束の間の約束


 フェリオの呟きに、フウはゆるりと顔を上げた。乱れた髪の隙間から見えるものが何だかわからない。
 意識が何処かで途切れている。自分が何をしていたのか理解出来ないまま、フウは自分が抑えつけている身体を見遣った。
 翠の髪。血塗れた首筋。
「フウ。」
 甘さを帯びた声が自分の名を呼ぶ。
「落ち着いたか…?」
 柔らかな琥珀が細められ、フウは漸くに状況を理解した。
 フェリオを床に(といべきか、玄関と床の両方というべきか)押し倒し、自らが馬乗りになって彼を抑えつけている。反射的に両手を外し、唇をその両手で押さえ込んだまま後ずさる。ガクガクと全身が震えた。

「…申し訳ありませ、私、なんてこと…。」
 怯えるフウの様子に、フェリオは慌てて体を起こした。その様子にすらフウはビクリと体を震わせる。
 フェリオは口元を覆っていた彼女の手首を掴み、胸元に引き寄せる。華奢なフウの体はフェリオの両腕に簡単に納まった。
 さっきまでの強引さが幻だったかのようだ。
「莫迦…いいんだ。」
「で、でも…。」
「お前が来てくれて、俺を求めてくれて…それが嬉しい。」
 フウの髪に顔を埋めれば、彼女独特の香りが鼻を擽った。他の誰にも感じた事のない甘やかで、それでいて心を締め付けてくる。切なさと呼ぶだろうモノが胸の中で溢れていく。
 会えなかった憔悴感など、瞬間で消えてなくなる単純な自分に、フェリオは少しだけ苦笑した。それでも、フウが、彼女がいてくれるならそれで良い。

「…すみません。」

 けれど、フウは涙声になっていた。
 抱き締めている体の震えもまた、納まらない。啜り泣きさえしている様子に、フェリオは先程とは違う(不安)に締めつけられる。
 折角彼女は来てくれたのに。
 それは普段の彼女と比べて、少しばかり乱暴なやり方だったかもしれないが、自分が彼女に血を与えると約束したのだ。それに、フウが自身を喪失するほどに自分を求めてくれのならば、感じるのは喜びだけだ。
 なのに、何故彼女にはわかってもらえないのだろう。
 柔らかな手触りの髪を何度も撫でつけ、この思いが伝わらないだろうかとフェリオは思う。
 幸せなのだ、フウといられるのが。彼女と共にあることが。

「お前の仲間になれるといいのにな。」

 さっき呟いた言葉が、自然と口をついて出た。


 フェリオは何と告げたのだ?
俯いていたフウは、くぐもった耳に届いた声に自分を疑う。
 私の仲間になりたいとは、どんな空耳だったのだ。
 たった今、自分は彼に見せつけてしまったではないか、吸血鬼と呼ばれるものの(本性)を。獲物を貪る忌まわしい姿を。

 でも、本当にフェリオがそう言ってくれたのだとしたら…?

 考えた途端、フウのざわつく胸の内が一息で張りつめる。欲が思考を支配していくのがわかった。
 温かな、フェリオの腕に包まれ顔を上げる。闇に浮かび上がって見える表情なのに、彼の微笑は柔らかい。
「…貴方はご自分が何を言っているのかわかっていらっしゃいますか?」
 ギュッと彼の袖口を掴む。もどかしさは、心の中どうしようもなく渦巻いていた。

 彼に触れ、そして触れられる度、つきまとう欲望がある。
 悪霊である自分では、どれ程おこがましいかはわかっている。だから、僅かな時間でも彼の側にいられることが嬉しいと、そう思っていた。
 フェリオは人間なのだから。だからこそ、私に血を分けて下さっているのだと。
 けれど、本当の望みは違う。
 真実の願いは(永遠に彼を自分のものにしたい)だ。愚かな願いなのはわかっている、なのに捨てる事が出来ない。

