十字架と聖水と祈りの言葉 松明を持つ人が また僕を殺しに来る   如月のえる


夜の東京の地下をめぐる地下鉄から、フェリオは降りた。人はまばらで、それでも出入りがなくなる訳ではない。不思議だ、といつも思う。夜の街に、人は何の用事で出かけるのだろう。
 降りたホームの目の前に時刻表があった。夜間になると電車以上に地下鉄は本数が少なくなる。帰りは終電より遅くなるだろうからタクシーか、あるいは彼女と一晩どこかで過ごすことになっても、どちらにしても金がいる。ズボンのポケットの上から財布に触れて、気持ちの上で所持金を確認して、フェリオは時刻表から目を離した。どちらかというと、終電よりは始発を気にしたほうが良いかもしれない。
 階段を上がって改札を上り、あらかじめ調べておいた方角に向かう。このあたりは幸い明るい。
 彼女は指定した場所で待っていた。見失うはずのない、東京タワーという目印の下で、フウがフェリオに手を振る。
「−待たせたか?すまない。」
 フウが首を横に振って、微笑む。このやり取りがなんとなく一般的なデートの待ち合わせっぽくて、フェリオは照れたように頬を赤くした。フウが首をかしげる。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや、なんでもない。」
 フェリオは慌てて首を横に振って答えた。そして左腕の腕時計を見て問う。「これからどうする?東京タワーにでも上るか?」
 冗談めいたフェリオの口調に、フウも表情を崩した。そして首を横に振る。
「いえ…ここには−。」
 そこまで言いかけて、フウは口を噤む。他の吸血鬼達と一緒によく上る事がある、などとは言えない。ましてや展望台の外で、和やかな会話を交わしているなど、自分が人間ではない証拠だ。そして、他の吸血鬼の存在も話すわけにはいかない。もちろん『他の誰かと』上った、と嘘はつけるが、彼女がフェリオ以外に人間と友好関係を築いているなどとは想像もつかないだろうし−。
 −万が一何かあっても、ヒカルとウミは危険には晒せない。
 咄嗟に口を噤んだ理由はそれだった。そしてそう考えた自分に愕然とする。自分は、まだ目の前の彼を『人間』として見ている。かつて、彼女を追いかけて殺そうとした人間達の一人として。
「−フウ?」
 急に俯いて無口になった彼女にフェリオが声をかける。その声にフウは我に返って、すみません、と顔を上げた。フェリオが苦笑する。「とりあえずここから出ようか。繁華街は−辞めた方が良いか?」
「…すみません。」
 再び俯いた彼女に、フェリオが何も言わずに彼女の頭を撫でた。フウが驚いて顔を上げた時には、フェリオはもう既に歩き出していた。一度ぐらい部屋の外で会ってみたい、と言ったのは珍しく彼女だった。そして、あまり人通りの激しい繁華街は怖い、と言ったのも彼女。そんな我侭に、フェリオは不平も言わず、むしろ協力的だった。涙が出そうになる。
 東京は一般的に眠らない街として知られているが、住宅街になると静かで夜の闇は深い。東京タワーからひたすら歩いて、繁華街を避けようとしてうっかり住宅街に入り込んでしまったらしい。フウの一歩先を歩いていたフェリオが頭を掻いた。
「参ったな。迷ったか?」
 そう言って微笑んで振り返ったフェリオに、フウは申し訳なさでいっぱいで、思わず言った。
「す、すみません…。」
 フェリオが目をぱちくりさせる。そして体をフウの方に向けると、言った。
「今日のお前は謝ってばかりだな。」
「…すみません…。」
「また謝った。」
 そう言って、フェリオがため息をつく。そのため息にフウの肩がぴくっと震えた。フェリオがぽつりと呟く。「…楽しみにしていたのは俺だけみたいじゃないか。」
「え…?」
 フウが目を見開いて顔を上げたその時、フェリオが咄嗟にフウの腕を引いて、自分の方に抱き寄せた。体勢を崩しかけて、彼の腕の中に抱きとめられ、自分の耳に彼の心臓の音が飛び込んでくる。キッという何かが擦れる音と、光が目の前をさえぎった。
「…っ、危ねぇ。」
 頭上でフェリオの舌打ちとそんな言葉が聞こえたが、フウには一瞬何が起こったのかわからなかった。ただ、目の前を通り過ぎた闇の中に浮かぶ光の残像に、自分がおびえている事に気づいた。
 −それは、松明の光。
