束の間の約束


 約束なんてした訳じゃない。

 フェリオは街角に立ち、夜空を見上げた。下弦の月が申し訳程度に薄ぼんやりと浮かんでいる。月が膨らみ、そして萎んでいく様を眺め続けているけれど、フウは来なかった。
 (約束なんてした訳じゃない)フェリオはもう一度繰り返す。そして、否定の為に首を振った。

 違う、約束はしたのだ。

 自分が、彼女に血を与えると、ただそれだけの契約だった。
 (いつまで)、とか。(いつ来る)、とか。そんなもの何一つ与えられていなかったのだと、フェリオは改めて気付かされた。そんなことを想う間もなく彼女は自分の元を訪れ、自分はその事実を当たり前だと信じ初めていた。
 けれど、彼女は来ない。
 ぼんやりと歩道に立っていたせいだろう。通行人と肩がぶつかり我に還る。
剣呑な表情をしたサラリーマンが、一瞥してくるのを「すみません」とやり過ごして、また歩き始めた。
 そして目に入った人物に、またかと思う。−ランティス−
 偶然ではなく、意図的に、俺の前に現れるのだとあからさまにわかってしまう。
 そう言えば、コイツが現れてからフウが来なくなったような気もした。
とんだ、疫病神だ。
 苛つく気分そのままに、フェリオは大股で相手に近付いた。普段ならば、無視をして通り過ぎていたが、今日はそれが出来ない。憔悴感が、全身を犯す毒に似ている。
 わかっているのに、制御出来ない。

「どういうつもりだ。」
 敬語は最初から吹っ飛んでいた。
 噛みつく台詞は自然に低い声になる。しかし、ランティスはフェリオを一瞥しただけで組んでいた腕を解くことさえしない。
 それは、フェリオの苛立ちを募らせる結果を生んだ。
「俺の事をチョロチョロ追い掛け回しやがって、一体どういうつもりなんだと聞いているんだ!」
「…。」
「おい…!?」
 それこそ胸ぐらに手を掛ける勢いだったフェリオの二の腕を反対に掴み、ランティスは歩き出す。振り払うつもりで上げた腕は押さえ込まれ、(自分が先に手を出したにも係わらず)感情が沸いた。
「離せ…!この「騒ぐな、往来で(吸血痕)の話をするつもりがないなら、来い。」」
 
 …!?

 言葉の衝撃に息を飲む。フェリオは、思わずランティスの顔を凝視した。
僅かに眉を歪め苦々しい表情に変わっているランティスは、しかしまま歩き出す。
 そして、(怒りではなく)フェリオは彼の後を追わない訳にはいかなかった。

 何故、コイツは知っているのだ。

 人混みを抜け、古びた雑居ビルの間を潜る。沈黙したまま歩く男の背中を追っていけば、ピタリと動きを止める。僅かな距離を置いて立ち止まったフェリオを振り返り、それでもランティスは無言だった。
 ビルの谷間と呼べそうな場所は、切り取った夜空が見える。それでも、覗き込む様な月がふたりの姿を照らしていた。
 (どうしてわかった? 教授の部屋を訪れた、あの時から知っていたのか?)
 目前の男に問い質したい事は山程あったけれど、今まで告げなかった言葉を敢えて口にした、ランティスの意図は読めなかった。
 うっかり…とかじゃないよな。
一瞬浮かんだ想いは否定する。そんな間抜けな男じゃないだろう。

「聞きたい事があるんじゃないのか?」

 考え倦ねているフェリオは、問われてランティスを睨み上げる。
 余計な事を言うつもりなど更々ない。フウとの甘い秘密を独りで抱え込んでいく、それが自身の望みだと自覚もしている。
「…アンタが話してくれるんだろう?」
 誘導尋問を避ける為に敢えてフェリオはそう告げた。
「俺は何をするつもりもない。ただ、待っているだけだ。
 ああ、しかし、教授はお前の心配していたな。いつ来てもいいように扉を開け連絡を待っているそうだ。」
 不機嫌そうな表情のランティスは肩を竦めてみせる。
「…余計なお世話だ。アンタ達の趣味でつけ回されるのは迷惑でしかない。だいたいアンタ達に何がわかる。」
「彼等は危険だ。…お前にも、いずれわかる。」
 ふいと背を向け立ち去ったランティスの姿が視界から消え、フェリオはふいに力の抜けた体に、とてつもなく疲労を感じた。
 取り敢えず、家に戻らなければという思考だけが辛うじて働く。どこをどうして帰ったのか全く記憶に無かったけれど、気づくアパートの扉が目の前にある。

 此処にいる自分が本当の自分なのか、それとも…。

 思わず陥りそうになる思考を振り払い、ガチャリと鍵を回して、ドアノブに手を掛ける。
その途端、顔にかかった影に振り返ったフェリオの視界は、体当たりをしてきた何かに遮られた。
 寄りかかった扉が僅かに開く。

「…っ!?」
 
 月に輝く亜麻色の糸。

 ふらりと倒れ込む身体を抱き込んで、顔を覗き込んだ。
「フウ!」
 口走ったのは、確かに歓喜の声だった。待ち望んだ彼女が、自分の目の前にいる。
 けれども、元から透き通るような白い肌である彼女の顔は、やつれたと表現しても間違いではないほど悪かった。
 何故を告げようとしたフェリオを遮るように、フウの両手がフェリオの肩に抱き着いた。翡翠の瞳を細めた彼女の違和感に、フェリオは一瞬目を見開く。
 フウが眼鏡をしていない。
いや、吸血鬼である彼女にそもそも眼鏡など必要だったのだろうか?
 擦り寄る猫の仕草でフウはフェリオの首の頬を寄せたかと思うと、彼女の唇は自分の首筋に当てられていた。
 弾力のある肌が彼女の牙を弾き、更に加えられる力に表皮が破れる。
 首に食い込んでいく彼女の牙が与えるモノに、膝が笑った。決してフウが重い訳ではないが、身体中から抜けていく力に逆らえない。
 支えきれないまま、玄関に倒れ込んだ。支えるモノがなくなった扉が閉まる音は、玄関と床に寝ころんだまま聞いた。
 それでも、フウは離れる事はなく。ある意味では情熱的な光景だったのだろう。
 床にだらりと垂れ下がっていた左腕を持ち上げて、彼女の後頭部を手で覆い撫でつける。フウの邪魔にならないように柔らかく、何度も何度も繰り返した。
 込み上げてくる感情が(愛おしい)というものでないとすれば、それ以外どんな想いがあるのだろうとフェリオは思う。
 灯りをつけず、真っ暗な部屋のなかでふたり。カーテンを引いた窓からは月明かりでさえ落ちては来ない。闇のなかで、沸き上がる恐怖の感情に苦笑する。
 生き物は本能的に闇を恐れるらしい。それも、獲物として租借されている最中ともなれば、己の思考とは関係ない恐怖はフェリオを捕らえていく。
 それでも、一心不乱に彼女の白い喉が嚥下する様子は酷く無防備で、幼い子供のようでもあった。
 ああ、そうだ。フウはいつも光を恐れていた。
部屋に灯りをつけることを望む事もなく、外で逢う時には車のヘッドライトにすら怯えていた。
 闇が彼女を隠し守ってくれるというのなら、いつまでも闇の中だってかまわない。
こうして二人でいられるのなら、俺はそれで良い。
 ランティスとのやり取りを思い出せば、その欲求は強くなる。

「お前の仲間になれるといいのにな。」


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