> 鳳凰寺財閥という名は、私が生まれた際に背負ったものだった。
 それが苦痛だというつもりは無い。人は己の望みとは無関係に何かを背負いそして、歩いて行く。
 けれど、私はそのせいで幼い時に一度誘拐されたことがある。物心がやっとつくような年齢だった事と、目隠しをされていたせいで記憶には殆ど残ってはいないけれど、たったひとつだけ覚えている事実がある。
 真っ暗だった世界が一瞬でまぶしくなった時。鮮やかな翠の髪が見えた。小首を傾げるように覗き込んでくる男性の顔は、光に溢れた世界でよく見えなかったけれど、口元には優しげな笑みを浮かべていた。
『怪我は無いか?』
 深い声が告げる。ゆるく弧を描いた瞳は、太陽と同じ色をしている。頭の上に乗せられた手がくしゃりと髪を撫ぜた。
『よく我慢した、もう大丈夫だ。』


最後から二番目の願い


 ごきげんようと、涼やかな声が響く学園の廊下。前を歩く亜麻色の髪をした少女を見つけた三つ編みの少女がパタパタと走り寄り、肩を叩いた。
 ほっそりとした肢体を黒と白の制服に包んだ美少女は、優美な笑みを浮かべて振り返った。
「風ちゃん、今帰るとこ?」
「ええ、そうですわ、光さん廊下を走ってはまた先生に注意されますわよ?」
 眼鏡の中の翡翠を僅かに細め柔らかな笑みを返す風に、光は猫耳を出して、周囲を見回した。幸いな事に先生の姿は無くほっと胸を撫で下ろすと、再び笑顔に戻った。
「風ちゃん、冬休みの予定決まった?」
「いいえ、私はまだ決めておりませんが、光さんは今年もパリでお過ごしになるのでしょうか?」
 コクリと頷いて、光は両手で拳を握りしめ鼻息も荒く言葉を続ける。そこには、彼女の期待が溢れていたものだから、風はクスリと笑ってしまった。
「あのね、今さっき聞いたんだけど海ちゃんもヨーロッパで過ごすんだって、新年にはパリに来るっていうから風ちゃんも一緒にどうかなと思って。風ちゃん所の別荘もあるだろうけど、うちの方に泊まってくれてもいいし、三人で新年を迎えたいなって思ってるんだ。」
 素敵な計画ですわね。そう告げて、風は思案顔に変わった。
「ですが、私も冬は毎年家族で過ごす事になっておりますし、相談してみないと…。」
 頬に手を当てて眉を落とす風に光も残念そうに耳を垂らす。
「そっか…だったら、私も小母さんに頼んでみようか?」
「ありがとうございます。でもまずは私の口からお願いしてみますわ。」
 丁寧な風に仕草に、光は素直にうんと頷いた。また、明日ごきげんようと告げて去っていく光を見送り、風は小さな息を吐く。
 家族と過ごしているのは本当だ。けれど、風には日本を離れたくない特別な理由がある。
 幼い時の誘拐事件。記憶としては殆ど残ってはいなかったけれど、旅行に出掛けた際の出来事だったことがうっすらとではあるが、風の心を縛り続けていた。
 楽しいひと時ののちの、恐ろしい出来事。
何の記憶もないのに、と風は想う。それなのに、気持ちは不自由にも拘束されていた。
 
「仕方ありませんわね。」

 心は見えないし、触れない。だからこそ自由にはならないものだ。
窓の外を見やれば、うっすらと雨雲が覆いつつあった。本当に今の気分を見せられているようだと、風の心は塞いでいく。
 もう一度溜息をついたタイミングで、携帯が震えた。
「はい、お母様どうしました?」
 携帯の向こう側で、車のトラブルが起きて迎えが遅れそうだと告げる母の声がした。どれ程掛かるかわからないと言う母に風は大丈夫と告げた。
「人の多い場所を通って参りますから、平気ですわ。ええ、何度も通学しておりますから、大丈夫です。」
 母が心配性になるのは当たり前なのだろう。風は携帯を閉じてもう一度窓を見る。
車が来るつもりでいたから傘は持って来てはいなかった。暗くなる前に、という事からも早く家路に向かう方がいいのだろう。
 腕時計を確認して風は脚を早めた。

