ふたりのキセキ


 この春就職した姉は、秋にひとり暮らしを決めた。
ふたりきりの姉妹は、世間から見ても仲良し姉妹だったと風は思う。
隣同士だった部屋はある日を境に、カラッポになってしまった。
 コンコンとノックをしても、のんびりとした姉の返事は聞こえない。
『失礼します』と開けた部屋の中も、姉が借りた部屋へ運び込む事の出来なかった家具だけとカーテンだけが残されていて、ああ、いないのだなと感じる心が寂しさだと感じた。
 高校生にもなってと思ったりするけれど、一人ぼっちになった気さえした。
そんなある日、連休を控えた終日に、姉からメールが届いた。

『風さん、今度のお休みに泊まりに来ない?』

 私は二つ返事でメールを送り、両親に報告して許可を取り、友人達に話して浮かれたまま週末を迎えた。
 姉が暮らしているのは都心なのにも係わらず、随分と静かな街だった。実家から地下鉄をふたつ乗り継いだ先なのに密やかで懐かしい雰囲気のする不思議な街。
 商店街もどことなく古い佇まい。緑も多く、街の中心には公園があるらしい。
 なんだか姉が気に入ったのがわかった気がして、笑みが浮かんだ。
約束の時間までもう暫くあるのに気付いて、風は街を散策してみようと思った。
 大きなショルダーバックに入った日常品や着替えが少し重い気がしたけれど、きっと大した事などないと、歩き出す。
 小さな路面電車が通り過ぎる道路を斜めに渡り、小さな店が立ち並ぶ場所を過ぎる。路地で談笑していた老婆達がこんちにはと告げた風に笑みを返した。
 板張りの塀の上では、少々運動不足が懸念される白くて大きな猫が欠伸をした。もこもことした毛はふわふわで随分と手触りが良さそうだ。
「お昼寝中ですか?」
 風が声を掛けると、頬の肉が目尻を持ち上げて細くなった瞳を開けてから立ち上がる。風の方を何度も振り返りながら歩き出すものだから、つい釣られて歩き出す。
 器用にあちこちを歩く猫を見失った時には、風は自分の所在地をもうっかり見失ってしまっていた。
 こんなうっかり、普段なら決してしないのに…。
知らない街で迷子になった心細さが込み上げてくる。気を取り直して姉に掛けた携帯は、生憎と話し中なのか留守電に切り替わった。
 
「困りましたわ。」

 歩いて探すべきか、それとも姉に連絡が取れるまで、じっとしているべきか…思案していると、背後に自転車のブレーキ音が響いた。

「道路の真ん中で突っ立てると危ないぞ。」

 遠慮ない声が背中に掛けられる。迷子になってしまった事が恥ずかしくて、そして見知らぬ街で見知らぬ人間に対する警戒心で風の表情は強張った。
「すみませんでした。」
 振り返る事はせずに、俯いたまま背を壁の方へ向け一歩下がった。
「…どうかしたのか?」
「え…。」
 顔を上げると年齢は変わらないだろう男の子が、自分の顔を覗き込んでいた。翠の髪は長く顔にかかっていた。
 鼻の上に大きな傷があるのにも係わらず、余り乱暴な感じがしない。
 大きな琥珀の瞳とか、整った顔立ちがそう思わせるのだろうか?雰囲気は何処か柔らかく、警戒心が少しだけ緩んだ。
 町名を告げると、ああと頷く。
「この辺りの道は入り組んでるからわかりにくいかもな。でも、お前はラッキーだな。」
 悪戯な笑みに、風は目をぱちくりとさせた。彼は真っ直ぐに腕を伸ばし、道路の先を示す。
「ここの先が公園だ。大概の道はそこに繋がってるから、行って派出所に先を聞いてみるといい。」
「ありがとうございます。お詳しいので助かりましたわ。」
 ほっとした風の表情に、男の子は一瞬困った表情になる。
「…たまたま通り掛かっただけなんだ。他の事を聞かれたら俺も答えられなかった。」
 正直な告白が風の笑みを誘う。
「それでも、私は貴方に助けて頂いたんです。感謝致します。」
 ぺこりとお辞儀をすれば、どういたしましてと言葉が返る。そして、笑顔。
「最初は難しそうな顔してると思ったけど、そうしてると可愛いな。」
 クスクスッと笑い、男の子は自転車に乗って行ってしまった。

