束の間の約束


 ニコリと、恐らくクレフ教授は微笑んだのだろう。
 けれど、彼の淡い色をした瞳は、ジッとフェリオを凝視していた。そして、本棚をぐるりと見回し、両手を上げると歌うように語りはじめる。
「吸血鬼の伝承は世界各地で見られ様々な名が伝わっている。古くから血液は生命の根源だと考えられていて、死者が血を渇望するという考え方から生まれたのが(吸血鬼)の存在だと言われているよ。
 勿論、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』のイメージも世間では広く知られているが、まあ、あれは映画や物語の中で語られる、空想だと私は思っている。」
 滑らかに言葉を続ける教授は、フェリオの相槌も助手の同意も、何ひとつとして必要としてはいなかった。悦に入った表情は、老獪であったり若造のようであったり、様々な表情を伺わせる。
 外の喧騒から取り残された雰囲気のある研究室に響く教授の声は、映画のワンシーンだ、フェリオは漠然とそう感じる。
 訥々と、クレフが(吸血鬼)を語っていく場面。まるで自分は、偶然居合わせ、ストリーに必要な解説を聞かされているように思えたのだ。

 偶然?

 不信感がフェリオの脳裏を掠める。
 偶然に自分は吸血鬼の契約者で、偶然に大学の教授が吸血鬼マニア。映画ですら、そんな出来過ぎた物語は作らないのではないだろうか。
 其処になんらかの意図があるとするのなら…?

「はい、手を出して。」
 ふいに命じられ、言われたままに差し出したフェリオの両手に本が2冊置かれる。
「へ?」
 え、えっ?と読めない状況に混乱している間に、本は4冊に増えていた。そこで初めて、クレフ教授が鼻歌を口ずさみつつ、棚から取り出した本を重ねていることに気が付く。
「きょ、教授…!」
「これとこれは復刻版だが原文をまま模写したものだから、内容的には変わらない。 こっちは私のお薦めで…アジアの記述も面白い、欲しいかね?」
「いえ、お、れ…じゃなくて、僕はいりませ、あの!?」
 先程と同じく、全く人の意見い耳を貸そうとしない教授は、トントンと本を増やした。
 救いを求める視線で助手を仰ぎ見たものの、我関せずの無表情な視線が戻された。それでも僅かに同情の色が見えているだろうか。
「以前聞いて…、君は面白いレポートを書くと、ほら、何と言ったかな、ゼミの教授、ああ、歳を取ると名前が出なくていけないねぇ…が言っていたのを聞いてね。」
 ニコニコと笑う表情がまるで子供だ。

「いえ、いや、課題以外で書きたくも…な。」

 ハッと口を抑えれば、本はドサドサと床に落ちた。慌てて掻き集め彼の前に差し出すと、にっこりと微笑む。
「正直だな、君は。」
「申し訳ありません。」
 体調の不備でも迷惑を掛けた相手だから、殊更に決まりが悪い。だからと言って、教授から手渡された資料を基に、吸血鬼のレポートなぞを書くつもりも毛頭ない。
 下げた頭で全てが解決するのなら、それが一番だろう。
 両腕を差し出したままでいれば、クスクスと笑い声がした。
すっと軽くなる両手と同時に顔を上げれば、眉を大いに下げた無念そうな表情を見せたが、すぐに笑顔に代わる。
「仕方なかろう。私の弟子なら、有無は言わせないところなんだが。」
 向けられた視線に、無口な大男は教授を避けるようにそっぽを向いた。
「ランティス。」
「教授では手が届かないだろう、戻しておく。」
 誰に頷くでもなく、うんと首を振り軽々と教授の手から本を取り戻した。子供扱いされた教授は助手に食ってかかるけれど、黙々と作業を続ける助手は相手にしようとはしなかった。
 ひょっとして、これは視界に入ってないって事なのだろうか。そんなふたりのやり取りに、フェリオはクスリと笑みを漏らす。
 
