Green[7] 翠雨


翠雨(風景二編)



 温かさが増す季節。風は足を止め空を見上げた。
 雑多な人々が行き交う街。いつもなら灰色なという形容詞こそ相応しいと感じる場所なのに、こぼれ落ちてくる水滴も、それを受け止める若葉もどこか優しい。
 空気の色まで透明で澄んで見える。

 そう、綺麗な翠。

 風はくるりと赤い傘を手の中で回した。心が躍るのを感じる。

 柔らかな雨が誰かを思い出させる。
 ふわりと温かいなんて、そう腕の中のよう。

「フェリオ…。」

 そっと唇にのせた名前も、その想いも少女の頬を染めるのに充分だった。
 しばらく訪れていなかったセフィーロに、今日行こうと電話で話したのは昨日の事。セフィーロの人達に会いたいね。と言いだしたのは誰だったのだろうか。
 そう言い出してしまうと、待ちきれない。

『会いたい。』

 その思いのままに、今足は東京タワーに向かっていた。

 空は相変わらず明るい。
 新緑を映し出す風景はとても綺麗だ。

 きっと、陽を写す琥珀の瞳を細めて、笑顔を見せてくれるにちがいない。
『よく来てくれたな。』
 いつものような挨拶をきっと返してくれる。
 そうしたら今度は、その声を聞いていよう。
 セフィーロの珍しい話や、自分の仕事の話を挨拶がわりにしてくれるのかもしれない。
 セフィーロも、こんな風に雨が降っているのだろうか。
 もしも、セフィーロに同じように翠雨が降っているのなら、少し雨に濡れて散歩もいいかもしれない。
 セフィーロの木々は、東京とは比べものにならない位綺麗だろうから…。
 そして、二人きりになったらそっと手を繋ごう。

 そう考えた風の指先に、ぽつりと傘から落ちてきた雨粒があたる。
「急がないといけませんわね。」
 取り留めもない事を考えていている自分に気が付くと、風は再び頬を染める。
 そして、赤い傘が軽やかに遠ざかった。



 ファイは、軒先に雨宿りと決め込んで両手で袋を抱えながら空を見上げた。
「小狼くんの言う通り傘持ってくれば良かったかな〜。」
 濡れたシャツの感触が気持ち悪くて、素肌からひっぱりバザバサと振る。

 雨が柔らかすぎるせいか、よけいに濡れた部分が冷えてくる。
 全身を濡らした雨の中で、水面の底に沈めた人の面影が浮かんだ。
 黒く長い髪、閉じられた瞳。
 その目が再び見開かれる事が、今はただ怖い。

「アシュラ王」

 思わず口から出た名前に、ハッと手で口を抑えた。
 その面影が、なんともいえない憔悴感に火を付ける。
 残り火がいつまでも胸の中でジリジリと焼け続けているような、止められない焦り。

 此処で立ち止まっていていいのか。こんな風に、留まっていていいのか。
 今彼は目を覚ましたのかもしれない。もうそこまで来ているのかもしれない。
 何一つ自分の思い通りにならない子供のような気分で空を見上げた。

 空は相変わらず明るい。
 新緑を映し出す風景はとても綺麗だ。

「おい。」
 声を掛けられ横を見ると、大きな体を緑色の小さな傘で申し訳程度に隠して立っている黒鋼の姿。
「迎えに来てくれたんだ〜。」
 えへへと笑いながら首を傾げる。黒鋼は、無表情のまま、赤い傘を差しだした。
「ガキが手ぇ放せないから、迎えに行って下さいと頼まれた。傘もこれとこれしかねえ。嫌なら濡れていけ。」
 自分のものと差し出した傘を顎でしゃくる。
「せっかく、黒りんが持ってきてくれたんだから使うよ〜。」
 笑いながら、再び空を見上げた。

 もしも、セレスに同じように翠雨が降っているのなら、どうか彼の上にだけはその雨粒を落とさないように…。
 彼がこの綺麗な翠雨を見るのならそれは長い夢の中だけで…。

「おい!とっとと帰るぞ!」
 黒鋼の呼びかけに、慌てて赤い傘を広げながらファイはそう願った。

 雨の中に赤い傘が二つ。そして、それぞれの想いは…。



〜fin



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