目が合った、瞬間が、永遠



「ウインダムが早くに戻って参りましたので、貴方の事が気になって来てみましたの。」
 フウは、言葉を綴りながらフェリオの頭のてっぺんから靴先まで丹念に眺める。
「尋常な汚れ具合ではありませんし、どうかなさいましたか?」
「…ウインダムは帰ったのか。」
 フムと頷き、フェリオが前髪を手でガシガシと掻く。途端にボロボロと床に落ちたのは泥が固まったものだ。
 フウは眉を顰める。
「ええ、戻って参りました。フェリオは一体どちらまでお出掛けでしたの?」
「北の方だ。」
 北? 
 フウは頭に自国の地図を描いた。此処から北で向かうと大きな渓谷が幾つも連なっている場所だろう。それこそ、人が踏み込む事のない森の深淵だ。

フェリオはどんな用事があって、そんな場所へ向かったというのだろうか。それにウインダムが帰って来た理由もわからない。

 上着を脱ぎ、それを手で叩いていたフェリオは、ふいにフウを見る。
「俺の様子を見に来たというのなら、もう用事は済んだだろ?城へ帰ったらどうだ?」
 送って行こうかと言いかけたフェリオはフウの台詞に耳を疑う。
「そうですわね。此処の掃除をしたら帰りますわ。」 
 フウは床に落ちている土の固まりと、水分をタップリと含んだ靴とズボンのせいで泥々になった床を睨み、手首まであったドレスの袖をまくり上げる。
 ついていけないフェリオが瞠目している間に、フウはさっさと行動を開始した。
「どうしてそんな場所に行かれたのか、どうしてウインダムが帰って来たのか、後でタップリと聞かせて頂きますけれど、それよりも掃除ですわ!」
「おい…?」
「フェリオ!男の方の一人暮らしとしては綺麗な方かもしれませんけれど、これではエメロードさんがご心配になられます!幼馴染みとして黙ってはいられませんわ!」
 フウはそう宣言すると、勝手知ったるお化け屋敷の扉次々と開けて箒と雑巾を揃え、モップを壁に立て掛けてから水を汲む為にバケツを手にした。
「待て待て!!!お前は一体…。」
 慌てて止めようとしたフェリオの鼻先にモップが突きつけられる。
「フェリオはさっさと湯浴みをしてください。それとも私に身体の隅から隅まで洗われますか?」
 にっこりと優美に微笑むフウの瞳は笑ってはいなかった。どうやら何かのスイッチが入ってしまったらしい。
 此処で逆らっても勝ち目がないのは、幼い頃から学習済。(いいえ、お風呂に入らせて頂きます。)フェリオが小さく呟くと、フウは満足そうな笑みを浮かべる。
 そして、先程脱いだ上着をフェリオに寄越した。
「どうせ汚れていらしゃるんですから、これも身体と一緒に洗ってくださいませ。他の服や靴もお願い致しますわ。私が掃除をした後に汚すようなこと、なさいませんわよね。」
 たおやかな言い方だが、フウの声には有無を言わせない迫力がある。もう何を言っても無駄だろうと、フェリオはフウにまかせて部屋を出た。