「それは、君のくせかね?」

 不機嫌そうな表情のまま、クレフは右手で左の首筋を押さえてみせる。フェリオが何の事だかわからず、目をパチパチしてれば困った表情に変わった。
「無意識にそうしているようだが、くせでなければ怪我でもしているのだろう。どれ…。」
 見せてみろと指を伸ばされ、咄嗟に首筋を手で押さえて後ずさった。勢いよく下がったせいで、背中は本棚と接触し、ランティスの視線まで浴びるはめになった。
「え、その、怪我じゃないので…、」
 怪訝な表情には愛想笑いで誤魔化した。じゃあ何だと言われれば、明らかに困る。
そこは昨夜、フウの牙を受け入れた場所。
 今は癒えた傷だが、皮膚が裂傷した事に違いはないから何処か違和感があり、無意識に触れていたに違いなかった。
 キスマークのひとつでも残っていれば、それを言い訳に出来たろうにと思い、その考えに赤面する。

 なんだよ、そのエロ親父みたいな思考。

 かぁとドンドン赤くなる様子に、教授がきょとんとした表情に変わる。そうして息を吐いて、こう付け加えた。
 
「まぁ、いい。それでも困った事があれば来い、いつでも相談に乗ろう。」

  ◆ ◆ ◆

 夕闇が空を覆い地に星が堕ちて輝き出す時間には、部屋にあかり灯る。
 幾らか遅い時間まで灯らない日は、大抵はバイト。そうでない時は大学での用事か友人達と過ごしている日。
 普通を知ることのない自分だけれど、フェリオはそういう生活が(普通)だと言っていたのを思い出す。
 
 風は夜風に揺れる髪を手で抑え、特別でありふれた風景を見つめていた。

 多くの人々が暮らし、密集した建物に場所の特定すら難しいだろう街。建築物にも際だった特徴の少ない街なのに、自分にとって特別の場所がある。
 こうしているだけで、吸い寄せられるように視線を奪われ、小さな窓にあかりが灯っただけで胸の奥がジンと熱くなる。
 今すぐに、それこそ飛んで行きたい自分と否を唱える心がいつも鬩ぎ合う。
 ホウと吐いた吐息の熱さに、風の頬が染まる。

 闇の中で吐息を交わした。
 触れ合った肌の熱さに目が眩みそうになって唇を求めたる。何も見えなくても、呼び合う名前に、ただ喜びを覚えた。
 それでも、睦言を告げるでもなく眠り込んだフェリオの体調から、彼が酷く疲れている事は感じられた。ただでさえ自分は彼の生命活動を担っている血液を餌として窃取しているのだ。それを貪り、彼自身を貪れば先に待っているものがなんなのか知らないはずがない。
 ギュッと掌を握りしめて、風は俯く。
 こんな時にもしも、を考えてしまう自分は随分と馬鹿げているのだろう。
もしも、自分が吸血鬼などという奇異な存在ではなく、普通の人間ならば。
彼と同じ種族で同じような生活を送っていたのなら。

 せめて陽光の下で微笑むフェリオを見つめていられる存在であったなら

 ふるりと横へ振れば、ポロポロと堕ちる雫が足元の床に染みをつくる。涙を流していたのだと思い、風は唇を噛んだ。
 悔しかったのは、想いが遂げられないからではない。
 フェリオが陽光の中で生きる人間だと理解してもなお、闇が永遠に続けばいいと望んでしまう自分の欲深さに対してだった。
 彼が何よりも大切だと思いながら、望むのは人であるフェリオを追いつめてしまう事だけだ。
 こんなところで見ているから余計に…わかっていても身体が動かない。
 時折、窓のカーテン越しに揺れる人影に吸い寄せられそうになる。踏みとどまるのに必死で、ギュッと握った指先はいつしか痛みすら感じなくなっていた。願うように胸元に押しあてて、俯く。
 吸血鬼である自分が一体何者に願うというのか、誰だって自分の願いを叶えてくれるものなどいないだろうに…そんな自問自答ですら滑稽だ。

 それでも街灯りが消えていく頃には、フェリオの部屋のあかりも消えていた。今夜は自分が来ないのだと思い、眠ってしまったのだろう。
 顔だけでも見たい。せめて、と心が訴えた。
彼の眠りを邪魔する訳ではない。きっと窓は開いているだろうから、寝顔だけを見て立ち去れば良い。
 思った時には、身体は宙に浮いていた。