 ◆ ◆ ◆

 駅を出ると家までは少しばかり距離がある。
閑静な住宅地は夕暮れ時とは言っても人影は疎らだ。厚く、灰色の雲が空を覆っているせいもあって町全体は妙に暗い。街灯が灯っていないのが不思議な程だ。
 普段ならば愛犬の散歩をする人々とすれ違うものだが、生憎の天気。いまにも泣きそうな空を見据えて、きっと二の足を踏んでいるに違いない。
 行きかう車も無く、テレビで見知った清掃業者の車が路肩にとどまっているだけ。あまりに見ない程に、静かな帰路。
 角を曲がると家へと続く塀が見えてくる。風が歩道に乗り上げて駐車している車の横を過ぎようとした時、ふいに大きな音がした。
 それは清掃車のスライドドアが勢いよく開けられた音であり、風は異変に身を固くする。
そこから飛び出して来た男はふたり。どちらも業者の制服を着ていたが、顔が見えないように覆面を被っている。悲鳴を上げる間もなく風は男達に身体を拘束されていた。
 逃げようと身を捩っても、強い力で押さえつけられて動けない。そして両足を抱えて持ち上げられる。

「…!!」

 拉致される…!? 身体が恐怖で震えた瞬間に、再び異変が起こった。
「きゃ…!!」 
 ふいに上半身が自由になり、続けて脚から力が消える。宙に浮いた身体が地面に激突するかと思われたけれど、腰を支えられ抱きとめられた。
 ふわりと道路に降ろされると同時に、風の前にいた男が道路に向かって吹っ飛ばされる。道に頭から激突すると両手両足を大の字にして動かなくなった。自分の後ろから黒いズボンが伸びているのを見て、息を飲む。
 履いているのは風と同じデザインの革靴だ。
 背後にいた身体は、あっと思う間もなく横を抜けて立ち竦む男の首を拘束する。もがく身体が痙攣したまま地に落ちるのに、十秒もかからなかっただろう。人間が足元に転がるという異常な光景に、風は声も出なかった。
 
「てめ…ぇ!!」

 怒声が響き、車の助手席と運転席から飛び出して来た男達は風に向かって腕を付き付ける。拳銃なのだと知って、風は両手で顔を覆って悲鳴を上げた。
 二発の銃声が響き、男達の悲鳴が聞こえてくる。
 風が恐る恐る両手を下せば、道路に転がっている人間がふたり増えていた。共に手を抱え込んでのた打ち回っている。

「怪我は無いか?」
 振り返った顔に、風は息を飲む。
琥珀の瞳。鼻についた真一文字の傷。鮮やかな翠の髪。背はさほど高くもなく、自分と同じ年齢に見えた。そして、彼は地面に転がっていた学生鞄を拾い、右手に握っていたモノを仕舞うと表情を緩める。

「もう、大丈夫だ。」
 
 コクリと風は頷くと、彼はにかっと笑い立ち去って行った。
言葉が出なかったのは、想い出と重なったせいだった。まさか、彼が…?けれど、あれから十年以上は経っているのだ。
  でも…。

「どうしたの、風さん…!!!」
 銃声に気付いた住人達が呼んだのだろう、サイレンの音が近づいてくる。
 声を上げて駆けつけてくる家人達が、口々に風を労わる言葉を掛けてくる中、風はもうひとつの事実に目を瞬かせた。

 「うちの…制服でした…?」
 
 街で良く見掛けるグレーのブレザー。しかし彼のネクタイに付いていた校章は、風が着ているリボンにも描かれたものだった。


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