食事と繁殖をひとつにした 素晴らしい合理性だと思うんだが   如月のえる


 暖かい風が吹き込んできて、フェリオは顔を上げた。机の上に広げられた参考書が、まるで見えない手に操られているようにページが捲られて行く。窓の両脇に落ち着いていた白いカーテンがふわりっと舞い上がった。
 フェリオが立ち上がり、網戸を開けて入ってきた少女に向かって苦笑する。
「いい加減に玄関から入って来いよ、フウ。窓からだといくらなんでも目立つだろ?」
 少女は、しかし、フェリオの言葉に、微笑み返すだけだった。
 白いワンピースを着て、微笑むフウと呼ばれた少女の姿を、天使に喩える人はきっと多いだろう。白い肌に、深みを帯びた翡翠色の瞳。ふわりっとした金色の髪。どこか人間離れしている。そして、彼女は天使ではなく−吸血鬼だった。
「…いいんです。私はここからで。」
 静かに首を横に振って、フウが答える。フェリオが、少し表情を硬くした。しかし直ぐに苦笑に変えて、フウの方に歩み寄りながら言う。
「全く…俺が窓を閉めていたらどうするんだ?」
 フェリオの部屋は、マンションの一室になる。ガラス窓には鍵がついているのだが、網戸にすると鍵はついていない。フウは毎度それを開けて、窓から入ってくるのだ。
「その時は帰ります。」
 間髪いれずに答えたフウに、フェリオが足を止めた。目を細める。
「…俺がもう、お前に血をやらない、と言ったら?」
 フェリオの問いに、フウがぴくっと肩を震わせた。それから、一拍間をおいて答える。
「…別の方を探します。」
 しばし、二人は見詰め合っていた。微かに緊迫したその空気を最初に緩め、微笑んで言葉を発したのはフェリオだった。
「冗談だよ−血だろう?」
 そう言って、フェリオはフウの返答を聞く前に、着ているシャツのボタンを開けた。鎖骨が見えて、白い肌に青白い血管が浮かぶ。それは、血を糧とする吸血鬼にとっては耐え難いほどの御馳走であろうに、フウはそれを見て視線を伏せた。
 フェリオがそれに気づいて、ボタンを三つまで外した手を放して、彼女の肩を掴んだ。はっと息を呑んで顔を上げたフウの唇を、フェリオが無理やり奪う。フウが目を見開き、そして両腕を力いっぱいフェリオの胸に突き出して、彼を突き放した。予期していなかった彼女の力強い抵抗に、フェリオが後方にたたらを踏む。二歩ほど下がって顔を上げると、フウが怯えた−というより困惑した顔で、口元に手を当てて、フェリオを見つめていた。
「な、何を…。」
「フウ−。」
「来ないで!」
 フウの悲鳴に近い声に、フェリオが足を止めた。フウが一歩、二歩と後ろに下がり、そして網戸が開けっ放しの、入ってきた窓に手を掛けると、彼に背を向けて、そこから飛び出した。彼女の姿が完全に見えなくなって、初めて、フェリオは呪縛から解かれた様に窓に駆け寄り、縁に手を掛けて外を覗き込んだが、もう白いワンピースの少女は確認できなかった。
「…何やってんだ、俺は…。」
 そう自分に毒づいて、彼は頭を抱えて、その場にずるずると座り込んだ。彼女の今にも泣き出しそうな顔が忘れられない。人間に恐れられている吸血鬼が、キス一つであそこまで怯えるとは思わなかった。
 −好きな女を泣かせてるなんて最低だ…。−
 彼女はもう来ないかもしれない。そうすれば、彼はもう彼女に会えなくなる。それが悲しい。
 暖かかった風は、いつの間にか北風に変わり、フェリオの部屋の室温を徐々に下げていた。