◆ ◆ ◆

 見慣れた部屋。
 フウが通うようになって、窓が閉じられているのを見た事はない。今宵も、約束のように扉に鍵はかからない。
 音を立てずに降り立ち、ベッドへと歩み寄った。
 高鳴らないはずの心臓が締め付けられた気がして、血を体内に受け入れた時にだけ感じる鼓動や温かな血の巡りが起こっている錯覚を感じた。
 そんなはずはない、私の身体は随分と昔に生きる事をやめている。
 フェリオは薄手の毛布を被り、壁を向いて眠っているようだ。軽く上下する布に、寂しさと嬉しさが込み上げてくる。
 顔を覗き込もうと、腰を屈めた瞬間にフェリオが大きく寝返りを打った。ハッと息を飲んだフウは、寝返りでない事にも気が付く。
 琥珀の瞳がじいっと風を見つめてから、笑みと共に細くなった。
「フウ。」
「フェリオ…!」
 声を上げ、その大きさに唇を掌で覆う。時刻は深夜。時計の針は右に大きく傾いた時間だ。
「…お休みになっていらっしゃらなかったのですか…。」
 立ち尽くす風の驚きようが余りにも酷く、フェリオは笑みを引っ込め困った表情で頭を掻いた。
「昨日昼寝をしてしまったせいか、寝付けなくて…。それに、灯りを消して居た方がフウが来てくれるような気がしてた。俺の体調を随分と心配してくれてたみたいだったから、明るいうちは姿を見せてくれない気がしてさ。」
「…私を騙、「ちょ、ちょっと待った、ストップ」」
 表情を険しくしたフウに、フェリオは慌てて声を掛けた。
「俺は思っていただけ、だから騙した訳じゃない。そうだろう? それにお前がくるかどうかなんて、わからないし…。」
「それは、そうですけれど…。」
「でも、お前が来てくれて嬉しいよ。」
 ふふと笑い、フェリオは身体を起こすと同時に、フウの額に口付けを落とす。一瞬で赤く染まる頬が愛らしい。
「フェリオ…!」
「俺に逢いたくて、来てくれたんだろ?」
 そ、それはと口籠り、フウは真っ赤になって俯いた。
「お前が心配するから、血も肉も無し。だったらいいだろ? 側にいてくれ。」
 両手で持ってフウの手を引き、ベットへと誘う。
何もしないと告げる代わりに、両腕でフウを抱き締めたまま横になった。背中から回された腕が、フウの腰でクロスした。
 気恥ずかしくて、けれど温かな腕の中は心地良い。
「あの、休んで…くださいね。」
 小さな声で呟くと、耳元でわかったと声がした。息がかかる耳元が熱くて、フウの頬は染まっていく。両腕の置き場にも困り、フウは自分を抱き締めているフェリオの腕に指先を置いた。
 フェリオが嬉しそうに笑ったのがわかり、やはり気恥ずかしくて顔を隠す。

「その者、汝が招かざる扉を潜る事は出来ない。」 

 ポツンとフェリオが呟いた。
「それは、吸血鬼の伝承ですわね。」
 コクリと頷き、フェリオは言葉を続けた。
「さっき目を閉じながら考えてた。それが本当ならば、招かない相手が入れないなら、欲しいと望めば来てくれるんじゃないかって。」
 お前が来てくれたから、どうでもいいんだけどな。
クスクスッと笑い、フェリオはフウに頬ずりをする。子供の様な仕草に、フウも微笑む。彼の少し癖のある前髪が襟足に触れ、擽ったい。
 なんて柔らかで、温かな時間。
「…本当かどうか、試した事はありません。」
 フェリオは、フウの言葉を怪訝に思う。
(試した事がない。)それは、彼女が人の暮らしの中に入り込んではいないという事だ。
「こんな風に、お宅にお邪魔することなど、ありませんでしたから。」
 誰かに、求められて居に招かれ共に過ごす。そんな時間は、吸血鬼として目覚めてから一度もなかった。多くの人々に追われ、怯えながら廃墟で蹲っていた事なら、どれほどにあるだろう。
 血を奪うだけなら街角で事足りる。壁の中に追いつめられる方が危険で、自らを晒す行為など、最初から望むはずもない。

「貴方が望んでくださったから、私は扉を潜れるのですね。」

 フウは改めて、フェリオの腕に抱かれていることの希有さを感じた。
彼の掌を両手で包み、頬に当てる。温かな、その身体。
 生きている証。
 フウは、夢に浮かされている様な心地でそっと瞼を落とした。



〜To Be Continued



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