束の間の約束


 ガタンと時折大きく揺れる事で、フェリオはふっと我に戻った。

 朝の車輌は乗客でごった返していた。
 目覚めた時は肌寒いほどで、駅に向かう時にはもう一枚着込んでくるべきだったかと思ったのに、この箱の中は蒸し暑いほどだ。
 日本人は体臭を感じさせない民族だなどと言われるが、朝の通勤ラッシュに閉じ込められれば、なかなかのものだと言わざる終えない。
 加齢臭と呼ばれる物とか過度な香料が生暖かい空気で、汗の臭いとも混じり合い不快な臭いがするのと、人が多すぎて身動きが取れない。
 不快な空間に身を置くコツは、深く意識しないこと。そうすれば、車輌を下りたら、無かった事だ。
 
 まるで幻のようだ。とも思う。

 腕に抱いていた彼女が、自分が目が覚めた時には既に居ない事にもよく似ていた。
 柔らかな髪も、冷たい滑らかな肌に触れていたはずなのに、全てがまやかしの様に感じられた。
 確かに其処にあったと思うのだけれど、朝日に照らされた、彼女の痕跡がない部屋にいると、それが現実なのか妖しく思う。根拠が揺らぐ。
 夜にだけ舞い降りてくる妖しい吸血鬼。それは、俺の幻想なのではないか?
ふいに、そんな事を思う。
 
いや…。

 ふるりとフェリオは首を横に振って、己の考えを否定する。

(そもそも、現実はどっちなのか?)

 フウのいない日中でこうして過ごしている自分が、果たして現実を生きているのか?

「フェリオ…!」
 ポンと後頭部を叩かれ、フェリオは後方を仰ぎ見る。口をへの字にしたアスコットが教科書を片手に立っていた。茶色の長い前髪が、瞳を隠しているにも係わらず、孤の字に上がった唇に、面白がって居る様子が窺えた。
 (考え事をしてたのに)と抗議しかけて、フェリオは此処が講義室で自分は授業を受けていたのだと思い出した。
 しかし、教卓をぐるりと囲んだ机に学生の姿は疎らだった。
「講義も終わったってのに、何ぼおっとしてるの?」
「終わった…。へ、終わった…!?」
 慌てて見直した手元のルーズリーフは、美しいまでに真っ白だ。流石のフェリオも唖然となった。
「横目で見てたら、ぼおっとしたまま動かないし、どうしたの? 眠い?」
「眠かったら、寝てるよ。」
 フェリオは大きく溜息をついて、ああと言葉を漏らした。
「何やってんだ、俺は。」
「ホントだよね。あの先生の試験、本に載ってない事がバンバン出るのにさ。」
 クスクスと笑うアスコットが酌に障り、ついむくれた表情になる。それでも、そっと差し出したフェリオの掌に、アスコットはノートを乗せた。
 すまないと片手で拝む仕草をしつつ、フェリオは教科書とノートを鞄に仕舞う。
「でも、何考えてたの? 悩み事?」
 フェリオは、もう一度アスコットの顔を仰ぎ見る。暫く思案していたけれど、徐に口を開いた。
「お前はさ、今此処にいる自分が本当の自分かどうか、なんて思った事があるか?」
 きょとんと目を見開いてから、アスコットは訝しそうに声を潜める。
「それって、胡蝶の夢?」
 試験にでも関係があるのかと、アスコットは付け加えたけれど、フェリオは流してしまう。
「胡蝶…、荘子だよな。
 自分が蝶になった夢を見たのか、蝶が見ている夢が俺なのか…そんな感じだ…。」
 
 フウといる時が本当の自分なのか、それとも今こうしている自分が本当なのか?

「近頃のフェリオは変だよ。疲れてるみたいだし、よくぼーっと考え事してる。
 つき合いが悪くなったから、恋人でも出来たんじゃないかってゼミの人達が噂してたけど、僕はデートしてるの見たことないよ?」
 事実なのかとアスコットの目が問う。
「…好きな奴はいるよ。」
 明言を避けたのは、フェリオ自身も自信が無かったからだ。
自分は夜毎待ちこがれる程に、フウが好きだ。今こうして自分を見失いそうになるほどに、彼女に恋をしている。
 けれどフウはどうなのだろう。
 吸血鬼である彼女は、ただの捕食者である人間を恋人として見てくれているのだろうか。血を搾取する為の芝居。良くて、奪われる者に対しての哀れみ。
 そんなはずはないと否定しながらも、同時に確かなものも何も無いのだと、フェリオはそう感じていた。