 翌日、フェリオはベッドの上に横になっていた。授業があるのだが、昨日の事があってどうも行く気にならない。幸い今日は授業が一つだけしかない。滅多に休んだことがないから、成績にもそう影響はないだろう。
 夜六時を過ぎて、外が暗くなってきたのを見て、フェリオはいつもの習慣で窓を開けた。そして無意識のうちにそれをしている自分に苦笑する。まさか彼女が来るわけがないのに。
 それでも、この窓を閉めれば、僅かにでも彼女に会えるかもしれない可能性をゼロにしてしまうのだ、と思うと、窓を閉める訳には行かなかった。
「…フウ…。」
 会いたい。例え相手は自分を食料ぐらいにしか思っていなくても、自分は、彼女を一人の女性として見ていた。誰よりも、愛しい女性として。
 その時、玄関口の扉からノックの音が聞こえ、フェリオははっと振り返った。そして自分の部屋を飛び出し、粗末な台所を経て、玄関を開けた。その勢いに、ドアの向こう側にいた人物が驚いて声を上げる。
「わ!ど、どうしたのさ、フェリオ?」
 ひょろりと背の高い青年がそこに立っていた。フェリオはしばし目をぱちくりさせ、息切れしている呼吸を整え、深いため息をついた。
「なんだ…アスコットか。」
「なんだっていうのは酷いな。」
 アスコットが苦笑して、もったいぶった様子で、一枚の紙をぴらぴらとフェリオの前で振って見せた。「折角宿題持ってきたのに。」
「お、悪いな。」
 そう言って、フェリオが笑う。その宿題の紙を渡しながら、アスコットが怪訝そうな顔で言った。
「それにしてもどうしたの?フェリオが授業を休むなんて珍しい。」
「ちょっと風邪気味。」
「もの凄い足音立てて、勢いよく飛び出してきた人が風邪?もう少し上手い嘘つきなよ、フェリオ。」
「考えておくよ。」
 苦笑しながら、フェリオが答える。その時、フェリオの勉強部屋兼寝室からカタンッという音がした。フェリオがはっと振り返る。アスコットが首をかしげた。
「あれ?今何か物音−。」
「悪い、アスコット!この礼はまた明日する!」
「えっ、ちょっ−。」
 そう言い放ち、アスコットの返事も待たず、フェリオは扉を閉めた。そして軽く閉められた勉強部屋の扉を開ける。そして思わず微笑んだ。
「フウ…−。」
 窓際に、彼女が立っていた。フェリオが入ってきたのに気づいて、びくっと体を震わせたのが分かり、フェリオは思わず彼女に寄りかけた足を止めて、扉を閉じた手を挙げた。
「…昨日はすまない。もうああいう事はしない。」
 フウが、フェリオを睨む。フェリオが、彼女を見返した。怒っている様子ではない。むしろ、どこか悲しげにフェリオを見つめていた。
「フウ−。」
「−貴方は、私が怖くはないのですか?」
 彼女の口から飛び出してきた、突然の質問に、フェリオは目をぱちくりさせ−笑った。
「キス一つで人間を怖がるような吸血鬼を、どうやって怖がれって言うんだよ。」
 そう、彼女は吸血鬼だ。実際に、彼女は自分の血を吸っているし、その場面を何度も見ている。
 それでも、フェリオにとって、フウはただの女の子だった。彼女が何であろうと関係ない−彼女が好きだ、と、そう感じる。
 フェリオの答えが気に入らなかったのか、フウはムッとしたように口をへの字に曲げ、眉をひそめた。それからそっぽを向いたように、つんっと視線をそむけた。
「突然あんな事をするからです。」
「じゃあ、突然じゃなかったら良い?」
 フェリオの言葉に、フウがフェリオに視線を戻す。フェリオが、一歩、どこか恐る恐ると言った様に彼女に近寄った。彼女は、逃げない。「俺は、お前をそういう風に見ている。俺は−。」
「…どうして?」
 彼の声を遮って、彼女が掠れた声で問う。フェリオが、言葉を止めた。彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちたかと思うと、それをきっかけに、はらはらと涙が流れ出した。フウ、とフェリオが名前を呟く。フウが、苦しそうに言う。
「どうしてそんなにはっきりと言えるのですか?私は…貴方が大切になったらと思うと…怖い…。」
「…怖い?」
「…貴方の血を飲めなくなりそうで…。」
 血を吸われた方は、吸血鬼にはならないし、その傷も直ぐに癒える。量によっては多少貧血にいたるかもしれないが、摂取量に気をつけていれば、失血で死にいたる事もない。それでも、毎度多少の痛みは伴うし、何より相手の血を吸っている自分が恐ろしくなる。
 彼との違いを突きつけられたようで。
「−何で?」
 彼女の掠れた本心の告白を、フェリオはその一言で消し去った。フウが息を呑んでフェリオを見上げる。意外にも、フェリオはもう直ぐ傍まで来ていた。
 窓から入ってくるのは、その違いを意識するためだ。彼女は、彼の他の−人間の−友人とは違う。彼はただ食料。彼が血をくれなくなったら、別の食料を探すまで。
 それなのに−。
 フェリオが、美しい金色の瞳で、フウを見つめている。
「俺にしてみれば、食事と繁殖をひとつにした、素晴らしい合理性だと思うんだが。」
 フェリオの言葉に、フウが目を見開き−頬を赤く染めた。思わず、フウの足が一歩下がるが、同時にフェリオが一歩踏み込んで、彼女の背中にある窓を勢いよく閉めた。流れ込んでいた風がせき止められる。
 冷たい窓が背中に、顔面にはフェリオの暖かい吐息が感じられる。
「フェリ−。」
 唇が触れた。何度も唇を重ねた後、二人が見詰め合う。フウの潤んだ目が、フェリオの理性を一気に揺るがせた。
「…逃げるなら、逃げてくれよ。」
 カーテンは閉じていない。窓もまだ鍵をかけていない。彼女は背中の窓を開ければ、すぐに部屋から飛び出せる−昨日のように。
 しかし、フウは首を横に振った。そして顔を上げると、自分を見つめている彼の頬を両手で挟むと、ついばむように口付けた。
 −私は彼を独占する。
 食料として−一人の男性として。
 後ろで、カシャンッという金属製の音がし、カーテンが勢いよく閉められたのが分かった。カーテンを巻き込むようにして抱きしめられる。絡めるような口付けを交わしながら、二人は夜の闇に溶け込んだ。


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