夜に咲く花を知らないか? 一度見てみたいんだよ   式部


いつものように訪れた後、そんなことをぽつりぽつりとフウが呟いた。
空には満月。ふと、フウが来るのは満月の日ばかりだと思う。
それにしても、彼女がこんなことを言うのは珍しい。どちらかと言えばフェリオの話を聞いているばかりで、自分のことをあまり話したがらない。フェリオはそのことを、あえて指摘することはなかったが。
「鏡を見ればいいじゃないか。」
ベッドで半身を起こし、笑いながら即答するフェリオに腕の中のフウは寂しそうに微笑む。
「褒めていただけるのは嬉しいですわ。でも、私は鏡には映りません。」
 彼女が自分の容貌がどのようであるか知らなかったのも無理からぬ話だ。フェリオは腑に落ちると共に、自分の無知を申し訳なく思う。
 こんなことばかりだ。いっそフェリオが民俗学でも専攻していれば話は少しでも違うのかもしれないが、その余裕は今のフェリオにはない。
「…知らなかった、ごめん。」
フェリオの腕の力がぐっと強まった。力を抜いたフウの体がくっとしなう。潤み、焦点をなくしたように惚けた瞳がフェリオを映す。
この瞳。この瞳が魅力的なのか恐ろしいのかフェリオには分からない。ただひどく惹かれるばかりだ。見ていられずに、目を閉じて唇を重ねた。フウもそっと目を閉じ、それに応じた。
指で彼女の犬歯をなぞる。ぴくり、震えた彼女の、意思を取り戻した恨みがましい目がフェリオを見上げた。
自分よりはるかに知識も経験もあるフウが、一体何を考えているのかフェリオにはいま一つ掴みきれない。これから先もし幸運にも付き合う、世に言う恋愛という状態になったとしても、彼女の思考や信条、生活やその歴史全てをフェリオが理解し、何より納得し、実感することはない。
が、なくとも愛することは出来ると信じている。
フェリオの見ている彼女は、普通の娘と変わらない。純情すぎるとまで思う。フェリオの愛情表現への反応にも愚直なまでに正直に素直に返してくる。が、これ自体吸血鬼の手練手管なのかもしれない。いつか。
いつか、食い殺されるのかも知れない。
それでも構わない。
フェリオにとってフウは花だ。
自分という養分なくしては咲き誇れない、自分だけの花。
桜の木の下には死体が埋まっている、と言う往年の作家の言葉を思い出す。フウは桜に似ているのかもしれない。自分をゆるく優しく取り巻いて、養分を吸い上げる。そしてはるか頭上で美しく咲き誇る。
フェリオの死後、自分という形が、この恋がそう残るのなら、万事OKというものではないだろうか。吸血鬼のと言う種族はともかく、恋とは元来そうして終わるべきものなのだから。
物思いに耽りつつ唇を動かしていると、ちくりと舌に刺されたという感覚が走った。思わず戻そうとするが戻せない。唾液に絡めて血を飲んでいるのか。
腹が減ったのか、と思い、フェリオはフウがするままに力を抜いた。しばらく弄んだ後するり、離される。
「…お前がそういうことをするとはな、」
「…ご、」
ごめんなさいと顔を赤らめ、顔を伏せて蚊の鳴くような声で言う彼女は純情そのものだ。赤くなった彼女の首筋につつっと指を這わせる。器用に指先でなで上げた。
「…っ!!」
実は首が弱い、なんてことを知ったのはつい最近のこと。
「なんでされたか、判るよな?」
眠気が急にたゆたう中、出来るだけ邪気の見えないようにフェリオは微笑んだ。
「意地悪ですわ。」
その上目遣いの瞳が、少し笑ってぽそりといった唇が愛おしい。
妖しいような不思議な香りのする彼女の髪に顔をうずめ、フェリオは目を閉じた。

「な、フウ。俺は思うんだよ、俺たちの繋がりこそ夜に咲く花じゃないかって。」
眠たげな声で言ったその言葉を、本人は覚えているかどうか。

寝息をたてているフェリオを傍らに、フウはその寝顔を眺めた。
彼とこんな間柄になる日をずっと望んでいた。叶うとは、思っていなかったけれども。
彼の髪をそっと梳いてみる。自分とは全く色も質の異なる硬い髪。シャンプーの匂いがふわりとして、フウは目を細める。好きな相手と傍にいる。ただそれだけのことが今のフウには、笑みのこぼれるほど気持ちが弾む。
長くとも、驚異的に長い寿命を保っていても、自分の今までの人生は何だったのだろうと思う。無味乾燥、としか言いようがない。このような喜びは初めてだった。
その髪を撫で、頬を軽くつつきながら、フェリオの眠りに落ちる直前の言葉をぼんやりと思い出した。
 何が言いたかったのだろう。夜に咲く花が、フウたちの関係だ、なんて。
この関係も不滅ではないと、儚いものであるといいたかったのだろうか。
花は好きだ。でも、あの儚さは嫌いになった。
人間の−フェリオの、将来を思わせるから。
その連想にぞくり、とフウの背筋が凍る。そう言えば、今日は満月ではなかったか。
花。満月。眠る人。春でないのがせめてもの救いだ。
そんなことを歌った歌人がいなかっただろうか。
フウは思わず、フェリオの心臓に手を当てた。
どくん、どくん、と力強い鼓動が聞こえる。フウに、誰よりフェリオ自身に生命を与えるこの鼓動。第二の自分の心臓とも言うべきそれを確かめてでも、彼女の不安は拭えなかった。
 この心臓とていつかは止まる。そうすれば。
フウは、いつか。
いつか、こんな、こんな穏やかな顔をしたフェリオの顔を見なくてはならないのだろうか。

死に顔として。

 ぎゅ、と強く抱きしめられて、フェリオは目を覚ました。未だ部屋は暗い。時計の光る文字盤を見れば、未だ深夜と呼べる時間だ。が、そんなことは大した問題ではない。
 フウが日頃の慎み深さも忘れ、フェリオの身体を抱きしめて震えている。その身体の肉の柔らかさより、下の骨の存在を感じさせるほど強く。そちらの方がよほど問題だった。
「どうした…?悪い夢でも見たか?」
優しく問い、肩をそっとさする。フウの身体が大きく息をついて、震えがとまった。
「…ごめんなさい、」
ごめんなさい、ともう一度、吐く息に混ぜて言う。起こしてしまって、と微笑んだ笑顔には、いつものような柔らかさはなかった。
「フウ、」
呼ばれた声に顔を上げると、頭をそっと撫でられた。驚いて、思わず振り払いそうになる。
「何があったんだ?」
「……」
黙ったままのフウを、あやすようにフェリオが抱きしめる。
「言いたくない、か?」
ひどく甘やかされた状態で、こくりとフウが肯いた。
「判った。」
 但し、とフェリオが意地悪そうに付け加えた。
「傍にいてくれないか?俺が眠るまでで良いから。」
 フウは返事をする代わりに、そっとフェリオの腕を自分の頭に添えた。まるで子供に寝物語を聞かせるような体勢で、フェリオがフウの頬を撫でた。
「さっき話していた、夜に咲く花…だっけ?咲いている花、だったら見に行くことは出来るよな。」
はい、とフウが肯く。
「春になって何か咲いたら、見に行こう。きっと綺麗だから。」
彼女はもう一度肯いて、彼の顔にそっと頬を寄せた。
後どれだけ、彼とそんな花を見ることが出来るのだろう、と考えながら。


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