 ◆ ◆ ◆


「おおっ!」
 扉を開け、思わず感嘆の声が口をついた。
 部屋を離れたのは1時間程だったろうか。床も壁もピカピカに磨き上げられている。ついつい物を置いていたテーブルの上にはクロスも掛けられて、その上に食事まで用意されていた。
 パンとチーズのスープに温野菜。
 芳しい香りに思わず腹が鳴った。そう言えば道行きの道中は食べ物など口にしていなかったなと思い出し、フウの洞察力と手際の良さに拍手を贈りたくなった。
「貯蔵庫を覗きましたが、萎びた野菜と乾燥しきった肉しかございませんでしたわ。まともに食事をなさっているのですか?」
 少々呆れた口調で告げて、フウは一息をついた。うっすらと額に汗をして紅潮している顔にフェリオは目を丸くした。
 そう、彼女は余程頑張ってくれたのだ。
「どうぞ冷めないうちに召し上がってくださいな。」
「…ああ、ありがとう。」
「どういたしまして。」
 ニコリと微笑むフウに即されるように、椅子に腰掛ける。
 生成のシャツと天然藍で染められたズボンという出で立ちのフェリオは素足で歩いても床に違和感が無いことにも感動した。
 もう一度礼を告げようとしたフェリオは、一纏めにしていた後ろ髪を解くフウの姿に見惚れ、言葉を詰まらせる。
「どうか、なさいました?」
「いや、別に…その旨いなと思って…。」
「そういうのは、食べてからおっしゃって下さいね。」
 コロコロと笑うフウに、フェリオは顔を赤くする。そ、そうだな。と返事をしながら、慌てて食事を口に詰め込んだ。当たり前に美味しい食事に今度は本気で食べ始める。
 フウも正面に腰掛けると豪快な喰いっぷりを眺めていたが、硝子を鏡として映し出された自分の姿にハタと考え込んだ。
「フェリオ、エメロードさんの服か何かありませんか?」
「姉上の服なぞ残ってないな…。何に使うんだ?」
「フェリオの汚し方もなかなか大したものでしたから、私の服もドロドロですのよ?何か着替えが欲しいなと思いまして。」
 フウは泥で汚れた袖口をフェリオに示して見せる。
「う〜ん。それなら姉上が差し入れしてくれた服があったはずだ。まだ袖を通していないから綺麗だと思うが、それでいいか?」
「仕方ありませんわね。じゃあ、湯をお借り致しますわ。」
「ああ、持って行ってやるから、ごゆっく……え?」
 会話の流れを把握し、フェリオが顔を上げた時にはフウの姿は浴室へと消えていた。フェリオは、それでも律儀に服を手にして、慌てて脱衣所の扉を彼女の名を叫びながら開く。
「お前、何考えて…!」
 息を飲んだのは、フウが既にドレスを脱ごうと釦を外していたせいで、白い柔肌がまともに目に飛び込んだからだ。
「ありがとうございます。直ぐに上がりますから、お話は後でお聞かせ下さいね。」
 服を受け取るとニコリと微笑み、フウはフェリオの鼻先で扉を閉じた。

 …。

 無言でテーブルに戻ると、フェリオは大きな溜息を吐く。
幼馴染みの気安さは、ふたりの距離を掴めなくする。だからと言って、若い娘が一人暮らしの男の部屋に上がり込む意味を彼女が知らないはずがない。
 けれど、容易く据え膳に手をつけられる相手ではないはずだ。冗談なら質が悪いが、本気であれば…。
 そこまで考えて、フェリオは首を横に振った。
 フウを誰にも渡したくない、それが本音だ。王女だから、一国を背負うのだからと続けてしまうのは、ただ己の弱さなのかもしれない。どっちにしろ、異常なほどに鼓動が高鳴っている状態で考え事などしても結論が出るはずなどない。
 再び椅子に座り、彼女が出てくるのを待とうとしたフェリオは、窓の外から自分を凝視する相手を見付けて苦笑した。

「…なんだ、お前もいたのか。」

 窓を開け、飛び込んで来た鷹はフェリオの頭上すれすれを滑空してからテーブルの反対側へと着地した。
「そう拗ねるなよ。わざとじゃないんだからさ。」
 フェリオがクスクスと笑えば、ウインダムは大きく広げた両の翼で彼を威嚇してみせる。それでも腕を伸ばして嘴を指先で撫でてやると、緩く挟んで甘えた。
 雛の時から彼は餌を強請る訳ではないのに、甘噛みをした。人間が育てたからだと父親が苦い表情だったのを思い出す。
 父は野生の営みに干渉することを嫌い、時には非情にすらフェリオには感じられた。
「ウインダム。」
 呼び掛けると、すっと顔を向ける。凛としたウインダムの姿に、フェリオにはフウを重ねる。美しく壮大に天空を舞う王者。本当は人の手で、こんな風に育ててはいけなかったのかもしれない。
 そして、フウも…。

「貴方が泥だらけで、ウインダムが拗ねて戻ってきた訳。教えて頂けますわね?」

 湯に濡れた髪を布で拭き取り、大きなシャツから無防備に素足を晒して、フウが部屋へと入ってくる。湯の香りと熱で、部屋の温度が上がった気がした。
 そして、艶めいた表情でフウはニコリと笑った。


お題配布:確かに恋だった


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