 ◆ ◆ ◆

 彼の言葉通り、公園から姉のマンションへの道は簡単で分かり易かった。
呼び鈴を鳴らし姉の顔を見た時に手みやげを忘れた事に気付いたけれど、この部屋へ来るまでの出来事が土産話しになった。
「風さんにしては、大冒険だったのね。」
 白い陶磁器で香り豊かな紅茶を注ぎながら空は優しく微笑んだ。
シンプルで居心地の良い部屋は姉らしかった。ふたり掛けのダイニングテーブルを挟んで向かい合う。
「でもその猫さんは私も見たことがあるかもしれないわ。あのね、じっと見てるとほえほえ笑うのよ。」
「猫さんがですか?」
 コクンと紅茶を飲みこんでから、風は瞬きをする。
「そう、まるでついておいでって言ってるみたい。風さんも誘われたんじゃないの?」
 優しい姉との話と手料理。
 枕を並べて眠るつもりで、夜更かしをして話し込んでしまった。なのに、明けの空がカーテンを照らす頃に風は目が開いてしまう。
 隣で気持ちよく眠っている姉を起こすのも憚られて、風はそっと身体を起こした。
うすぼんやりとした光が照らす部屋で、ふと思い出すのは、昨日出逢った男の子のこと。
 たまたま…と言っていた。何処に住んでいるとも聞かなかった。
ちくりと胸が痛む。きっともう逢う事などないだろうに、気になると思った所でどうなるのだろう。
 それでも、心がざわざわしていて、朝も早いと言うのに二度寝する気になれなかった。
 あの緑豊かな公園を散歩してみようか…。風はそう思い立ち、そっと布団を抜け出した。

 ◆ ◆ ◆

 気温が下がっている為か霞がかかっている。それでも、朝日に照らされた公園は綺麗で、そして少し寒かった。
 風は両手を前で重ねてハァと息を吹きかける。
 街から切り取られた様に静かな場所。だんだんと明るさを増していく光景には、何かが始まるような高揚感さえ感じた。
 とくんとくんと心臓が鳴る。
白く霞んだ先から、犬の鳴く声がした。パタパタと足音が響いたかと思えば、風の足元をあの猫が走り抜けて行った。
「まぁ、猫さん。」
 風の声に、脚が止まり彼女を見上げる。にぱ〜っと笑った気がして、風は目を瞬く。
 それを追い掛けて、白い大型犬が姿を見せた。ふさふわとした尻尾が長い綺麗な犬は、真っ直ぐに猫を追う。
 けれど、猫は慌てる事もなく近くの樹に飛び乗ると身軽に公園の奥へと姿を消してしまった。
 バウバウと吼えたてる犬の手綱を引き寄せた男の子が溜息をついた。
「勘弁してくれ、イノーバ。なんでこんなとこに来るんだよ。」
 ハァと息を切らす彼は、額の汗を拭い犬を睨む。けれども、犬も抗議があるらしく彼の顔にバウと吠えた。
「折角散歩につれてきてやったのに、なんだよ。」
 むくれた表情が風と目があった途端に、ぽかんとしたものに変わった。風も、驚いたまま、声が出なかった。
 
「…逢う事なんか、ないと思ってた…。」

 眉を寄せてポツンと呟いた彼に、風もコクリと頷いた。
「貴方も通りすがりだとおっしゃっていませんでしたか?」
「うん、俺は住んでない。
 姉貴夫婦の家がこの辺りにあってさ。コイツは姉の犬なんだけど、留守にするからって散歩を頼まれてた。」
 しゃがみ込んで犬の顔を撫でつければ、バッサバッサと大きく尾を振る。
よく懐き可愛らしい様子に、風もつい手が伸びた。
 鼻先に置いた掌を押し上げるように擦りよせてくる。湿った鼻の感触がくすぐったくて風は笑う。
「私は一人暮らしの姉がこの辺りに住んでおりますので遊びに…。」
「それで、道に迷ってたのか。」
「おっしゃらないで、恥ずかしいですわ。」
 頬を染める風の様子に、からかうつもりは無かったんだぜと彼は困った顔をする。
それが可愛らしいと風は思う。
「でも、今が散歩しておりました。迷子、ではありませんわ。」
 そうか、そうかと頷いてから笑う。
「俺はフェリオ、お前は?」
「私は風と申します。」
 何かが始まるような高揚感に、今度は胸が大きく高鳴った。

それは、猫だけが知るふたりのキセキ



〜Fin

猫の名前はモコナかも?




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