「フウは笑うかもしれないけど、俺は本気なんだぜ。」
 追い打ちをかけるように、琥珀の瞳を細めて微笑む。悪戯めいた表情も良いけれど、フェリオは柔らかな笑みがとてもよく似合う。
 触れたくて、指先を伸ばしてみたもののそれは震えて届かない。
 笑みを浮かべる表情のままで、フェリオは瞼を落とした。僅かに残る憂いに、フウは気付けない。 
 
「…なんて、お前に血を分ける事が出来ないから、駄目だよな。」
 
 戯けた声色で、フェリオが紡いだ言葉。
 フェリオに自覚が無かったとしても、フウは自身の矛盾を言い当てられた気がした。

 私は何がしたいのだろう。
永遠にフェリオを自分のものにしたい。なのに、彼の血が欲しい。

 あまやかで優しい感情を彼が惜しみなく注いで下さったから、私は甘える事を知ってしまった。人は全て、獲物で、恐怖の対象だったけれど、フェリオだけは違っていた。 

 誰よりも、何よりも、そして自分よりも、私は彼の事が好きで、愛しい。

 追っ手を避ける為、フェリオの元を訪れなかったけれど、飢えと憔悴は押さえ込む事さえ難しい状態になっていった。このまま灰になってしまって構わないという想いと、無い命を必死に留めようとする浅ましさが交差した時、結局欲が自我を凌駕した。
 本能なのか、それともフェリオが恋しかったのか自分でも判断はつかないけれど。私はそこまで溺れていたのだろう。

 彼に。

「…もう、飲みません。」

 見開かれていく琥珀。

「……貴方の血なんか、もう必要ありません。」
 
 これ以上側にいたら、私は本物の悪霊になってしまう。フェリオを己の闇へと引き吊り落とし、永遠に閉じ込めてしまいたいくなる。
 ただ側に何て言い訳は、追っ手が現れた以上通用しないはずだ。自分の身ならまだしも、彼等はフェリオの存在を見逃しはしないだろう。
 
「契約は…破棄致します。」
  
 悪霊を溺れさせる瞳を自分の中に写して、フウは唇を震わせた。

 ◆ ◆ ◆ 

 喧騒から遠い場所。
古びた扉へと落とされるノックの音すら、奇妙なほど、室内に響いた。
 コクリと頷くクレフに従い、ランティスが扉へ向かい古びたノブを回した。おんぼろ校舎に相応しい掠れた音をたてて開いた扉の先、クレフが待ちわびていた青年が姿があった。
 翠の髪から覗く瞳は暗い。憔悴した表情が垣間見える。
 
「必ず来ると思っていたよ。」

 ただ突っ立つ青年に、クレフ教授は、そう告げニコリと微笑んだ。
それでもフェリオは肩に掛かったショルダーバッグの紐を握りしめたまま、俯く。
 始めて彼に会った時の様に酷く顔色は悪かった。それが(体調)などという代物で無い事をクレフにはよくわかっていた。
 今の彼には魂が抜けたなどという言葉は酷く滑稽だろうが、きっと相応しい言葉なのだろう。
 夜に彷徨う者達と係わりを持ってしまった人間の、定めだという事も。

「まあ良い、入りたまえ。」
 
 一向に部屋へ入ろうとしないフェリオがある種の葛藤を秘めている事さえ、クレフには手に取るようにわかる。
 それでも、踏み込むか否かは、フェリオ自身の選択に委ねねばならない。苛立ちの気配を背中に感じ、クレフはランティスを制する。
 急いては事を仕損じるものだ。
 漸くのちに、一歩を踏み出したもののギシリと鳴る廊下が躊躇いを生む。それでも、フェリオはゆっくりと部屋へ踏み込んだ。
 クレフの横を過ぎて、ランティスの前で脚を止める。

「…俺は、哀れに見えるか?」
 小さな呟きを、ランティスは肯定も否定もしようとはしなかった。
二人の様子を見ながら、クレフは扉を引く。再び鈍い音を立てて閉じた建物は、ただ静かに沈黙を守った。


〜Fin ?



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