに問い掛けた。置かれた皿を見遣れば、返事などわかったようなものだったけれど、エメロードの問い掛けに、ランティスは敢えて頷いた。
 うふふと笑い、でしょうとエメロードは続けた。
「あのね、私達の両親が亡くなった時、私は大学受験を控えてたの。
 でも、あの子と二人だけになっちゃったし、何より精神的に不安定で勉強なんて全然駄目だった。ただ毎日机に向かってるだけだったわ。」
 進学は諦めようとも考えていた、とエメロードは言葉を続ける。
「そしたらある夜に、フェリオが夜食を作ってくれたの。」
 机に膝をついた両手に、ちょこんと顎を乗せエメロードは瞼を落とす。ゆるりと弧を描く唇は、柔らかな微笑みを乗せていた。
「母が私に作ってくれてたのを見て覚えていたのね。
 でも、本当に小さい時だったから持ってきたホットケーキは真っ黒でそれはそれは酷い味だったはずなんだけど、私泣きながら食べたから、ショッパイ味しかしなかったわ。
 だってそうでしょう?
 私の方が幼いあの子を気遣ってあげなくちゃいけないのに、情けないったらなかった。頑張らなくちゃって思ったわ。」
「そして、大学でザガートに逢ったのか。」
「頑張った甲斐、はあったと思うの。でもフェリオのお陰ね。」
 瞳を細めるエメロードに、ランティスも表情を緩めた。
 (だから、自慢の弟なのよ。)
「料理だって、今では私より上手よ。お弁当はフェリオが作っているんですもの。」
 しかし彼女の話に、ランティスは一瞬目を見開いた。その沈黙を待っていたように彼の携帯が着信を告げる。
 チラリと画面を眺めてから、着信ボタンを押す。

「ああ、ザガート。今、飯を食っていたところだ。迎えに来てくれ。」
  
 ◆ ◆ ◆

 別段寒い訳じゃない。陽気は春のうららだったし、きっちり上着だって羽織っているのだ。
 強いて言うなら、心と懐が寒い。
 仕方無いのはわかっていても、どうして俺が(わざわざ)買い出しに出てやらなければならないのだ。エメロードならまだしも、何故アイツにと思うと納得出来ない。
 俺が出来るせいぜいの抵抗は、自分用の菓子を幾つも買って帰る事だったけれど、これもリスクが無い訳じゃない。
 アイツが払わないと言ったら、(俺の奢り)と言う恐ろしい未来が待っているのだ。あまりの恐怖にフェリオは思わず身震いをする。
 …意地になって買いすぎたかもしれない…。
 そろそろと後悔がフェリオの頭を重くしてきた頃、アパートが見えてくる。部屋の窓が明々としているのを見ると、ほっこりと嬉しくなる自分には呆れた。
 
 まあ、いいか…。

 存外自分は単純なんだと思う。首を竦めてクスリと笑った。
 少しだけ足取りが軽くなったけれど、そう言えば今日はほのぼのとした気分が訪れると荒んだ出来事がやってくる日ではなかっただろうか?
 不吉な思いが脳裏に浮かんだ途端、ドンと扉を閉める音が路上に響いた。つられて振り返ったフェリオは、こちらに突進してくる人影に目を丸くする。
 彼は、長い髪を振り乱し自分の名を呼んだ。

「フェリオくん!!」

  彼の背後には、路上に置きさられたミニクーパーが、運転席側のドアを全開にして健気に暖機運転を続けていた。ボボボッと鳴くエンジン音が不満そうに聞こえた。
 
「ザガートさ…ん??」
 走り込んで来たかと思えば、急に立ち止まり慣性の法則で後方に倒れ込みそうになって踏み止まる。そして、両手を掴まれまま包み込む様にして、膝を付かれた。
 事態を飲み込め無いフェリオが目を白黒している間に、頭を垂れたかと思う男は再び勢い良く顔を上げた。
 
「申し訳ない、この間は偉そうな事を言って於いて、エメロードを涙させるなど私は万死に値する!」

 は、万死?…!?