 大声と共に、彼女の住む山に飛び込んできた人々の影と、松明の光。松明が恐ろしかったのではない。松明が浮かび上がらせる、人々の形相が恐ろしかった。
 −ああ、私達は『彼ら』の敵なのだ。
 そう瞬時に理解した。そしてそれをずっと信じていた。今彼女を抱きしめる彼に出会うまで。
 トクントクンッと彼の心音が低く耳に届いた。この彼の命の源を、彼女は分けてもらって生きている。
「−夜だからって、スピード出すなよな。」
 通り過ぎた自転車に文句を言いながら、大丈夫か、とフェリオがフウを覗き込む。フウが頷いた。恐怖に冷や汗を掻いたのは一瞬だったらしい。彼女はもう平常心を取り戻していた。
「ありがとうございます。」
 そう言って微笑んだフウに、フェリオが一瞬目をぱちくりさせて−微笑んだ。反対にフウが驚いてしまうほど、それは優しい微笑だった。
「フェリ…。」
「さてと。もう少し歩いて見るか。どこかに出れたら良いな。」
 そう言ってフェリオが踵を返す。フウは自分の手がいつの間にか彼に繋がれていることに気づいたが、それについては何も言わず、ただ、はい、とだけ答えた。一歩だけ彼の後ろを歩きながら、彼の手のぬくもりに思わず笑みがこぼれた。
 五分ほど歩くと、比較的大きな公園に出た。ベンチがあり、自動販売機がぽうっと光っている。一見誰もいないらしい。
「誰もいらっしゃいませんね。」
 公園に入ったところで、フウが言う。フェリオが同じようにあたりを見回しながら言った。
「こんな時間だしな。茂みの中に隠れてなきゃ、の話だが。」
「茂みの中で何をなさってるんです?」
「…いや、いいよ。気にするな。」
 フウの問いにフェリオはそう返答して、何か飲む、と問いつつ自動販売機に向かった。財布から小銭を取り出して、まずは自分の分を買う。少し遅れて隣に並んだフウを見ると、フウは困ったように並べられた缶のディスプレイを見つめていた。フェリオが苦笑して、問う。
「冷たいのと温かいの、どっちが良い?」
「つ、冷たいもの、でしょうか。」
「甘いのと、苦いのだったら?」
「…甘いもの、です。」
 フウの返答に、じゃあこれかな、とフェリオがひとつのボタンを押した。少し間をおいて、ガシャンッという音が下方からする。フェリオがしゃがんで、落ちてきた缶を取り出して、フウに渡す。
「嫌いだったら残して良いから。」
「あ、ありがとうございます。」
 渡された缶はひんやりとして気持ちよかった。フェリオの後に続いてベンチに腰をかけ、フェリオが器用に缶の蓋を開けるのを見て、見よう見まねで開ける。意外に力が必要だったが、何とか開いた。
 一口口に運ぶと、何か果実の甘味が広がった。どうやらジュースらしい。
「…おいしい。」
「それは良かった。」
 フェリオがにっこりと笑って、自分の買ったコーヒーを口に運ぶ。本当なら、それこそジュースやお茶にするところを、変に気取ってブラックコーヒーなどを買ってしまった。その苦味に思わず顔をしかめそうになるのを、かろうじて抑える。
 フウはそれを二口ほど飲んで、すぐに膝の上に休めてしまった。缶のふちで指でなぞっている。
「甘すぎたか?」
 フウの様子に気づいたフェリオが問いかける。フウが顔を上げて、慌てて首を横に振った。
「い、いえ、そういう訳では…!」
「じゃあ、何か悩み事?」
 そう言ってフェリオがコーヒーを飲み干す。フウは言葉を探っている様子だったので、フェリオは立ち上がって空の缶をくずかごに捨てた。再び戻って彼がフウの隣に座ったのを合図に、フウがぽつりと言う。
「悩み事…ではないと思います。ただ…。」
 顔を上げる。「…貴方は、私を生かしも殺しもできるのだな、と思って。」
 フェリオが息を呑んで口を開いたのに対し、フウは畳み込むようにして続けた。
「貴方が血をくれる事で、私は命を保っています。そして、貴方がそれを拒否すれば私は死ぬ。そして、貴方にはそれを決める権利がある。」
 一人の命で、二人の命を養っているようなものだ。いや、フェリオの命に、自分も乗っかっているだけ。すべての権限は、彼にあり、自分にはない。そして、自分はそれで良いと思っている。
「−それを言うなら、俺も同じだ。」
 意外な返答に、フウが、え、とフェリオを見た。フェリオが言う。「お前に会える日は嬉しいし、お前に会えない日は悲しい。お前がもう俺の元に来ない、と決めたら、俺にはどうする事もできないけど、俺は悲しいと思うよ。」
