Green[9] 接吻


 喧嘩の理由など覚えていない。ほんの些細な出来事だった…と言うことは認識出来たが、そんなものは胸の悪さに紛れてどこかへ流れていったようだった。



 魔法騎士達がやってくると必ず行われるお茶会の席。
 目が合うと風はふいとそれを反らした。あからさまに怒っているんだという行為をしめされて、フェリオも内心穏やかではいられない。
「珍しいわね。喧嘩なんて。」
 いかにも面白がっている口調で海が言う。
「何でもありませんわ。なんて…風も言ってくれちゃうけど。」
 腕を前で重ねて、右手で顎を示す風の真似をしながら、海が言うのをフェリオは苦々しい表情でみていたが「好きにすればいいさ。」と呟いた。
 そして、彼女の話題など口にしたくもないと言うようにフェリオはそれっきり黙り込む。
「こりゃホントに珍しいわ…。」
 海は、今度は呆れたように呟いた。
「…風ちゃんと何かあったの?」
 心配そうな顔で覗き込んできた光を無碍に扱う事も出来ず、フェリオは困った顔で答えた。
「俺にはよくわからない。さっきだって、一言二言話をしただけなんだが、あの調子だ。」
「風ちゃん、久しぶりに来るからって喜んでたのに…。」
 フェリオは無言で首を横に振る。
「そうか?俺にはそうは見えなかった。…明日までに仕上げておかないと不味い仕事があるんだ。俺は失礼するよ。」
 フェリオはそう言うと席をたつ。それでも二人には笑顔を見せた。
「お前達はゆっくりしていくといい…風にもそう伝えてくれ。」
 部屋を出ていくフェリオを見送って、それすらも無関心を装う風を見ると、光はすっくと立ち上がった。
「ちょっと光?」
「風ちゃんとこに行ってくる。」
 スタスタと風のところへ向かう光に海はクスリと笑う。
「光相手に、風も意地ははれないわね。」



「絶対フェリオと話をしたほうがいいよ。」
 光は、風の手を引っ張った。風は少しだけ困った顔で光に言う。
「光さん、お心使いは嬉しいのですが、お互い気分を害している時は距離と時間を置いた方が解決する時もありますわ。」
 風の言葉に、光は悲しそうな顔で振り返った。
「…風ちゃん変だよ?時間だって、距離だって望んでなくても離れているのにどうしてそんな事言うんだ?」
「光さん。」
「東京に帰ってしまったら、またいつこれるかわからないのは、風ちゃんだってよく判っているのにどうしてそんな事言うんだ?」
 光の大きな瞳は潤んで、今にも泣き出しそうに揺れる。風は小さく溜息をついた。
「わかりました。フェリオと話をして参ります。」
 光のホッとした表情を見ながら、風は立ち上がった。



 ノックをしたが、応えが無く風は黙って扉を開けた。
「お前か…。」
 戸の開く音で、初めて来客に気がついたフェリオは顔を上げて言う。
 机の上に積み重ねられた書類の量は半端ではない、風もその事に気付いた。チラリと風を一瞥したフェリオもその作業を再開する。黙々と書類を読み分類してい
 しばらくは沈黙だけが二人の間を支配したが、先にフェリオが声を掛け
「…すまないが忙しいんだ。後にしてくれないか?」
風の顔が一瞬悲しそうになり、ギュッと手を握り締めると俯いた。
「…そんなですから、いつも貴方は…。」
「いつも、俺が何だって!?」
 思ったよりも怒気の籠もった声になってしまい、ばつがわるくてフェリオは口を手で覆う。風も驚きの表情のまま、動かない。
「気が立ってるようだ…。悪かった。」
 フェリオは風の方を見ないよう視線を逸らして、書斎の上の紙束を手に取って立ち上がった。大きく深呼吸をすると扉の取っ手に手を掛ける。
「これを渡しておかないと明日皆に迷惑がかかるんだ。すぐ戻るから…。」
 フェリオの声と扉の閉まる音、そして立ち竦んでいた風だけが部屋に残された。