「えと、そんなに思い詰めなくてもいいんじゃないか、と…俺…。」
 きっとたわいない痴話喧嘩だと踏んで、そろそろと手を引き抜こうとすれば、反対にガッシリ掴まれた。
「ありがとう、君もエメロードと同じで優しいんだね。」
 結構思いこみの激しいタイプなのだろうか。でも、そういうところは、姉と相性が抜群かもしれない。フェリオは妙に納得し、ここは、落ち着いてゆっくりと話しを聞くべきだろう思い直した。
 常に一人で納得して、鼻息を荒くする姉の存在が目の前の男にだぶる。
「姉はどうして怒ったんですか?」
「彼女が折角作ってくれた昼食について、私がいらない感想を告げてしまったのだ。」
 昼…?それって、差し入れの弁当だろうか。そう言えば、今日は珍しく姉が作ってくれたけど。
「普段彼女が食べているものと味が異なっていたものだから、それをつい…。
 どんなものでも、エメロードが作ってくれたの食事に不満はなかったのだけれど。私の不用意な一言が彼女を傷つけてしまった。」
 
 …え、と…それって…。

 点と点が線で繋がった予感に顔を歪めたフェリオは、駆けて寄ってきた姉を見つけて息を吐いた。そして、ザガート越しに声を発する。

「姉貴は俺の作った弁当を、自分が作ったと偽ってサガートさんに喰わせてたのか!」
「失礼ね!私が作ったなんて一言も言ってないわよ!」
 顔を真っ赤にして声を発してきた姉に、どうやら誤解も解けたようだと気が付いた。後ろからランティスが歩いて来たから、あちらの話しを聞いてくれたのはアイツなのだろうとわかる。

「今日作ったお弁当は正真正銘、私が作ったんだからね!」
 
 ザガートに向けて放っただろう姉の言葉に、彼はやっと納得した表情で俺を解放して、姉を抱き締めた。
「それでも、君を傷つけた事にかわりはないだろう?」
「だって、ザガートがたまたまあげたおかずの味を覚えているなんて思ってもいなかったのよ。」
「エメロードから貰ったモノの味を、私が忘れるはずないだろう。君から貰ったものは全て覚えているよ。」
「ザガート…。酷い事を言った私を許してくれる?」
「私は許したいんじゃない、愛してるよエメロード。」
 そうして、態度を豹変させ、らぶらぶになったカップルは、迷惑を掛けたと謝ったのちに、ピンク色のオーラを振りまきながら、深夜のドライブへと愛を確かめる為に旅立って行った。

 そうしてふたり取り残される。

 フェリオは歩道と車道を隔てるガードに腰掛けた。ランティスもそれに習ったので、コンビニ袋を漁り、相手に珈琲を渡してやった。
 自分も買ってきた炭酸飲料に口をつける。そして、溜息を付く。

「…普通気付かないか、あれくらい…。」
 ぽつんと呟いたフェリオに、ランティスは首を横に振る。
「ザガートは、優しいがぼんやりだ。
 大学時代、俺でもわかるほどに猛アピールをしていた女がいたが、アイツは全く気付いていなかった。通常から普通に優しいので当然相手は誤解し、最後は修羅場になった。
 それでもアイツは気付かなかった。」
「…それは大変だったな…。」
 さっきの様子を見ていれば、巻き込まれたんだろう出来事が簡単に想像が付き、フェリオは心底気の毒にという表情で隣りの男を見る。
 そして、もう一口飲み込んでから思い出した事をランティスに話してやった。
「エメロードも大学時代の友人と好きな相手が被ったらしくて、騙しただの、利用しただの、絶交だのとそしりを受けたらしいが、全部誤解だからって無かった事になっていた。」
「…それは…。」
「だと思う…。」

 ふたりが沈黙したのは、話題の友人がどうやら同じ人物ではないかと気付いたからだ。互いしか見えていないエメロードとザガートの間で、さぞ辛い想いをしたのだろうと考えれば、他人事とも思えない。
 フェリオは思わず、名も知らない姉の友人に、心の中で両手を合わせる。
(迷わず成仏してください。)
 
 そして特別に居心地が悪くもない沈黙続く。
 ほっこりとした気持ちになったのはきっと疲れているからだろう。フェリオは少々赤面しそうな思考を打ち消して、考え直す。

「俺は(いわしの梅煮)が好きだ。」
 
 …はぁ?

 唐突に語るランティスをジロリと睨み上げたフェリオは、瞼を閉じてフンと鼻を鳴らした。
「また、今度な。」
「ああ。」
 クスリと笑う気配がしたけれど、気付かないふりだ。少しだけ、相手に懐いたかもなんて、有り得ない。


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