甘い一時


「何となく顔色も悪い気がしたし、表情が固くて。少し心配した。」
「あの、すみません…。」
 紅潮していく頬が止められない。顔のあちこちに火が点いたようだと風は思った。
 とても優しい方だと改めて知った。気を使って頂けるのが凄く嬉しくて。でも、恥ずかしいという感情が先に立つ。
 嬉しい。とても感謝してるのに、どうしても言葉が出て来ない。

「なんで謝るんだ? 俺は風の笑顔が見たかっ…。」
 そこまで告げて、今度はフェリオが頬を赤らめる。
「やばい、調子に乗った。」と口籠り、珈琲と一緒に言葉も飲み込んでしまう。
 風が瞬きもせずに彼を見返したのも悪かったのだろう。すっかりと赤くなってしまったフェリオはそのまま黙り込んでしまった。
 ふたりとも顔を赤くして相手に視線を合わす事が出来なくて、そんな気まずい時間が僅かばかり続けば、払拭するように(さて…)とフェリオが動き出す。飲み終わった珈琲カップをくしゃりと手で潰し、時計に目をやった。
「もう、こんな時間か…。戻らないとな。」
 お互い、頑張ろうぜ。
 ヒラリと手を振り自分に背中を向けたフェリオに、風は慌てた。
 確かに自分も仕事へ戻らなければいけない時間だ。けれど、(感謝の気持ち)も(フェリオの優しさが嬉しかった事)も伝えてはいない。本当は引き留める理由などないかもしれないが、後になればなるほどそんな些細な事で後悔をしてしまうに違いない。
 風は時々そんな自分の性格を疎ましいと思う事がある。気持ちのままに言葉にする、行動に移す。そんな行為に憧れていた。
 そう、さっき見せてくれたフェリオの優しさの様な行為だ。
「あ、あの…。」
 普段なら、頭でまず考える。
今こんな事をしては、相手に迷惑だろうか? こんな事を言うと、嫌な気分になってしまうだろうか?
 けれど、風の指先はフェリオのシャツを掴んでいた。
真ん丸の琥珀が、風を見返す。
「差し上げる為の飴…を頂いてしまって良かったのですか? 差し上げるものが…。」
 ああとフェリオは笑った。
「気にするな。また買えばいい。」
「いえ、あの私が食べてしまったので、私に買わせて下さい。」

 自分の唇は、本当に自分の意志で動いているのかと思わず疑った。

「へ…?」
 ポカンとフェリオの口が開く。
「とても嬉しかったんです。本当に美味しくて、フェリオさんのお心遣いも嬉しくて。ですので私に、買わせて頂けませんか?」
「Trick or Treat?」
 驚いた顔で風見ていたフェリオがクスリと笑った。意味がわからず、風は小首を傾げる。
「いや、ここでお菓子はいらないって言ったら、風が悪戯してくれるのかなって思って。」
「そ、そんなこと致しません。私は…。」
「わかってる。」
 そっと唇に指を置かれて、風は真っ赤になって黙り込んだ。
「じゃあ、こうしよう。明日も仕事だから、俺と一緒に退社しないか? お菓子を買って、姉の家に一緒に行こう。」

 …。

「そうすれば風も気が済むだろうし、お菓子は風が買ったものだとわかってもらえるし、俺は家族に風は紹介出来る。一石三鳥、いや、風とデート出来るから四鳥かな。」  
 フェリオの提案に、ポカンと口を開けたのは風の方だった。彼の告げる内容をどうしても把握出来ない。

 デート? 家族に紹介?

 風の頭の中をぐるぐると様々な単語が回る。言葉を失って立ち尽くす風に、フェリオはクスリと笑った。目尻を僅かに下げた、苦笑に似た表情だ。
「嫌ならいいんだ。そう言ってくれた方が俺もすっきりする。」
 うん、と頷く。
「風の事、高校時代には本当に意識したことは無かったんだが、今が違う。
 俺は、凄く風の事を意識してる。風の事を色々知りたいと思っているし、俺の事を知って欲しいって感じてる。」
 はっきりした口調で、躊躇いない言葉で。
 告げられた言葉は、風も秘やかに感じていた内容だった。こうして、唇に乗せる事があるなどと思った事もなかったのだけれど。
 風は胸元に手を当てて深呼吸をしてみる。ドキドキと早い鼓動は、フェリオの告げた言葉の為か、自分が口にしようとしている大胆な想いのせいか。

「フェリオさん。」
 笑おうと思うけれども、緊張の為かぎこちない。風を見るフェリオの瞳も揺れて見えた。彼を見つめたままではどうしても声が震えてしまい、風は視線を床に向けた。
「なんだ?」
 こうして声だけ聞いていれば、フェリオの声も震えてはいないだろうか?
自分の気持ちを伝えて、風がどんな返答をするのかきっと緊張して待っているのだ。
「あ、の、先程のお話ですが、お姉様がいらっしゃるんですね。」
「ああ、結婚したから一緒には住んでないけどな。」
「私にも、姉がおります。私達は一緒に住んでおりますわ。」
「へえ、そうなんだ。初めて知ったよ。きっと、風の姉妹だから美人なんだろうな。」
 褒め言葉に頬を染め、それでも風は言葉を紡いだ。
「私も、フェリオさんの事何も存じ上げなくて、…でも知りたくて。」
 そうして、風は意を結して顔を上げた。フェリオの顔を直視する。その瞬間だけ、フェリオが息を飲むのが見える。
「私の事も知って頂きたいと思います。ですから、明日はよろしくお願い致します。」
 ポカンとしたフェリオの顔が新鮮だった。そうして深々と頭を下げた風に、ハッと正気に戻り慌てて両手を握って身体をおこさせる。
「俺こそ、よろしく頼む。」
 紅潮しているのはお互い様だ。
 嫌われてはいなだろうと踏んではいたが、同じ気持ちであるのかどうかなんてフェリオには検討もつかなかった。それなのに、こうして風は微笑んでくれる。恥ずかしそうに、頬を染めながら。
 いつまでもこうして彼女の手を握っていたい。永遠は無理でも、もうちょっと。ほんの5分だけ、贅沢なら3分で構わない。
 そんな淡い期待は、ブルブルと震えだした携帯によってあっさりと遮られた。余りにも名残惜しいので、片手で風の手を握ったまま携帯を取った。
 聞き慣れた顧客の声で、しかしフェリオはそっと手を離す。応対をしながら視線を送れば、風はフェリオが最後まで離さなかった方の手を、もう片方の指で包み微笑んでいた。
 
 また、あした。

 声を出さずに告げた言葉に、こくりと頷く。踵を返そうとした風を呼び止めて、残りの飴を押し付けた。
 夜は遅いが、彼女の仕事も直ぐに終わるものではないだろう。舐めながらのんびり頑張れというつもりだったが、律儀な彼女は全部貰ってしまう事に恐縮したらしい。 ひとつだけ飴を取りだして、通話を終えたフェリオに向かった。

「フェリオさんも、甘い一時をどうぞ。」

 彼女は包装紙を解いて、指先で飴を持っている。
 所謂(あ〜ん)と言った状態だった。(誘ってる?)…などと男としての本能が頭を掠めたが、真っ赤になっている風にとって精一杯の感謝のしるしなのだろう。
 有り難く口を開けさせて貰い、飴を入れて貰う。舌に熔けていく甘さが堪らない。
「お仕事頑張って下さいね。」
 会釈をして立ち去っていく風を見つめながら、夢心地である事に代わりはなかった。


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