彼がこの「契約関係」に飽きないことを祈る


 吐く息は白い。
 弥生も半ばとは言え、気候は冬に俗する時期。とは言っても、自分が眠りについた時代と比べれば、暖かい。
 風の気が逸れた事に気づいたのだろう、フェリオが怪訝な表情で顔をしかめた。
 男らしいというよりも、少女の如く端正な顔立ちをそているせいか、怒りという感情ではなく、拗ねているような可愛らしさを感じさせる。

『すみません。少し景色に見とれておりました。』

 フェリオにしか聞こえない声でそっと彼に囁く。
 風はフェリオの傍らでふわふわと空に浮かんでいる。霊視の能力がある人間ならば、間違いなく幽霊に見えるだろう。けれど、風はそもそも人間ではない。
 太古の昔より存在する強力な力を持つ聖獣。可愛らしい少女の姿など、ただの写し身でしかない。 

「…なら、いいけど…。」

 不満の残った返事をして、フェリオは首から下げていたタオルをギュッと握り絞めると再びランニングに戻った。
 黙々と続けるそれと、前後に行う体術は幼い頃から続けている(修行)だ。
 風のような強力な精獣を従わせるには、精神力の強さは勿論だが、体力も必要になる。健全な心は健全な肉体に宿るなどと教育者が口を揃えて告げが、様々な例外はあれど真実なのだ。特に、資質はあるが、特別に恵まれた力を備えていた訳でもなかったフェリオには修行が必要だったのだ。
 弱く幼い彼が風の封印を解いたのは、どんな運命だったのか知る由もない。
 けれど、従えようとすればフェリオの命すら脅かしかねない力を風は持ち、主として力を奮えば、即座にフェリオの人生を終わらせていたはずだ。
 彼の魔力を強くすることは、風にとってもフェリオにとっても急務な仕事、それは彼の力が強くなり(成人になって来た事とも関係はあるのだろう)、若干の緩和をみせている今、少しだけ変わって来ていた。
 ずっと見つめていなければ死を招くような行いをする子供でない。逞しさを備えた青年になりつつある事。自分の助力なくとも、フェリオは立派に窮地を切り抜けていける、そんな想いが風の心を変えていた。
 庇護から信頼へ。
そして信頼は安心を生む。

「あの‥。」
 
 小さな声が背中から聞こえた。風の姿はフェリオ以外の人間には見えないのだから、用があるのは彼にだろう。
 しかし、フェリオは気付かないのかそのまま通り過ぎようとする。風が声を掛けようとするより早く、声の方が大きく、強くなった。

「おはようございます、先輩!!」

 緩やかに脚を止め、振り返ったフェリオは見知った後輩の姿に笑みを浮かべた。
「よお。お前も早いんだな。」
 返された挨拶に、少女は頬を染める。
「いつもランニングしてるのか? それにしては、普段は会わないな。」
「えと、その、今日は特別に早いんです。」
 焦った様子で言葉を選ぶ少女に、風は笑みを漏らした。
 どう考えても、フェリオを待ち伏せしていたに違いないだろうに、目的に向かって邁進している時の彼は存外に鈍い。寒さのせいではない赤みを頬に宿し、少女はコクンと喉を鳴らした。
 彼女にとっての大きな決意が、小さな手を震えさせている。
「先輩、一緒にランニングしてもいいですか?」
「ああ、かまわないぜ。」 
 ニコリと笑い、イタズラに目を眇めてみせるフェリオに、少女の瞳が固定されている。軽口を叩きながら、肩を並べて走り出すふたりから距離を置くようにフワリと空に舞った。

 長い髪を結い、学校規定のウエアを身に纏いつつも、その髪には桜色の可愛いリボンが付けられている。少女の頬を染める気持ちと同じ、淡い恋心を思うと風の気持ちは揺れた。
 自分の気持ちに正直でとても可愛らしい女の子。
 風の目から見ても、とても魅力的だ。彼女に、ではないかもしれないが、いずれフェリオも恋をしていくのだろう。
 目的に向かえば、それ以外目に入らない性格の彼の事。きっとその女性に夢中になってしまうのは目に見えていた。修行も何もかも疎かになってしまうだろうし、四六時中側にいる自分を疎ましく思うようになるかもしれない。
 フェリオは幼い頃より見守って来た人間であり(主)でもある。そうやって離れていくのは寂しいとは思う。
 しかし、それ以上に、深刻な問題が待っている。
 
 フェリオが風との別離を望むのならば、主従の関係を正さなければならない。その時、自分を調伏出来るほど強さがない場合、それは同時に彼の死を意味した。
 フェリオに話した事はないが、この(契約)はそこまで重いものなのだ。

 自分は人ではない。
 人としての幸せなど欠片も望んでいない。それでも、フェリオ自身は(人として)子孫を育み、幸せな道を歩んで欲しいと思う。
 それは、この地を守護している己の役目でもある。動物として時には愚かしいこの(人間)という種族が、風はとても愛おしい。
 (好きだよ)と幼子の時と変わらず呼び掛けてくれる彼が、今はただ、この「契約関係」に飽きないことを祈しかない。
 しかし、人の心もまた移ろい易いものだと、風は知っている。

『風!』
『心配なさらなくても、近くにおりますわ。』
 親からはぐれた雛鳥の様な苛立ちに、風はクスリと微笑んだ。もう暫くは、ただの杞憂であればいい。
『気を使って差し上げましたのに』
 そして、ふわりとフェリオの横に舞い降りた。 
『…莫迦っ、余計なお世話だ。』
 ムスッと不機嫌な表情に変わったフェリオを、風は微笑みながら見つめていた。


〜Fin






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