「それは違います!だって、私がいなくなっても−。」
 突然、フウは口を塞がれた。フェリオがフウを抱き寄せて、唇を奪う。
「…いなくなるなんて言うなよ。」
 唇が離れると同時にフェリオがかすれた声で言う。そんな彼に、フウが悲しげな表情で言った。
「でも…私の代わりはいくらでもいるでしょう…?」
「それならお前こそ、俺が血をやらないって言ったら、他のやつを探せば良いじゃないか。」
「そんな事は出来ません!」
 思わず即答したフウに、フェリオが微笑む。そして、それと一緒、と言って、フウの唇にまた自分のそれを重ねた。フウが目を閉じて、彼の肩に手を回す。右手は缶ジュースを持っているので、左腕だけ、彼の背中を過ぎて、肩をつかむ。
 −正直、怖いと思う。
 十字架もなく、聖水も用いず、ましてや祈りの言葉すら言わずに、彼は拒否することで彼女を殺せるのだ、と思うと、自分がどれだけ彼に依存しているのか、近い未来彼が朽ちた後に、自分はどうしたら良いのか、不安になって仕方がない。そしたらまた怯えるのだろうか。絶え間なく夜に浮かぶ光に、自分を殺そうとするかもしれない人間達に。
 そんな事を考えていると、思わずフェリオの肩をつかむフウの手に力が篭った。フェリオの左手が、彼女の体を滑って、フウの胸に触れる。咄嗟にフウが身をよじった拍子に、右手の缶からジュースが零れ落ちた。フウがぱっとフェリオから離れる。
「きゃっ…!」
「わ、悪い…。」
 幸いジュースは彼女自身にはかからず、直接地面に零れ落ちただけだった。それでも手に持った重さだけで、半分以上はなくなってしまった事が分かる。フウは少しため息をついて立ち上がった。フウ、とフェリオが背中越しに彼女の名前を呼ぶ。
「私、もう帰りますね。」
「す、すまない…!お、怒ってるのか…?」
 フェリオの言葉に、フウが振り返った。その表情は、フェリオの予想に反して、柔らかく、優しい微笑みだった。
「どうしてですか?」
「だって…俺…その…。」
 なんとなく恥ずかしくなってフェリオが俯くと、フウがくすっと笑うと、言った。
「早くお帰りになって、今晩は十分にお休みになってください。明日、テストでしょう?」
「…覚えていたのか。」
「ええ。」
 知っていて、無意識のうちにこの日時を設定したのかもしれない。それでも彼は文句も言わず出てきてくれた。それがとても嬉しい。
 今にもこの場を去りそうなフウを、フェリオが、待て、と呼び止める。フウが振り返った。
「血は…良いのか?」
 フェリオの言葉に、フウが目を見開いて−微笑んだ。そして首を横に振る。
「今日は貴方に会いたかっただけですから。」
 そういい残して、フウはふわりっと飛び上がった。すっと家を飛び越えて、あっという間にフェリオの視界から消えてしまう。
「…反則だ。」
 残されたフェリオがそう呟いて、顔を赤らめているとも知らずに。

 飛びながら、フウはジュースが零れないように細心の注意を払っていた。初めて彼が自分にくれたもの。もったいなくてなかなか飲めないでいたら、うっかりこぼしてしまったのが心残りでならないが、いつまでも取っておけるものでもないので、仕方がない。
 −彼は、確かに人間だ、とフウは思った。
 十字架も、聖水も持たない。それでも彼は彼女を殺せるし、松明は持っている。
 ただ、ひとつ違うのは、その松明に照らされた表情は、微笑だ、という事だけ。
 景色が開けて、夜空には月がぽっかりと浮かんでいた。あの夜と似ている、と思った。過去に幾度となくあった、彼女を人間達に狩りに来た夜。その思い出は、今でも恐怖として彼女の記憶に刻まれている。
 また、彼らが自分を殺しに来た。
 繰り返される恐怖体験の夢。夢の中では何度殺された事だろう。
 それが今なら言える。深い森の闇の中に浮かぶ松明の光に照らされた表情が恐怖と憎悪であっても、その中にひとつだけでも彼女に向けられた微笑みがあるのだとしたら、フウは、その微笑になら殺されても良いと思った。



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東京タワー周辺に住宅街があるかはノーコメントでお願いします(汗)


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