甘い一時


 一日が8時間労働と定められているのは、確かな基準があっての事なのだと
風は感心する。
 規定の退社時間を過ぎると、どうにも集中力が欠けるのだ。残業が嫌だとか面倒臭いと思った事など一度もないけれど、能率が下がってしまうのはどうしょうもない。
 人影がまばらになったオフィス。風は簡単に書類を纏め、パソコンの画面を落としてから席を立った。明日納期の仕事はまだ残っている。休憩を取るにしろ、取らないにしろ仕事をしなければならない。ならば、少しばかりの休憩を取り、能率を上げた方が賢明だろう。
 後ろで軽く結えていたゴムを解き、制服のベストにあるポケットに仕舞う。小銭を確認してから、廊下に向った。

 同じフロアの隅に、自動販売機が据えられた休憩場所がある。
観葉植物で遮られた先にベンチがあり、その向こう側は夜の街を映している。普段よりも色鮮やかに見えるのは気のせいだろうか。
 風は小首を傾げながら、販売機の前に立った。コロリと指先でお金を入れれば、パッと明かりが点った。
「え…と。」
 普段ならば紅茶を好んで飲むのだけれど、疲れた身体は甘いものを欲しがる。
「ココア、が良いのですが…。」
 指を彷徨わせればボタンは見つかったが、生憎と売り切れの文字。風は小さく溜息をついた。空腹で珈琲を飲むのは胃には負担がかかるだろうけれど、未だ仕事を控えた状態で甘いジュースや炭酸を飲もうという気分にはなれない。
 仕方ないと、指を押し込みかけた風の肩がポンと押される。
「え?」
 振り返れば、琥珀の瞳が笑っていた。
「まぁ、フェリオさん。」
 パチパチッと瞬きをしてから、風も笑う。
「遅くまでですのね。」
「そういう風も、だろ? 遅くまでご苦労さん。」
 フェリオは、ネクタイを緩めつつふるりと首を振った。肘の上まで捲り上げたシャツの裾が外歩きの余韻か、汗で汚れていた。そうして見るとズボンもヨレヨレだ。
「今まで外勤でらしたのですね。これからデスクワークですか? お疲れ様です。」
 心配そうに眉を潜めて覗きこんだ風に、フェリオは驚いた表情で瞬きをした。そうして、後ろ頭を掻きながら苦笑する。
「全く…風には隠せないなぁ…。」
「あ、私、余計な事を申し上げてしまいましたか?」
 口元を指先で隠して、風は俯いた。
 彼の気に触る事を言ってしまっただろうか? フェリオとこうして会話を交わす時間に喜びを感じているのは確かで、だから機会を失ってしまうのは嫌だと風は思う。
「いや、違うって。
 よく気がつく女の子だって、同級生が言ってたのを思い出しただけだ。
 友達の中にさ、風と同じ部の奴がいて(良い子だなぁって、彼氏いるのかなぁ。いなかったら、俺立候補しようかなぁ)ってぶつぶつ言ってた。」
 途端、風は頬を赤らめた。
「その、フェリオさんだって、随分おモテになっていらっしゃいましたよ。
 私のクラスメイトの方々も、わざわざ試合に見に行ってらっしゃったようですし…「風は?」」
 え…顔を上げれば、悪戯な笑顔。クスクスと笑う。
「風は俺を見に行こうとは思ってくれなかったのかな…と思って。」
「え、あ、それは…。」
 風は頬を染めたまま、返事に窮して口籠る。
 全く興味が無かったと言えば嘘になる。噂話ならクラスメイト達からも聞いていた。ただ一学年上で、所属している部も違う。そんな相手と接点はなく、敢えてそれを求めようとは思わなかった。
 大学を卒業して、就職先でフェリオと再会してからは同じ高校の出身というよしみで何かと会話を交わすようになってはいたものの、当時親しかったのかと聞かれれば全くそんな事は全くない。
 学生時代の一歳は、恐ろしい程に相手との隔たりを感じていた。それが、社会に出てしまうとどうだろう。ひとつやふたつの差がまるで意味をもたないのだから不思議なものだ。
 困窮している風の肩をポンポンと叩き、フェリオは自動販売機に向き直る。
「意地悪をしたな、俺もお前の事は知っていただけだ。こうして顔を合わせるなんて予想もしなかったよ…あれ?」
 脇に抱えていた鞄から小銭入れを取りだしたフェリオが、コイン投入口を見て小首を傾げた。
「お前、お金を入れたのか?」
「はい、ごめんなさい。今…。」
 今、と告げたもののどれを飲むのか迷っている事に変わりない。ボタンを押す指が止まった事にフェリオは疑問に思ったようだった。(なんだ?)という表情に、躊躇った理由を話せば、フェリオはにかっと口端を上げる。
 酷く得意そうな笑みに風は小首を傾げたが、フェリオはさっさと返却ボタンを押し、風が入れていた100円を吐き出させる。そうして、風の掌にお金と一緒に、飴を乗せた。黒に黄色いカボチャの模様が散りばめられ包装紙は、なかなか鮮やかだ。

「子供向けだから、きっと甘い。」

 そう言い置いて、フェリオは自分の為のカップを手に取った。珈琲の香りが漂うなかで、風がジッと見つめているのに気付くと(遠慮するな)と笑う。
「ありがとうございます。いつも、お菓子を持ち歩いていらっしゃるのかと思って吃驚したところでしたわ。」
 大真面目に答えた風に、フェリオは盛大に笑い声を上げた。
「ああ、違う、違う。明日ハロウィーンだろ? 姉の子供が襲撃してくるのがわかってるからな。その為に買って来たところだ。」
「ハロウィーン…10月31日ですね。道理で仕事が詰まって忙しいはずですわ。」
 仕事帰りにショーウィンドウを見れば、ディスプレイは季節のものだったはずだ。
忙しさでゆとりを失っていたのだと、風は改めて思う。
 そう言えば、そう。
 自販機で買う物に妙に拘ってしまっているのも、視野が狭くなっている証拠ではないのだろうか。こんな事だから、能率が上がらないのかもしれない。
 包装紙を開けば、魔女の箒をデザインした丸い飴。柄にぶら下がっているカボチャは包装紙とお揃いだ。
「可愛い。」
 ふふっと笑って、飴玉を口に運ぶと甘くまろやかな味が舌先で広がる。ホッと息を吐き、美味しいと告げればフェリオも嬉しそうに笑う。
「疲れてるみたいだったから、良かったよ。」
 風は、フェリオの言葉に改めて顔を見直した。


content/ next