forest story(バレンタインパラレル) 結婚


 今日という目出度い日の為にしつらえられたドレスは、美しくフウを飾っていた。
けれども彼女の翠瞳は憂いを帯びて揺れている。視線の先、ハンガーに掛けられたままになっている服のせいだった。
 昨夜、フェリオが部屋へ帰って来なかったとランティスは告げた。
 どんな事情があろうとも、たとえ恋情の醜さに心乱されたとしても、そのまま流される弱い人間でもない。幼馴染みである自分は良く知っていた。
 今日という日に、敢えてフェリオが行方をくらましたのだとすれば、彼の意志ではありえないとフウには断言することが出来た。
 彼に何かあったのだ。もしも…命に係わるような事なら…。
「…フェリオ…。」
 俯きその名を呼ぶフウは、普段見せる毅然とした姿ではなく。ただ、心を占めている人物を心配するごく普通の女性。それを見れば、きっと誰もが、婚姻を結ぶ者を想っているに違いない…そう口にしたであろう姿だった。



 自分と壁を縫い止めている鎖には長さがある。フェリオはそれを確認し、見張りについていた男が大きな欠伸をしているのを視界に入れてから、動き出す事を決めた。
 恐らくイノーバの告げる通り、このまま大人しくしていれば直に解放されるのだろう。フェリオにはイノーバがフォレストの森を掌握する事によって、この国の安泰を願っているように思えた。
 大きな戦役が大陸全土に広がらないのは、広大でその上空までもが影響を受けると言われている森が各国を引き離しているからだ。その力は絶大で、フォレストという小国が独立を保っているのはそのせいだとも言われている。
 その森番である自分を殺す理由など、彼には無い。言葉通り、フウとの婚姻に少しでも障害を取り除いておきたいというのが本音なのだろう。ひょっとすると、土壇場で婚約を拒んだ場合には、人質にでもするつもりなのかもしれない。

 しかし、所詮フェリオにとってイノーバの気持ちなどどうでもいいのだ。フェリオの頭に浮かぶのはフウの事だけ。
 彼女が気丈にあの場へと向かいながら、しかし決して心の中までそうではない事を知っている。行方不明になっている自分を心配しているに違いない。
 

「…なあ、水が飲みたいなぁ。」
 煩い大人しくしてろと怒鳴った男も、フェリオがしつこく懇願すると腰を上げた。コップを片手に近付いて来るのを見計らって手を伸ばし、受け取る瞬間に手をずらした。床に落ちるコップに視線が逸れ、前屈みになった男の首に鎖を巻きつけて締め上げる。
 気絶した男の懐から鍵を奪い取ると、フェリオは手首を軽く曲げ準備運動をこなしながら、異常を聞きつけただろう奴らが駆けつけてくるのに備えた。窓から見える太陽の位置は、待ったなしの時間を告げている。
 降り仰いだフェリオは、祈るように陽光の瞳を微かに細めた。
「行く…必ず行くから、大人しくしててくれよ。フウ。」


 聖堂。未だに儀式は始まっていなかった。
「貴方の言葉を信じて待っていますが、来る気配はありませんよ?」
 芝居がかった動作で大きく腕を上げてみせたイノーバに、フウは『申し訳ありません』と詫びた。けれど、彼女が騎士を待つもりなのだと誰もがわかる。
「彼は逃げたのではありませんか?」
 この儀式から…。暗に囁かれた言葉に、一瞬フウの瞳は見開かれた。そして、得心がいったというように瞼を閉じた。
「フェリオが来ると言ったのなら、必ず此処へ来て下さいますわ。自分に負けて約束を破るような方ではありません。」 
「私より、彼を信じると?」
 イノーバの言葉に、フウは今まで誰にも見せたことがない、綺麗な笑みを浮かべる。慈悲深くそれでいて輝くほどに美しい。

「貴方とフェリオでは比べる必要はないのではありませんか?」

 侮蔑の言葉ともとれる台詞にざわと周囲が騒ぎ始める。言葉を失ったイノーバとその側近に比べ、ランティスは普段無表情な口元を盛大に緩めた。可笑しくて仕方ないといった風だ。王の名代として出席していたイーグルも様子を同じくする。
「それとも、イノーバ王子。貴方はフェリオが此処へこれない理由をご存知だとおっしゃいますの?」
 笑顔のまま、鋭く返された質問に答える者はない。
硬直したままの状態は、暫く続くかと思われた。しかし、勢いよく開かれた扉は、フェリオと共に、動き出す時間を連れてきたようだった。
「遅く…なりまし…。」
 フェリオは静寂に包まれているはずの聖堂が喧噪に覆われている様子にたじろぎ、しかし無礼な入室をした自分のせいではないと直ぐに気が付いた。
 危惧していた事態が訪れているのだとわかり、足早に我が主とその伴侶になるべき男に近付く。ランティスが、口元を抑えて含み嗤いをしているのが酌にさわる。
「…王子…あの…。」
 フェリオの呼び掛けに、イノーバは惚けたように見つめていたフウから、フェリオに視線を移した。
「…やあ。」
 監禁していた相手が現れても、彼はもう驚きはしなかった。
「本当に来ましたね。」
「…はぁ。」我ながら、間の抜けた返事だとフェリオは思う。
「成程、貴方の言葉を信じるべきでした。」
 完全に毒気を抜かれた様子でイノーバは笑っていた。そしてフウの前に跪き、彼女の手に口付けを落とす。
「貴方のお心を射止めるには、どうやらまだ私では力不足のようです。このような若輩ものが貴方に求愛する訳には参りません。」
 すと、立ち上がりそれでも深く頭を垂れたままイノーバは言葉を続けた。
「無礼は承知の上で申し上げます。この儀は無かった事させていただけませんか。」
 フウも深く礼を返すと頷いた。そして、踵を返し聖堂を出ていくイノーバ達を見送る。
 
 溜息を付き頬に手を当てて、小鳥のように首を傾げたフウは、とても困っているように見えた。大丈夫かと気遣ったフェリオに、フウはぽつりと呟いた。

「参りましたわね。振られてしまいましたわ。それに、新調してしまったドレスどういたしましょう。」
 その台詞に、フェリオは呆れる。はあと、フウよりも盛大に溜息をつく。
「…わかった、わかった。どうしても、貰い手がなかったら引き受けてやるから…。」
 それは、幼い頃から応酬していた戯れ言に近い。たとえ、真実がひと匙落とされていたとしても、お互いに応じた事は無かったはずだった。

 しかし、紅色を水に一滴落としたように、フウ王女の頬が染まる。
今まで、他国の王子を一喝し毅然とした態度を示し続けた彼女が、瞳を揺らす。

「…今、そんな事を仰るのは、反則ですわ。」

 其処が誓いの聖堂であり、後ろ盾になるであろう人々が集う間で告げられた言葉だったのだと、フェリオが頭を抱える羽目に陥ったのは、帰国してすぐの出来事。
 綺麗に飾りつけられたチョコと共にやって来たフウに苦情を言われたのは、聖バレンタインを幾日も過ぎた後の事だった。

「貴方以外に貰い手はないと断言されてしまいましたのよ?」

 珍しく余裕のない表情で告げたフウに、フェリオはボリボリと鼻端を掻きながら思案した挙げ句『とりあえず』口付けを贈った。



〜the story next time?



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