ふわりと指先が離れていく。
留めておきたいと願い、夜明けが近いと身体を手放す。今日もそんな朝だった。


束の間の約束


「どうした?」
 
 急に声を掛けられ、フェリオは反応出来なかった。酷く重く感じる右腕を上げて、俯いている顔を持ち上げるようにしながら前髪を掻き上げる。
 焦点の合わない視線に、薄紫の髪と、年齢不詳の顔立ちが映った。

誰…だ?

 馴染みのない顔。しかし、眉間に皺を寄せてこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
 もう一度問われ、フェリオの思考は少しだけ動き出した。
 うっかりと…。
 そう、うっかりと昨夜フウに血を分け与えたのを忘れ朝食を抜いたのだ。大した事ではないだろうと高をくくっていたが、学校へ行くまでの電車で目眩を起こし、気分が悪くなった。辛うじて講義に顔を出したものの、立っているのも辛くなり座り込んでしまう。
 今更ながら此処は何処だったのだろうと思い、周囲を見れば芝の上に座っていた。講堂と棟を結ぶ中庭だとその時気付く。

「クレフ教授。」

 遠くで、誰かが名を呼ぶ。
 …そうだ、この顔。学部が違うから出合う事などないが、広報誌で見た気がする。
「ああ、ちょっと手を貸してくれ、ランティス。彼を研究室へ運びたい。」
「大丈夫、です…少し貧血気味で…。」
 肩に置かれた教授の腕を外そうとすれば、その手を止められた。
「顔色もよくない。私の研究室はすぐ其処だ、少し休んでいきなさい。彼など、そのソファーでいつも昼寝をしているから遠慮はしなくていい。」
「教授。」
 今度は不機嫌そうな別の声が上から降ってきた。まま、腕と肩を持ち上げられ、男に肩を借りた状態で立ち上がっている。
 見下ろす視線に教授がいた。
「…すみません…。」
 フェリオの謝罪にクレフはニコリと笑う。
「気にするな、ゆっくりと休むといい。」



 時間にして、どれほど経ったのだろう。フェリオはゆっくりと目を開ける。
身体を起こす事なく、視線を斜めに走らせる。そうしておぼつかない記憶と視覚が一致した。
 クレフ教授の研究室。
 眠る前とは違い、今は記憶も思考も鮮明だ。
「…あ…っそか…。」
 ぼつりと呟き、もう一度部屋を見回す。
 棟の中でも最古を誇る古い校舎。床は長い年月を感じさせる深い色相の板敷で、それでも手入れは行き届いているらしく埃ひとつない。横になっているソファーからは、テーブルと一人掛けのソファーを挟んで、重厚な造りの机と天井に届く大きな窓が見えた。
 左右の壁にも年代を感じさせる書庫。硝子の扉がついている部分もあれば、無造作に本が積み重ねられているところもある。それでも密やかな様子は、自分が所属しているゼミの雰囲気とはまるで違っていた。
 此処だけ時間の流れから取り残されているようだ。

「目が覚めたか。」

 ふいに声を掛けられ、慌てて身体を起こす。
自分が眠っていたソファーの背と扉の間に、黒尽くめの男が立っていた。左脇に厚さが10センチ程度の本を幾つも抱え、片手で支えている。
 妙に迫力のある男に圧され、こくりと頷いたフェリオに納得したように、そうかと返事をする。
 そして、手にした本を棚に入れ始めた。
「…教授は。」
 礼を告げようと、身体に掛けられていた毛布を畳み立ちあがり、フェリオはそう尋ねる。しかし、男は答えを返すではなく別の言葉を口にした。
「お前は、寝不足なのか?」
「…え…?」
 唐突な問いかけに、フェリオの返事にも疑問符が付いた。
「貧血という事ならあれだけ熟睡はしないだろう、心当たりはないのか?」
 男の言葉には思い当たる節があった。
 昨日もフウに血を提供している。
 勿論、血を分け与えるだけではなく会話を交わしたり、それ以外の事もした。朝一番から授業があったから、睡眠時間は多くない。ああ、それで余計に体調を崩してしまったのかと納得した。
 彼女との逢瀬はいつも夜に限定されている。彼女が吸血鬼と呼ばれる者なのだから、それは仕方ない無い事だ。けれど、昼間はそれとして自分の生活は回っている。両立させるには、自己管理が甘かった。
 体調を崩したなどとフウが気付けば、最悪の場合、来ないと告げられてしまう可能性がある。
 自分と彼女は血を与えるだけの関係ではない。そう感じてはいても、断言出来ない以上、血を渡せる体調の維持は必須項目だろう。
 彼女を己の傍に、留めておきたいと願うのならば…。

 自嘲の思いに口を閉ざすフェリオを男は言いたげに見遣ったが、何かを言うこともない。
 不可思議に思い、彼を暫く眺めていたが、男は再び作業に戻り、黙々と続けるのみ。フェリオも諦め、何気なしに棚を眺めた。
 思わず息を飲む。

vampire、…Ein Vampir、吸血鬼…。

 読むことが可能だった言語がすべて、その名を題に掲げていた。まさかとは思う。けれど棚を埋め尽くしている書物が(吸血鬼)に係わるものだと推測も出来た。

 随分と前にフウが鏡に映らないと言っていた事を思い出す。
 不用意な発言に後悔をした。
 自分は血を与え、会話を交わし触れ合っているにも係わらず、彼女の事を何も知らなかった。傷つけてしまったのではないかと後悔して、もっと彼女を(吸血鬼)と呼ばれる彼等を知りたいと思った。
 並んでいる本はフェリオにとって魅力的に見える。それでも、訝しい気持ちもあり、手を伸ばす事は躊躇われる。

 クレフ教授の専門は考古学ではなかっただろか…なのに、その彼の研究室にあふれる資料が何故(吸血鬼)なのか?

「興味があるのは、嬉しいよ。」
 呼び掛けられて、振り返ればクレフ教授が笑顔を浮かべていた。「それは私のライフワークだ。」



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