 どうしてこんな事になったのだろうか。風は部屋に取り残されて一人外を見つめる。
 久しぶりに訪れたというのに、セフィーロは何処にも変わったところなどないのに。
 そうして、彼はいつものように笑顔で私を迎えてくれたのに。

『いつものように』そうだ、そもそもの喧嘩の原因は…。

 風は扉を開け放つと、彼の後を追った。



 フェリオは、自分の足が思うように動いていない事を感じていた。
 最初に態度がおかしかったのは確かに彼女の方だったかもしれないが、それに無頓着だった自分も悪かったのだ。
 素直に謝ってしまえば良かったと後悔ばかりが先に立ち、引き返して彼女と向き合えば、こんな居心地の悪い思いをしなくてもすむのではないかと思うと足も止まる。

 自嘲の笑いが洩れた。

 この気持ちが本当に嫌なら終わりにしてしまえば良い。でも自分はそれを欠片ほども望んでなどいない。ならば、方法は一つしかないだろう?。
『謝って、彼女の話を聞こう。』
 フェリオはそう思い直し、来た方向へ戻ろうとした。
 そうして、振り返ったフェリオの目に両手を胸元で握りしめた風の姿が写る。所在なげに瞳を揺らし、立ち尽くす彼女はいつから其処にいたのだろうか?
「フウ…?」
 名を呼ぶと、彼女の翡翠の瞳から涙が零れおちた。
「フウ!?」  バサリと書類が手から落ちると廊下一面に広がる。けれど、フェリオの瞳はもうそんなものは見てはいなかった。止まらない涙を両手で覆う彼女を、腕の中に抱き込む。
 喧嘩をしていたはずなのに、少女の温もりを感じると言いようもない安堵感に満たされた。
「…俺が悪かった…。」
 ためらいを微塵も感じさせず出た謝罪の言葉に、風は微かに身体を震わせた。
「…そんなですから、いつも貴方は…。」
 言ってしまって、それが言い争いになりそうだった言葉である事に気付いた風は、はっと身を固くした。 「そうだな、きっと俺が悪い。」
 それを感じたのか、フェリオはそう口にすると自分を抱き締める腕の力を緩める。
 彼は本気で自分が悪いと思っている。今、言葉にしなければ、この腕の温もりは一層離れていってしまう。
「違います。」
 風は、泣き濡れた顔を上げて、フェリオを見た。彼が息を飲むのがわかる。
「違います。……悪いのは私です。」
「どうしてお前が…。」
「こちらに久しぶりに訪れたのに、フェリオがいつも通りで。急に来てしまっているのだから、貴方の都合が終わらないと私と向き合えないのを存じているのに…。それが…。」

 とても寂しいと感じた。せっかく、来ているのにどうして私の横にいて頂けないの…と。

「…前はこんな事はなかったのに。私…どんどん我が儘になってしまいます。」
 涙を落とす風を抱き締めたまま、フェリオは彼女に話し掛けた。
「お前には初めて言うが、俺は自分が東京に行けなくて良かったと思っている。」
 え…?という表情で顔を上げた風に、フェリオは苦笑いを浮かべた。
「会いたくなるんだ。朝でも真夜中でも。時間とか、お前の都合とかも考えられなくなる。お前以上に俺は我が儘だ…。」
 フェリオは、ふいに風の唇に自分のものを重ねて離れた。
「こんな事をしたいといつも思っている。俺は悪いか…?」
「いいえ…。」
 ふるっと首を横に振った彼女を見て、フェリオも笑う。
「なら、お前も悪くないだろう?」
 そう言って風を抱き締めていた腕を解こうとしたフェリオの顔に彼女が近付く。
「え…?」
 あっけにとられたフェリオの顔に、風の唇が触れた。
「私も…」
 それは一瞬で、離れる間際、風はそう呟く。普段から想像のつかないあまりにも大胆な行動は、彼女の顔を真っ赤にさせていた。そうして俯いてしまった風の顎にフェリオは手を当てて持ち上げる。

「…もう一度…いいか?」

 小さく頷いた風に重なる唇はしばらくの間離れはしなかった。



〜fin



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