 心配はしてくれているのだろう。
 アスコットは困ったような表情で、こちらを見つめている。掛ける言葉を選んでいるらしく、時々口を開いては、閉じていた。
「…まぁ、やっぱり疲れてるんだよな。」
 最初にアスコットが問いかけてくれた言葉を選び、フェリオを苦笑いを浮かべて席を立った。そうすれば、アスコットも納得した様子で講義室を出ていくフェリオの後を付いてくる。
「疲れてる時には、甘いものだってさ。」
 母親が言うような台詞に、クスリと笑った。
 ふとした思考の隙間で、物思いに耽る事が多くなったとフェリオは感じた。彼女を好きになる前は、確かにそんな事は無かったように思う。ありもしない、確かな何かを求めているのもおかしな話しで、自分は何処か情緒不安定なのかもしれない。
「じゃあ、何か食べて帰るか…。」
 廊下に出た途端、そこにいる人物と目があった。
 黒いタートルネットのセーターに、黒いパンツ。鋭い眼光は、真っ直ぐにフェリオを見つめていた。視線が合えばこっちへ来いと顎で呼ぶ。
 偉そうな態度には見覚えがあった。クレフ教授の助手で、確かランティス。
 用事があるのだろうと、脚を踏み出す前にフェリオの身体は再び講義室に引き戻された。見れば、アスコットが腕を引っ張り、その小さくもない体をフェリオの背中に顰めようとしていた。
「何だよ?」
 警戒心を顕わにしたアスコットに、フェリオはキョトンとした表情を浮かべる。けれど、眉間に皺を寄せたままアスコットは声を潜めた。
「フェリオ、あの人と知り合いなの?」
「知り合いっていうか、クレフ教授の助手だろ?」
 質問を質問で返すと、アスコットは(評判悪いんだよ)と付け加える。
「すっごく無愛想で、課題を聞きにきた生徒に(何故俺がって)追い返したなんて噂も聞くよ? 助手らしい仕事してるの見たことないって。」
 
 …あの男ならやりかねないかもしれないかも。

「だいたい学部も違うのに、一体フェリオに何の用なの?」
 アスコットの態度は、まるでヤクザに因縁を付けられた時ようだ。そこまで非道な奴じゃないと、フェリオは苦笑を浮かべた。愛想がないので、誤解を受けやすいタイプなんだろう。

「ちょっと、いいか?」

 ふいに掛けられた声に、アスコットの身体がビクッと跳ねる。それを怪訝そうな表情で一瞥したランティスは、再びフェリオに視線を戻した。
 コクリと頷くと、怯えるアスコットに大丈夫だと手を振ってやる。ランティスの背を追っていけば、階段の踊り場で向きを変えた。
 目の前に名刺が差し出される。受け取りもせず、フェリオは眉間に皺を寄せた。
「…レポートだったら書くつもりはありませんけど…。」
 そう言うと、ランティスは口角を上げた。
「俺も書いた事はない。教授がお前にご執心でな、渡して来いと言われただけた。」
「何で、俺なんかに…。」
 渋々受け取れば、クレフ教授の個人的な連絡先のようだ。
 吸血鬼マニアの教授に目を付けられるのは、フウの事を考慮しても面白いものではなかったし、欲しいとも思わない。
 一度は受け取った紙切れをランティスに差し戻し、丁重に断りをする。けれど、ランティスは目を眇めた。
「…どうしてそこまで拒絶する必要がある?」
 大学でなかなか人気のある教授とお近づきになる事は、本来なら歓迎されることなのかもしれない。
「何故って…、頂く理由もないでしょう?」
 問答していても仕方ない。フェリオは紙切れをランティスに突き出したまま沈黙する。
 ランティスはそれを眺め、ふっと顔を上げた。
「…友人が呼んでいるぞ。」
「え?」
 背後を指さされて、反射的に振り返る。勿論アスコットの姿は無く、無防備なフェリオの首筋にランティスの掌が触れていた。
 思わず、手を弾き後ずさる。
「…!何す…。」
 表情を変えないランティスは、叩かれた手を一瞥し表情をきつくする。怒っているように見えた。

「…哀れだな。」

 捨てずぜりふの様に呟いたランティスの真意を測りかね、フェリオは抗議の声を口で噛み殺した。立ち去るランティスの背中を見送る。
 手の中には紙切れが残され、なんとも言えない不快な気分に唇を噛んだ。

なんだってんだ、一体…。

「フェリオ、どうしたの?」
 怖ず怖ずと声を掛けてくるアスコットに、つい八つ当たりをしてしまうのはアイツのせいだ。理由も言わず、ただ吐き捨てる。
「別に何でもねぇよ。」
 手にした紙切れも、上着のポケットにギュッと押し込んだ。
「やっぱり、嫌な奴なんだね。」
 納得したようなアスコットの声に、ただ同意出来ない事にフェリオは口を閉ざした。ランティスが触れた部分は、フウの牙を受け入れた場所であること。あの時、クレフ教授も酷く気にしていた事も思い出した。
『哀れ』と告げてきたランティスの表情は、己に対する同情だったのだと思い直せば、フェリオの表情は余計に塞いだものになる。

 何で俺があいつの同情をかうんだ…?

「さっきも、殴られそうになってたし、大丈夫?」
「いや、あれは首を…。」
 撫でられたと答えたフェリオを見るアスコットの表情が一変する。顔色を変えたアスコットは、ゴクンと唾を飲んだ。
「………まさか、フェリオの好きな人って。」
 よもやそんな方向へ話しが飛ぶとは思わなかった。眉間に深い皺を刻み、フェリオは引き攣った笑みをアスコットに向ける。
「誤解だ。」
「大丈夫。僕、友達だから誰にも言わないよ。信じてよ。」
 (デートの目撃談がないのはそのせいか)とか(女子の好感度下がっちゃうかなぁ)などと思案するアスコットの首を思いきり締め上げたい衝動にかられて、大きな溜息を吐いた。面白がっているのはわかるが、相手をする気力もない。
「…頼むから、誰にもいうなそんな話…。」
 取り敢えずは釘を刺し、フェリオはもう一度溜息を吐いた


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