夏、酷く暑かったせいだとテレビで告げていた事だ。 やっとたどり着いた目的地の前、風は重くなったと感じていた傘を下に降ろして納得した。水気を充分に吸った雪が傘の上に積もっている。 おっかなびっくり歩いて来た道路にも、相応の雪がつもり。 通り過ぎる自転車は、危なげなハンドル捌きをみせつつ蛇行運転をしている状態だ。 「もう、雪は結構ですのに…。」 頬に手を当てて、風は溜息を付いた。 ホワイトクリスマスは確かに浪漫を感じさせてくれたし、雪が音もなく降り続くなかで聞く除夜の鐘は、厳かな気持ちになった。 けれど、こうまで実生活に食い込んでこられれば、どうにも不自由で仕方ない。雪深い地域ではないから交通機関は麻痺するし、歩くだけで転びそうになる。 通行人が何人も尻餅をつく様子を見ながら、何だか自分も痛くなった気になった。 「やれやれ、ですわね。」 何度か傘を上下に振って、雪を落とせば建物の暖房に温められたらしくじんわりと玄関マットを濡らす。これもまた、よく滑るのだ。 足元注意の札がないのは危ないのではないだろうか。 風がくるくると傘を回し止めていると、早足で玄関に飛び込んでくる人影があった。 「あ…。」 危ないですわ。と告げる間もなく、玄関マットを踏んだ足はずるりと前のめりになり、体勢を崩したまま、玄関フロアの固い床に腰を強かに打ち付けた。手を床に置いて回避しなかったのは、両手で茶封筒を抱え込んでいたからだろう。 野球でスライディングをしたよう体勢。ドンと響いた鈍い音が痛そうだ。 「つっ…!!!」 「大丈夫ですか、フェリオさん?」 「ああって、え、鳳凰寺さ、…っつ!!!!」 瞬時に顔を赤くする青年は、風から顔を逸らして慌てて立ち上がる。 埃を払うようにズボンを叩くが、ついているのは埃でなく溶けた雪。太股から膝裏に部分がじっとりと濡れている様子に、風は眉を顰めた。 「このままでは、風邪を引いてしまいますわ、…フェリオさん?」 「よりにもよって、…に…なんて。」 けれど、フェリオには風の言葉が聞こえなかったようで、ブツブツとひとり言をいいながら、舌打ちをする。 もう一度名を呼ぶと、慌てて風の方に向き直った。 「な、何か?」 顔に、(恥)と書いてあるようで酷く可笑しいと風は思う。 「濡れたままでは風邪を引いてしまいますわ。給湯室に余分なタオルがあったと思いますから、それで拭かれた方が良いかと思いますが?」 「あ、うん、そうだな。助かるよ。」 フェリオとは同期入社の間柄だ。 風は彼に好意を感じ、フェリオもそんな素振りを見せる。だからと言ってふたりの関係が同僚から恋人になった訳ではない。 親しい友人。仲の良い同僚。それがぴったりとくる関係だ。 学生だった時も、男女交際について積極的ではなかった自分が、社会に出たからといってイケイケになれるはずもない。毎年用意しては、義理としても渡せないチョコレートを何度自宅で味わった事だろうか。 きっとフェリオは今年も沢山のチョコを貰うに違いなく、見てしまうと次ぎの一歩がどうしても出ない。今日も、贈り物が鞄の奥で息を顰めていた。 「どうぞ。」 戸棚からタオルを出し差し出せば、ビクッと肩が竦んだ様子に、風は目を見開いた。慌てた様子で取り繕い、フェリオは差し出されたタオルをズボンに当てる。 「うお、冷たっ…。」 大袈裟に騒いで誤魔化す様子に、フェリオが(渡されるモノ)を意識しているのがわかった。 当たり前ですわよね。今日はバレンタインなのだから…。彼とて気にならないはずはない。 少し、鼓動が早くなる。 渡してみようか、偶然とはいえ今ならふたりきり。たとえ、フェリオが意識しているのが本当は私ではなくたって大丈夫だよ、と誰かが囁く。 もっと、動悸が早まった。 「あの、フェリオさん。」 「ン?」 無防備な顔が振り返る。きょとんと見つめる琥珀に、風の手はぎこちなく動いた。 「あの、私…。」 フェリオの視線が確実に追っているのを感じながら、鞄に手を伸ばす。中を探ると包装紙が指先に当たった。コクンと喉が鳴る。 「今日は、」 バレンタインなので、…と続けようとした言葉は、廊下に響いた課長の声で妨げられる。特別な事などしていないのに、緊張が一気に高まったのを感じた。 そして、フェリオがあれと首を傾げる。 少々短気なところがある課長は、フェリオの名前を連呼しているのだ。 「ああ、君達フェリオを知らないか、朝一で必要な書類を取りに行って貰ったはずなんだが。あれがないと、会議を始める事ができん…。」 廊下で擦れ違う社員に、問いただして居る様子に、フェリオはハッとで流しに置いた茶封筒を見遣る。一瞬冷や汗が流れたのはご愛敬だろう。 「あの、えと、助かった。」 そうして、玄関に飛び込んできたのと同じように封筒を脇に飛び出して行く。 課長の探したぞという声を聞きながら、風は息を吐いた。 タイミングが良いのか、悪いのか。 鞄に置いたままの手が寂しくて、鼓動はまだ、早い。渡せなくて残念な気持ちと安堵の思いと、心はいつも複雑だ。 給湯室を出た風に、(おはよう)と駆け寄ってきた同期の友人が、意味深に肩を叩いた。 「もう、見てたわよ。バレンタインの朝にふたりっきりで…!」 (何してたのよ)そう言われながら、バンバンと背中を叩かれる。 「いえ、あの、何もしておりませんわ。」 本当に何もしていないのだから、どう言いようもないけれど。そうか、バレンタインなのだと改めて思う。 遠巻きに見ている女子社員が、話しているのは自分がフェリオにチョコを渡したという話だろうか? 実際には、まだ私の鞄の中で、やっぱり自宅で味わう事になるかもしれないけれど。 でもと思い、風はクスリと笑った。 あなたと噂になるのも悪くない いつか、その噂が本物になる日までは。 〜Fin
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